ロック(読み)ろっく(英語表記)John Locke

日本大百科全書(ニッポニカ) 「ロック」の意味・わかりやすい解説

ロック(ポピュラー音楽)
ろっく
rock

20世紀後半にもっとも人気のあったポピュラー音楽の一つ。電気エネルギーで成り立っている産業社会を象徴するポピュラー音楽ともいわれる。基本的には8(エイト)ビートのリズムを強調した、若者向けの大音量のエレクトリックな音楽という意味で使われる。ただし1960年代後半以降は内容や聴衆が多様化しているので、実際はそれにとどまらない広範な音楽が含まれている。ロックン・ロールrock'n'roll(rock and roll)ということばは、しばしばロックと同じ意味で使われるが、狭義には1950年代のロックとそのスタイルにならった音楽、あるいはダンス音楽的な要素の強いロックをさす。

[北中正和]

ロックン・ロールの誕生とその特徴

rock(揺れる、振動)やroll(転がる、揺れ)ということばは、古くからアメリカのポピュラー音楽の歌詞では性的なニュアンスをこめて使われていたが、1950年代前半にラジオ番組のDJ(ディスク・ジョッキー)アラン・フリードAlan Freed(1922―1965)がアフリカ系アメリカ人のコーラス音楽やジャンプ・ブルース、リズム・アンド・ブルース(R&B)の一部をロックン・ロールとよんで紹介してから、音楽のジャンルを意味することばとして広まった。そのころはまだ電気楽器はあまり使われていなかったが、1955年の映画『暴力教室』にカントリー系のビル・ヘイリー・アンド・ヒズ・コメッツの『ロック・アラウンド・ザ・クロック』が使われ、1956年にエルビス・プレスリーが『ハートブレイク・ホテル』などのヒットで若者の人気を集めたころから、白人アーティストによるエレクトリックな音楽をさして、ロックン・ロールとよぶことが多くなった。

 ロックン・ロールの先駆者としては、ほかにチャック・ベリー、リトル・リチャードLittle Richard(1932―2020)、ファッツ・ドミノ、ボ・ディドリーBo Diddley(1928―2008)、ジェリー・リー・ルイスJerry Lee Lewis(1935―2022)、カール・パーキンスCarl Perkins(1932―1998)、バディ・ホリーBuddy Holly(1936―1959)などがいる。主要な音楽都市としては、メンフィス、ニュー・オーリンズ、シカゴ、ニューヨークフィラデルフィアなどがあげられる。初期のエルビス・プレスリーの音楽はリズム・アンド・ブルースとヒルビリー(南部のカントリー音楽)の影響を強く受けていたので、ロカビリーrock-a-billyともよばれた。チャック・ベリーやボ・ディドリーはラテン系の音楽の影響も受けていた。

 1950年代中・後期のロックン・ロールには、次のような特徴がみられるものが多い。

(1)メロディや使われるコード(和音)が単純明快。

(2)8ビートのダンス向けの音楽だが、1930年代~1940年代のダンス音楽であるスウィング・ジャズ以来の4(フォー)ビートの感覚も受け継いでいる。

(3)歌詞はティーンエイジャーの日常生活の出来事を素材にしている。

(4)少人数のグループで演奏され、リード楽器としてエレクトリック・ギター(電気ギター)、ピアノ、サックスなどが使われる。

(5)正確さより荒々しさや音量が強調され、歌手や演奏者はリズムにあわせて体を大きく動かしながら歌い、演奏する。

[北中正和]

ロックン・ロールからロックへ

第二次世界大戦後のアメリカ社会では好景気が続き、2000万人にのぼるベビー・ブーマー(日本でいう団塊の世代にあたり、その多くは当時の白人中産階級の若者)が、大人と違う好みをもつ消費者として登場してきた。しかし画一的な大量生産・大量消費を前提とする社会になじめない若者も少なくなかった。その気分を代弁したのが、『暴力教室』や『理由なき反抗』といった青春映画や、ロックン・ロールのような音楽だった。1950年代後半の5年間で、アメリカのレコード売上額は3倍の6億ドルに増えたが、5年間のヒット曲のトップ・テンのうち4割がロックン・ロールのレコードで、しかもその3分の2がインディーズ(小・中規模のレコード会社)の作品だった。また、その時期はメディアの変革期でもあり、1949年に登場した45回転のアナログ・シングル盤と旧来の78回転SPレコードの生産枚数は、ロックン・ロール・ブームのさなかの1957年に逆転した。

 ロックン・ロールのブームは1960年前後にいったん失速したが、1960年代中期には1950年代を上回る勢いで世界中に広がった。口火は1964年にイギリスのビートルズやローリング・ストーンズの音楽が、アメリカで爆発的な人気をよんだことだった。フォーク歌手のボブ・ディランや、ビートルズ以前から人気のあったビーチ・ボーイズなどもその動きに呼応し、アメリカやイギリス各地から無数のアーティストが登場した。そのなかでさまざまな音楽的実験が行われ、表現が飛躍的に複雑化し、1950年代的なスタイルを連想させるロックン・ロールにかわって、ロックということばが定着した。音楽の変化の背景には、ベトナム戦争の拡大と世界的な規模での反戦運動、アメリカの公民権運動、学園闘争、ヒッピーのドラッグ文化など、1960年代の社会のさまざまな動きがあった。

 当時登場したおもなアーティストやグループの一部を紹介しておくと、エレクトリック・ギターの演奏に革命をもたらしたジミ・ヘンドリックス、女性歌手の草分けにしてシャウト(絶叫)するボーカルの先駆者ジャニス・ジョプリン、ジャズ的な即興演奏でロックの幅を広げたクリーム、ハード・ロックの基礎をつくったザ・フーやレッド・ツェッペリン、カントリー的な要素を取り入れたザ・バンドやクロスビー・スティルス・ナッシュ・アンド・ヤング(CSN&Y)、クラシックや現代音楽の手法を使ったフランク・ザッパ、ベルベット・アンダーグラウンド、ピンク・フロイド、キング・クリムゾンなどがあげられる。主要な音楽都市は、サンフランシスコロサンゼルス、ニューヨーク、デトロイト、メンフィス、ロンドンなどだった。当時のヒッピーのメッカ、サンフランシスコにほど近いリゾート地モンタレーで行われたモンタレー・ポップ・フェスティバル(1967)、ニューヨーク郊外のベセルで行われたウッドストック・アート・アンド・ミュージック・フェア(1969)などは、大規模なロック・フェスティバルの先駆けとなった。

[北中正和]

多様化と成熟と先祖返り

1960年代には無限の可能性を秘めているように思われたロックだが、1969年末にカリフォルニアのオルタモントで行われたローリング・ストーンズのフリー・コンサートで、観客が会場警備員に殺害された事件は、反戦や平和と結び付いてきたロックのイメージを大きく傷つけた。1970年代に入って、ビートルズの解散や、ジミ・ヘンドリックス、ジャニス・ジョプリン、ジム・モリソンJim Morrison(1943―1971)らの薬物による落命が相次ぐと、ロックの未来に対する楽天的な期待はさらに薄れた。1970年代に入って新たにみられた傾向は、シンガー・ソングライターの内省的な歌やエンターテイメント色の強いロックの増加、音楽の多様化などだった。1960年代に始まった音楽的実験はより洗練され、ハード・ロック/ヘビー・メタル、プログレッシブ・ロック、ジャズ・ロック、グラム・ロック、カントリー・ロック、サザン・ロックなどさまざまなスタイルの音楽が人気を集めた。リズム・アンド・ブルースから生まれたファンクfunkの16ビートや、ジャマイカのレゲエreggaeのリズムもロックに影響を及ぼした。また、ロックン・ロール/ロック世代の社会人が増えるにつれて、ロックは成熟した大人の音楽としての性格を帯び、その一部はAOR(アダルト・オリエンテッド・ロック)とよばれた。

 1960年代に2.5倍に成長したアメリカのレコード売上額は、1977年にはさらにその倍近くの30億ドルに膨れ上がった。1970年代中期にはフリートウッド・マック、イーグルスなどアルバムを1000万枚以上売るアーティストが初めて現われ、スタジアムを使うコンサート・ツアーが一般化し、ロックは完全に音楽産業の主力商品となった。一方、1970年代中期のニューヨークやロンドンでは、パティ・スミス・グループ、セックス・ピストルズ、クラッシュなどが商業的に巨大化したロックに背を向け、原点回帰的なロックン・ロールを演奏して注目を集め、パンク・ロックpunk rockとよばれた。その周辺から登場したポリス、トーキング・ヘッズ、U2、REMらニュー・ウェーブnew waveと称された一連のグループは、リズムを重視した演奏で1980年代のロックに新しい領域を切り開いた。

[北中正和]

ヒップ・ホップとダンス・ミュージック

1980年代のロックに関連して起こったおもな出来事は、ミュージック・ビデオ(ビデオ・クリップ)の普及、ヒップ・ホップの定着、テクノtechnoやハウスhouseといったダンス・ミュージックの広がり、ワールド・ミュージックへの関心などである。

 音楽表現において視覚的な楽しさが占める役割の大きさを再認識させたメディアが、1981年にアメリカで設立されたポピュラー音楽専門の衛星放送局MTV(ミュージック・テレビジョン)だった。1980年代中期にはこのMTVを舞台に、マイケル・ジャクソン、プリンス、マドンナら、歌って踊れるエンターテイナーがスーパースターになった。一方、視覚的要素に依存することが少ないブルース・スプリングスティーンやヒューイ・ルイスHuey Lewis(1950― )らの円熟した音楽は、ロックが誕生から四半世紀を経て、伝統的な音楽の領域に足を踏み入れつつあることを感じさせた。1980年代後半には、ピーター・ゲイブリエルPeter Gabriel(1950― )、ポール・サイモンPaul Simon(1941― )、スティングSting(1951― )、デビッド・バーンDavid Byrne(1952― )らロック系アーティストによる紹介をきっかけに、ブルガリアの女性コーラス、セネガルのユッスー・ンドゥール、パキスタンのヌスラット・ハーンら、ヨーロッパ周縁部、アフリカ、中南米、アジアなどの音楽がワールド・ミュージックという呼称で一般の音楽ファンの関心を集め始めた。その背景には旧社会主義諸国の政権崩壊、南アフリカ共和国のアパルトヘイト政策への国際的な反対運動などもあった。

 1980年代以降の音楽にみられた最大の変化は、楽器演奏よりもコンピュータやサンプラーを使って合成・編集・リミックスされた音楽が増えたことである。1970年代末にニューヨークで誕生したヒップ・ホップは、当初はアフリカ系アメリカ人の間で生まれたアンダーグラウンドな音楽であったが、1980年代にはターンテーブル2台+ラップというスタイルが一般化、1986年にランDMCがロック・バンドのエアロスミスと共演したころから広くポップス・ファンにも聞かれ始めた。コンピュータ機器の応用が進んだ1990年代には、ヒップ・ホップはR&Bと結びついてアメリカのポピュラー音楽の主流となった(1990年代のR&Bとは音楽的にはソウル、リズム・アンド・ブルースの発展形であり、一般にアール・アンド・ビーと発音される)。この音楽づくりの手法は、1990年代後半以降のティーン・アイドルの音楽にもまねられている。1970年代にドイツのクラフトワークや日本のYMOが始めたコンピュータ音楽のテクノは、1980年代にはデトロイトの一部のクラブでダンス・ミュージックに生まれ変わり、クラブのネットワークを通じて欧米に広まった。同じころシカゴやニューヨークで生まれたハウスも、コンピュータによるダンス・ミュージックの一種で、普通のヒット曲をクラブ向けにリミックスする手法としても急速に普及した。イギリスではこうしたダンス・ミュージックと結び付いたロックが、1980年代なかばごろからマンチェスターを中心に人気を集めた。1990年代には、ヒップ・ホップ、テクノ、ハウスの影響をロック的に応用し、高密度に洗練された音楽をつくる人たちも現われた。

 ロックの世界では、商業化が進んで角がとれてくると、つねに若い世代の間から反発がおこる。1990年代初頭にシアトルで人気を集めていたグループ、ニルバーナの荒々しいノイズにあふれたロックが爆発的な人気をよんだのをきっかけに、1990年代前半にはアメリカ各地のインディーズで活動していた草の根的なバンドが数多く浮上。主流の音楽に対する「オルタナティブAlternative=もうひとつの」という意味でオルタナティブ・ロックと総称された。そのほか、レッド・ホット・チリ・ペッパーズのようにファンクやレゲエなどさまざまな音楽の要素を取り入れたミクスチャー・ロック、長時間即興演奏を続けるジャム・バンドの音楽、ノイズや音響そのものの魅力に注目した音楽なども1990年代以降には登場してきた。

[北中正和]

日本のロック

ロックが日本に入ってきたのは1950年代後半のことである。当初はジャンプ・ブルースの流れをくむジャズの一部として紹介され、おもにジャズ喫茶で演奏されていたが、カントリー系の素養をもつエルビス・プレスリーの人気を受けて、1958年(昭和33)に日劇でウェスタン・カーニバルが行われたころからロカビリーという名前で知られるようになった。平尾昌章(のち、昌晃。1937―2017)、山下敬二郎(1939―2011)、ミッキー・カーチス(1938― )らが人気を集めた。当時はリズム・アンド・ブルース系のロックン・ロールはほとんど輸入されていなかった。1960年代に入るころにはウェスタン・カーニバル出身歌手によるアメリカのヒット曲の日本語カバーが盛んに行われた。この時期に登場した代表的なオリジナル曲、たとえば平尾昌章の『星は何でも知っている』(1958)や坂本九(1941―1985)の『上を向いて歩こう』(1961)は、まだジャズやカントリー系の音楽の影響が強かった。

 エレクトリック・ギターを中心にした小編成のバンド・サウンドが定着し始めたのは、1960年代後半のことである。1965年にはベンチャーズの来日をきっかけに寺内タケシ(1939―2021)、加山雄三(1937― )らによるエレキ・ブームが、1966年のビートルズ来日後、1967年から1968年にかけてはスパイダース、ブルー・コメッツ、タイガース、テンプターズらによるグループ・サウンズ(GS)のブームが起こった。グループ・サウンズは歌謡曲的な面ももっていたが、1960年代末にはそれに飽き足りないグループがクリーム、ジミ・ヘンドリックスら英米のロックの影響を受け、日比谷野外音楽堂などでロック・フェスティバルを組織し始めた。1970年代には、はっぴいえんど、キャロル、サディスティック・ミカ・バンド、ダウン・タウン・ブギウギ・バンド、RCサクセション、サザンオールスターズなどが、英語の歌から生まれたロックのリズムと日本語の溝を埋める試行錯誤を続けた。1970年代末には日本でもパンクの影響を受けたバンドが登場したが、一部の動きにとどまった。

 ライブハウスやインディーズが増えた1980年代後半には、BOØWY(ボウイ)、ブルーハーツらに刺激を受けたアマチュア・バンドによるバンド・ブームが起こり、1989年の人気テレビ番組『イカ天(いかすバンド天国)』からは、たま、ブランキー・ジェット・シティらが紹介された。1990年代以降は、100万枚単位で売れるメガ・ヒットを出すポップなバンドと、おもにインディーズを拠点に実験的な音楽を追求するバンドの分極化が進んだ。日本において輸入音楽として始まったロックは、いまなお圧倒的な入超が続き、国内のバンドのほとんどは英米的なロックのリズムを土台にして音楽を生み出している。しかし、りんけんバンド、上々颱風(しゃんしゃんたいふーん)など民謡的なリズムをくふうしているバンドもないわけではない。1990年代以降はボアダムズ、コーネリアスなど、実験的な音楽が海外で注目されるバンドも出てきている。

[北中正和]

『キャサリン・チャールトン著、佐藤実訳『ロック・ミュージックの歴史――スタイル&アーティスト』全2巻(1997・音楽之友社)』『『ロック・クロニクル』全3巻(1997~1998・音楽出版社)』『『ロック・クロニクル・ジャパン』全2巻(1999・音楽出版社)』『アンドレア・ベルガミーニ著、関口英子訳『ロックの世紀』(1999・ヤマハミュージックメディア)』『三井徹・北中正和・藤田正・脇谷浩昭編『クロニクル 20世紀のポピュラー音楽』(2000・平凡社)』『北中正和著『ロック』(講談社現代新書)』『The Rolling Stone Illustrated History of Rock & Roll(1992, Random House)』


ロック(John Locke)
ろっく
John Locke
(1632―1704)

イギリスの経験論の哲学者、政治思想家。

生涯

イングランド西南部リントンのピューリタンの家系に生まれる。オックスフォード大学に学ぶが、大学のスコラ学に失望し、学外で医学、自然科学、デカルト哲学などを学ぶ。1667年アシュリ卿(きょう)(のちのシャフツベリ伯)の知己となり、彼の秘書として動乱期の政治にかかわった。未遂に終わったシャフツベリの反王暴動に連座した嫌疑を受けて、オランダに亡命。そこで哲学主著『人間知性論』(1686)を完成する。1688年の名誉革命の成就により、翌1689年帰国。政府の顧問役として国政に参与する一方、もっとも多産な文筆活動の時期を迎える。1704年、オーツのマサム卿夫人Damaris Cudworth Masham(1659―1708)邸でマサム夫人の『詩篇(しへん)』の朗読を聞きつつ死去した。

[小池英光 2015年7月21日]

思想

知識論

彼の知識論の目的は、知識と偽知識とを区別するために「知識の起源、確実性、範囲、ならびに信念、臆見(おくけん)、同意の根拠と程度」を探究することであった。彼は知識の材料はすべて外感と内省の経験からくると考え、そこからいかにして多様な知識が成立するかを「記述的で平明な方法」で解明しようと試みた。このゆえに彼は近代認識論とイギリス経験論の創始者となった。彼はまず経験に由来しない知識(生得原理)を否定し、心は最初は白紙(タブラ・ラサ)であり、無限に多様な知識も経験に由来する単純観念の複合によって成り立つと主張した。しかし単純観念のすべてが外界の事物に類似するわけではない。延長、形、固性などは物体そのものの性質に類似し、色、音、香りなどの観念はそうではない。ロックは前者の性質を第一性質とよび、後者の観念を産む物体の力能を第二性質とよんだ。この区別を彼はボイルをはじめとする当時の自然科学者から学んだが、観念とその背後にあると想定される物理的事物との表象関係はあいまいで、のちにバークリーの痛烈な批判を浴びた。複雑観念は、実体、様相、関係の3種類に分けられるが、そのなかでロックがもっとも力を注いだのは、スコラ的実体観念の批判であった。自然にはさまざまな種が存在するが、それら自然的種をつくる実在的本質は存在しない。種の本質は、個々の事物の観察と経験に基づき悟性が抽象する唯名的本質にすぎないとした。知識は観念相互の一致・不一致、結合・背反の知覚である。観念相互の比較のみに依存する直観的知識は絶対的確実性をもち、論証的知識もこれに準ずる。しかし物理的自然にかかわる蓋然(がいぜん)的知識では観念相互の関係は経験に依存するので、直観的知識や論証的知識のような絶対的確実性をもたないが、自然科学の業績が示すように人間にとっては十分な確実性をもちうるとした。ロックの知識論は、基軸となる「観念」概念のあいまいさなどのゆえに混乱し、多くの問題を未解決のままに残したが、その視野の広さから後世の哲学がつねに立ち返る源泉の一つになっている。

[小池英光 2015年7月21日]

道徳論

ロックにはまとまった道徳論はないが、道徳は彼の終生の主題であった。『人間悟性論』初版では快楽主義の傾向が強いが、第二版以降では道徳規範の客観性およびキリスト教信仰との調停を試み、来世での賞罰の権能をもつ神の意志に道徳の源泉を求め、神意の布告に従うことが善であり、幸福であるとした(神学的快楽主義)。

[小池英光 2015年7月21日]

政治理論

初期の著作では反カルビニズムの側面が目だつが、主著『統治論』(1690)では反専制主義の色彩が濃い。自然状態にあっては統治はなく、自然法の支配する自由と平等の状態があった。しかし、現実の経済的事情などから他人の自然権の侵犯が生ずるため、人々は政府をつくり、契約によって自然権の一部を為政者に譲渡した。それゆえ政府は専制権をもち、国民には服従の義務がある。だがそれは絶対的なものではなく、国民は契約目的に反するときには為政者を更迭できるとして革命の正当性を擁護した。ロックの「自然状態」は現実に存在した事実とは考えられず、むしろ理論的仮設である。革命による政府の解体は、ただちに別の新しい政府の樹立のためであり、彼自身も現実に「自然状態」への復帰が可能であるとは考えなかったようである。

[小池英光 2015年7月21日]

宗教論

ロックは終生敬虔(けいけん)な正統派の信仰者であった。晩年彼は「パウロ書簡」についての大量の注釈を書き続けていた。しかし、その著作『キリスト教の合理性』や『寛容書簡』が理神論に武器を与えたことも否定できない。彼によれば、神の存在と摂理、来世の賞罰、救世主イエスの信仰と福音(ふくいん)書の教える道徳的生活が信仰の核心であり、それ以外の宗教上の相違は寛容の対象である。かつまた、信仰は心の問題であり、政治的差別の理由にはならぬとした。ただし、無神論とカトリックを例外とした。

 また、経済論においては一種の労働価値説を提示し、通貨・租税についても論じ、近代経済学の先駆者である。教育論では在来の教育制度を批判し、自由主義的な教育を説いた。

[小池英光 2015年7月21日]

『平野耿訳『寛容についての書簡』(1971・朝日出版社)』『ロック著、友岡敏明訳『世俗権力二論』(1976・未来社)』『ジョン・ロック著、北本正章訳『ジョン・ロック 子どもの教育』(2011・原書房)』『ジョン・ロック著、服部知文訳『教育に関する考察』(岩波文庫)』『大槻春彦訳『人間知性論』全4巻(岩波文庫)』『野田又夫著『人類の知的遺産36 ロック』(1985・講談社)』『田中正司著『ジョン・ロック研究』新増補(2005・御茶の水書房)』


ロック(年譜)
ろっくねんぷ

1632 8月29日イングランド南西部のサマーセット県リントンに生まれる
1647 ウェストミンスター校に入学
1652 オックスフォード大学クライスト・チャーチ入学
1658 同カレッジの特別研究員となる
1659 スタッブの『古き善き大義論』への反駁の一文を書く
1660 ロバート・ボイルと知り合い、共同研究を始める。バグショーに反論する論文『世俗権力論』を書く(~1661年)
1662 修辞学講師となる
1663 道徳哲学監督官となる
1664 自然法に関する八つの論文を完成
1665 外交官となりクレーフェに赴任
1666 帰国後、医学と自然科学研究に没頭
1667 アシュリ卿(のちのシャフツベリ伯)の侍医となり、ロンドンのアシュリ邸に入る
1668 『貿易と貨幣利子とに関する瞥見』を出版。『利子論草稿』を書く
1669 『医術について』をシドナムと執筆
1671 『人間知性論』の契機となる会合をもつ。草稿A、Bを書く
1675 フランス旅行に出る(~1679年)。ニコルの『道徳論集』の一部を翻訳。フランスの多くの知識人と交わる
1680 『政治二論』第二論文の執筆開始
1682 反王反乱の陰謀発覚し、シャフツベリ伯オランダへ亡命、のち客死
1683 ロック、オランダへ亡命。当初ロッテルダムに、のちアムステルダムに住む
1685 『人間知性論』の草稿Cを完成。『寛容についての書簡』を書く
1686 『人間知性論』完成
1688 名誉革命(→抵抗権)
1689 ロック帰国。政府の閑職(訴願局長)に就く。『寛容についての書簡』出版。『政治二論』『人間知性論』出版
1690 ニュートンと会う。プロウスト、ロングら『寛容についての書簡』を非難、ロック反論し、論争を繰り返す
1693 『教育論』出版
1694 『人間知性論』第2版出版
1695 『キリスト教の合理性』出版
1697 スティリングフリートとの論争始まる
1702 『奇跡論』出版
1704 10月28日死去。ハイ・レイバに埋葬

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「ロック」の意味・わかりやすい解説

ロック
Locke, John

[生]1632.8.29. ブリストル近郊リントン
[没]1704.10.28. オーツ
イギリスの哲学者。啓蒙哲学およびイギリス経験論哲学の祖とされる。オックスフォード大学で哲学と医学を学び,シャフツベリー伯の知遇を得て同家の秘書となったが,同伯の失脚とともに 1683年オランダに亡命。彼は認識の経験心理学的研究に基づいて悟性の限界を検討し,知識は先天的に与えられるものではなく経験から得られるもので,人間は生れつき「白紙」 (→タブラ・ラサ ) のようなものであると主張して本有観念を否定した。さらにこの考えを道徳や宗教の領域にも応用し,道徳においては快楽説,宗教においては理神論の先駆となった。政治論においてはホッブズの自然法思想を継承発展させ,当時の王権神授説を批判し,社会契約による人民主権を主張した。主著『人間悟性論』 An Essay Concerning Human Understanding (1690) ,『統治二論』 Two Treatises of Government (90) 。

ロック
Locke, Matthew

[生]1630頃.エクセター
[没]1677.8. ロンドン
イギリスの作曲家。エクセター大聖堂の合唱団で,E.ギボンズに師事し,1661年チャールズ2世の王室作曲家に就任。のちカサリン王妃のオルガン奏者をつとめた。パーセル以前のイギリスの最も重要な劇音楽の作曲家で,代表作は『キューピッドと死』 (1653) ,『ロードス島の包囲』 (56) ,『テンペスト』 (74) ,ほかにビオル合奏曲やアンセムなどがある。

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