ジャルダンデプラント(その他表記)Jardin des Plantes

改訂新版 世界大百科事典 「ジャルダンデプラント」の意味・わかりやすい解説

ジャルダン・デ・プラント
Jardin des Plantes

正しくは〈王立植物園〉ジャルダン・デュ・ロアJardin du Roi。フランス革命後は国立自然史博物館となり今日にいたる。パリの植物園とも呼ばれるが,動物園をももち,また鉱物や魚貝類を含めた動物標本をも多数収集し,同時にまた学術研究機関でもある。

 1616年に,フランス国王ルイ13世の侍医ブロスG.de La Brosse(1586ころ-1641)が建設を申し出,26年に創立勅令が出た。33年にパリの南東部に用地を得て,35年には勅令によって体制を整え,40年に開園となった。当初の正式名称は王立薬草園であり,薬草栽培と研究が行われた。初代園長ブロスは,パラケルスス派の医師として,薬化学の実験をも行った。その後なん代かして,ブロスのおいファゴンG.C.Fagon(1638-1718)が園長になると,J.P.deトゥルヌフォール,アントアーヌ・ド・ジュシューAntoine de Jussieu(1686-1758)らの学者がここで研究を行い植物分類学研究の中心地となった。さらに1739年にはヨーロッパ中に名声を馳せたG.L.L.ビュフォンが園長となり,その後半世紀にわたりその地位にあった。この間に園の拡張が行われ,81年には,ほぼ現在と同じ規模をもつようになった。ビュフォン個人の名声と,彼の指導のもとに刊行された《博物誌》全15巻(1749-68)などによって,王立植物園の名声が高まった。

 フランス革命が起こり王制が廃止されると改組が行われ,93年に国立自然史博物館となった。革命前からここに所属していたJ.B.deラマルクは,改組後教授となり研究に従事した。その後E.ジョフロア・サン・ティレールも,またラマルクとは対立したG.L.C.F.D.キュビエも教授となり,彼の名声とその著《動物自然史要綱》(1798)は,ヨーロッパ各国に広がった。このころが王立植物園以来の研究の最盛期であり,その後他国にも同種の機関がつくられるようになり,かつてほどの名声はなくなったとはいえ,今日でも創立以来の伝統はつづいており,自然史分野での研究が行われている。
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出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報

世界大百科事典(旧版)内のジャルダンデプラントの言及

【動物園】より

…この一般に門戸を開くという点は動物園として欠くことのできない条件の一つと考えられている。 同じく18世紀に公開されたパリのジャルダン・デ・プラント付属のメナジュリーménagerie(動物飼育場)も歴史上重要な位置を占めている。もともとジャルダン・デ・ロア(王室の庭)とよばれる薬草園兼植物園であったが,フランス革命後ジャルダン・デ・プラントと呼ばれ,さらに1793年に改組拡充されて国立自然誌博物館となり,その一隅に動物の飼育場が設けられた。…

※「ジャルダンデプラント」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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