日本大百科全書(ニッポニカ) 「セックス・ピストルズ」の意味・わかりやすい解説
セックス・ピストルズ
せっくすぴすとるず
Sex Pistols
パンク・ロックを象徴するイギリスのグループ。1975年、当時ニューヨークで勃興していたニューヨーク・パンク・シーンを目撃したマルコム・マクラーレンは、ロンドンにあった自身のファッション・ブティック「セックス」にたむろしていた若者が結成していたグループ、スワンカーズの解散後、新たなメンバーを追加してパンク・グループ、セックス・ピストルズを結成させる。メンバーはジョニー・ロットンJohnny Rotten(1956― 、ボーカル。本名ジョン・ライドンJohn Lydon)、スティーブ・ジョーンズSteve Jones(1955― 、ギター)、グレン・マトロックGlen Matlock(1956― 、ベース)、ポール・クックPaul Cook(1956― 、ドラムス)の4人。1975年11月セント・マーチン美術学校でのライブを皮切りに活動を開始したセックス・ピストルズは、挑発的な言動によってライブのたびに大騒ぎを引き起こし、ライブ・ハウスから締め出しをくらうのもしばしばであった。
1976年EMIと契約し、シングル「アナーキー・イン・ザ・UK」でデビューするが、過激な歌詞が問題となり放送禁止となる。そのためEMIは契約破棄を通告し、バンドはごねた末巨額の違約金をせしめたあげくにEMIとの契約を破棄する。この間、マトロックはマクラーレンと衝突しグループを首になり、代わってシド・ビシャスSid Vicious(1957―1979、ベース)が加入することになる。
1977年3月、A&Mと契約を取り付けレコーディングを開始するが、諸方面からの批判を受けて数週間後にA&Mもセックス・ピストルズとの契約を破棄。5月にバージン・レコードとの契約が決まり、シングル「ゴッド・セイブ・ザ・クイーン」を発表。エリザベス女王の戴冠25周年を祝う式典にあわせて、テムズ川に浮かべた船の上でこの曲を大音量で演奏し、マクラーレンらが一時警官に拘束される騒ぎを起こす。この曲もまた放送禁止になったが、1週間で15万枚のセールスを記録しヒットチャート1位を獲得する。が、チャートに掲載された1位の曲名は空白のままにされた。
セックス・ピストルズは傷害事件や暴行事件を起こすなどマスメディアの非難をうけるが、マクラーレンは意に介さず、1977年10月にファースト・アルバム『勝手にしやがれ!!』をリリース、セックス・ピストルズとパンク・ロックの人気は頂点に達する。しかし1978年1月、アメリカ・ツアーを行ったが予想に反して評価を得られず、サンフランシスコで終了したツアーの直後、ロットンは脱退する。
マクラーレンは列車強盗犯でブラジルに亡命していたロナルド・ビッグズRonald Biggs(1929―2013)をボーカルに迎え、ニュー・セックス・ピストルズとしてシングル「ノー・ワン・イズ・イノセント/マイ・ウェイ」をリリース、また『グレート・ロックンロール・スウィンドル』(1978)などの編集アルバムを発表するが、1979年2月にビシャスがヘロイン中毒により死亡し、セックス・ピストルズは消滅した。
セックス・ピストルズはロンドン・パンクの代表的グループであっただけにとどまらず、パンク・ロック総体のイメージを決定した存在である。彼らの音楽自体はストレートで伝統的なロックン・ロールでしかなかったが、アナーキズム的歌詞とナチスの鍵十字を同居させる混乱した政治的表象と、ぼろ着とボンデージ・スタイルを組み合わせ頭髪を逆立てた過激なファッションは、パンクの文化的アナーキズムのスタイルを定式化した。セックス・ピストルズが投げかけた「なんでもあり、しかし過激にやれ」というメッセージは、後のロック・ミュージックや若者文化に多大な影響を及ぼし、膨大なフォロワーを生むことになった。
また、1996年に一時再結成しワールドツアーを行っている。
[増田 聡]
『フレッド・ヴァーモレル、ジュディ・ヴァーモレル著、野間けい子訳『セックス・ピストルズ・インサイドストーリー』(1986・シンコー・ミュージック)』▽『ジョン・サヴェージ著、水上はるこ訳『イングランズ・ドリーミング――セックス・ピストルズとパンク・ロック』(1995・シンコー・ミュージック)』▽『ポール・バージェス、アラン・パーカー著、西川真理子訳『セックス・ピストルズ/コンプリートファイルサテライト』(2000・クロックワークス)』