クレンツェ(その他表記)Franz Karl Leo von Klenze

改訂新版 世界大百科事典 「クレンツェ」の意味・わかりやすい解説

クレンツェ
Franz Karl Leo von Klenze
生没年:1784-1864

ドイツの新古典主義の建築家。パリでP.F.L.フォンテーヌとC.ペルシエに建築を学び,バイエルン国王ルートウィヒ1世の下,宮廷建築家としてミュンヘンで活躍。ルートウィヒ通りの街路計画のほか,彫刻館グリュプトテーク(1828),絵画館ピナコテーク(1836),都市門プロピュレーン(1860)などを設計し,古代の都市イメージを復活させた。またギリシアでの考古学調査を通して正確なギリシア様式復興を推進,ギリシア神殿を模したワルラハ(1860)を設計。古代の建築を題材とした絵画も残した。同国王の下で建築家ゲルトナーFriedrich Ritter von Gärtner(1792-1847)と競合,建築思潮が歴史主義に転じるに伴い,国王の好みはゲルトナーに移った。ゲルトナーはルートウィヒ通りのルートウィヒ教会(1844),バイエルン国立図書館(1842),凱旋門(1852)などを設計,多様な歴史様式を使い分け,またルントボーゲン(丸アーチ)様式で知られる。
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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「クレンツェ」の意味・わかりやすい解説

クレンツェ
Klenze, Leo von

[生]1784.2.29. ハルベルシュタット
[没]1864.1.27. ミュンヘン
ドイツの建築家,考古学者。ベルリンで A.ヒルトに,パリで C.ペルシエおよび P.フォンテーヌに学ぶ。 1804年カッセルで宮廷建築家となったが,16年以後はミュンヘンに定住,もっぱらバイエルン王室のために制作した。 18年にイタリアを旅行。 34年には外交使節としてギリシアにおもむき,アテネの古代遺品を研究してドイツの考古学の創始者となった。 39年から 51年にかけてロシア皇帝アレクサンドル2世の招きでたびたびペテルブルグにおもむき,エルミタージュ美術館を建築 (1839~49) 。その他の作品としてミュンヘンのグリュプトテーク (16~31) ,ピナコテーク (26~36) ,レーゲンスブルクのワルハラー (30~42) ,プロピュレーエン (46~60) などの重要な新古典主義建築がある。

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世界大百科事典(旧版)内のクレンツェの言及

【アルテ・ピナコテーク】より

…創設は1836年。バイエルン国王マクシミリアン1世が,それまで王宮や離宮にあった16世紀以来のバイエルン公の収集を一堂に集め一般公開したもので,ルートウィヒ1世の命により作られた建物は新古典主義建築の巨匠クレンツェの設計による。創建当初は王立,現在はバイエルン州立である。…

【ドイツ美術】より

…ウィンケルマンの《古代美術史》(1764)はこの風潮に思想的指針を与えた。 ドイツにおける古典主義の動向は,19世紀初頭のワインブレンナーFriedrich Weinbrenner(1766‐1826)のカールスルーエ都市設計に早くも具体化し,ベルリンのシンケルとミュンヘンのクレンツェがこれを受け継ぐ。前者の手になるベルリンのシャウシュピールハウス(旧王立劇場。…

※「クレンツェ」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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