岩国城下の中心で、領主の居館をはじめ上層武家屋敷が集中する武家地に、一部の寺社地および城下建設後にできた町地の
東大寺文書に「大内介知行所領」として、周防国一七ヵ所を列記するなかに「一所 横山」とみえる。この文書は周防国が東大寺造営料国にあてられた文治二年(一一八六)をあまり下らない時期のものと考えられる。また永興寺旧蔵文書のうち、至徳三年(一三八六)四月七日付のものに「永興寺領 周防国屋代庄北方、石国本庄内横山向棚井、(中略)右任大内左京権大夫義弘朝臣申請、可令為当寺領之状如件」とあり、鎌倉時代に大内氏の所領であった横山が、南北朝時代にこの地にあった
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
出典 日外アソシエーツ「歌舞伎・浄瑠璃外題よみかた辞典」歌舞伎・浄瑠璃外題よみかた辞典について 情報
…北は酒田市,南は鶴岡市に接し,両市を結ぶ国道7号線が赤川沿いに通る。中世には横山に武藤氏の横山城があった。江戸時代には庄内藩領であった。…
…これが現在の元八王子である。1590年同城が豊臣秀吉軍によって落城し,後北条氏が滅びると徳川氏が関東に入国し,代官頭大久保長安のもとに関東十八代官と千人頭(八王子千人同心)と組頭を,甲州路と鎌倉街道の交差する横山の地に集住させて江戸防衛の民政・軍事の拠点とした。次いで元八王子から旧城下の定期市を移転させたため,以後,横山は在郷町として発展した。…
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出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
中国のゴビ砂漠などの砂がジェット気流に乗って日本へ飛来したとみられる黄色の砂。西日本に多く,九州西岸では年間 10日ぐらい,東岸では2日ぐらい降る。大陸砂漠の砂嵐の盛んな春に多いが,まれに冬にも起る。...