20世紀後半にもっとも人気のあったポピュラー音楽の一つ。電気エネルギーで成り立っている産業社会を象徴するポピュラー音楽ともいわれる。基本的には8(エイト)ビートのリズムを強調した、若者向けの大音量のエレクトリックな音楽という意味で使われる。ただし1960年代後半以降は内容や聴衆が多様化しているので、実際はそれにとどまらない広範な音楽が含まれている。ロックン・ロールrock'n'roll(rock and roll)ということばは、しばしばロックと同じ意味で使われるが、狭義には1950年代のロックとそのスタイルにならった音楽、あるいはダンス音楽的な要素の強いロックをさす。
『キャサリン・チャールトン著、佐藤実訳『ロック・ミュージックの歴史――スタイル&アーティスト』全2巻(1997・音楽之友社)』▽『『ロック・クロニクル』全3巻(1997~1998・音楽出版社)』▽『『ロック・クロニクル・ジャパン』全2巻(1999・音楽出版社)』▽『アンドレア・ベルガミーニ著、関口英子訳『ロックの世紀』(1999・ヤマハミュージックメディア)』▽『三井徹・北中正和・藤田正・脇谷浩昭編『クロニクル 20世紀のポピュラー音楽』(2000・平凡社)』▽『北中正和著『ロック』(講談社現代新書)』▽『The Rolling Stone Illustrated History of Rock & Roll(1992, Random House)』
第2次世界大戦後にアメリカで生まれ,その後の世界の大衆音楽,ことに若者の音楽を主導してきたロックは,30年の歴史のなかで幅広い多様性をもつに至っており,今ではその音楽的性格を端的に指摘するのは不可能に近い。しかしもともとは,偶数拍に強いアクセントをもつ4拍子の音楽で,その躍動するリズム感覚を表した〈ロック・アンド・ロールrock and roll〉という語が短縮されて〈ロックンロールrock'n'roll〉,さらに〈ロック〉という名称を生んだ。
リズム・アンド・ブルースは1940年代の初頭から中葉にかけての,第2次大戦下の時期に形を整えた黒人の大衆音楽であるが,戦後の混乱期に,白人の若者のなかにもリズム・アンド・ブルースの音楽で踊るのを好む者が現れ,それに目をつけた白人の歌手や楽団の一部がリズム・アンド・ブルースの感覚を取り入れ始めた。その一例として挙げることができるのが,54年に白人のビル・ヘーリーBill Haley(1927-81)の楽団(ビル・ヘーリー・アンド・ヒズ・コメッツ)が録音した《シェーク・ラトル・アンド・ロールShake,Rattle And Roll》と《ロック・アラウンド・ザ・クロックRock Around The Clock》で,ともに黒人(前者はジョー・ターナー,後者はサニー・ディー)のレコードを模倣したものだった。翌55年,ヘーリーの《ロック・アラウンド・ザ・クロック》が映画《暴力教室Blackboard Jungle》(MGM。監督リチャード・ブルックス)に用いられたのがきっかけで,大ヒットとなった。
54年にはまた,エルビス・プレスリーも最初のレコードを出した。彼は当時,南部の黒人音楽の中心地メンフィス市で電気会社の運転手をしていたが,地元の小さなレコード会社から《ザッツ・オール・ライト・ママThat's All Right,Mama》を出した。この曲は黒人ブルース歌手アーサー・クルーダップの作品である。そしてその裏面にはカントリーの曲《ケンタッキーの青い月Blue Moon of Kentucky》が入っていた。ヘーリーもプレスリーもその音楽的感覚にはカントリーの要素が強く,またプレスリーは好きな歌手としてフランク・シナトラの名を挙げていたことでわかるように,ポピュラー・ソングの伝統をも受け継いでおり,この要素は彼が大スターとなるにつれて表面化することとなる。ヘーリーとプレスリーの音楽を聞けば,彼らがリズム・アンド・ブルース,カントリー・ミュージック,ポピュラー・ソングの3要素を融合していたことは容易に感じ取れる。
こうして生まれてきた新しい音楽を〈ロック・アンド・ロール〉と呼びはじめたのは,ラジオのディスク・ジョッキーをしていたアラン・フリードAlan Freedだとされている(彼自身も《暴力教室》に出演した)。また,プレスリーや彼に続いて現れた《ブルー・スウェード・シューズBlue Suede Shoes》のカール・パーキンズCarl Perkins(1932-98),《ホール・ロッタ・シェーキン・ゴーイング・オンWhole Lotta Shakin' Going On》のジェリー・リー・ルイスJerry Lee Lewis(1935- )などがいずれも南部のカントリー音楽の要素を強くもっていたことから,彼らの音楽をロックとヒルビリーhillbillyの合成語で〈ロカビリーrockabilly〉と呼び,《アイル・ビー・ホームI'll Be Home》のパット・ブーンPat Boone(1934- )や《ダイアナDiana》のポール・アンカPaul Anka(1941- )のようにポピュラー・ソングに近い感覚を示した歌手たちの音楽を,ロックとバラードの合成語で〈ロカバラードrock-a-ballad〉と呼ぶようになった。こうしてさまざまの派生語を生みだしつつ多様化していったため,1960年代になると,それらの全体を呼ぶ言葉がロック,1950年代中葉の初期のロックを指す言葉がロックンロール,と使い分けるのが一般的となった。
ロックを生んだ国アメリカがそうした状況にあったとき,意外にもイギリスから,新しいロックの動きが興ってきた。62年,ビートルズの《ラブ・ミー・ドゥーLove Me Do》に始まって,ローリング・ストーンズThe Rolling Stones,ジ・アニマルズThe Animalsなど多くのグループが,ロックの原点を取り戻し,アメリカの若者にも熱狂的に迎えられたのである。すぐそれに続いて,アメリカでも呼応するような動きが出た。まず64年に《サーフィン・USA Surfin' U.S.A.》で頭角を現したビーチ・ボーイズThe Beach Boys。プレスリーなどが南部から出てきたのに対して,このグループはカリフォルニアの産だった。カリフォルニアはフォーク・ソングも盛んであり,またサンフランシスコとその周辺のヒッピーが新しい若者文化をつくり出していたが,そうした土壌から,65-66年あたりを境にして,急速に新しいロックが盛り上がってきた。プレスリーなどの最初のロックは無教養な若者の衝動に発した部分が大きかったが,10年後に再生したロックは,知的な性格を帯び,運動の側面を備えたものとして,より広範な社会的影響力を発揮した。
(1)ハード・ロックhard rock イギリスのレッド・ツェッペリンLed Zeppelin,アメリカのグランド・ファンク・レールロードGrand Funk Railroadなどに代表される。強烈なビート,最大限に音量を増幅したエレクトリック・ギター,金切り声のボーカルを特徴とする,最もロックらしいロック。この系統で,様式化した緊張感の演出を極度に推し進めたものを,70年代の終りからヘビー・メタルheavy metalと呼ぶようになり,若年層の人気を集めている。
(2)ブルース・ロックblues rock 1960年代なかば,イギリス,アメリカ両方で,本来は黒人音楽だったブルースを,好んで演奏する白人ギタリストが人気を集めた。イギリスのエリック・クラプトンEric Clapton(1945- )がその好例で,彼を中心にした3人組クリームThe Creamは,わずか2年の活動ののち68年に解散したが,イギリスのロック史に不滅の足跡を残した。同じころアメリカで人気の高かったブルース・ロックのバンドに,ポール・バタフィールド・ブルース・バンドThe Paul Butterfield Blues Bandがあった。
(3)フォーク・ロックfolk rock フォーク・シンガーのボブ・ディランが1965年にエレクトリック・ギターを取り入れて賛否両論を巻き起こして以来,フォークとロックの融合の試みがなされ,バーズThe Byrds,バッファロー・スプリングフィールドBuffalo Springfield,ママズ・アンド・パパスThe Mamas & The Papasなど多くのグループや,ソロのシンガー・ソングライターが登場した。
(4)カントリー・ロックcountry rock ディランもバーズも67年ころカントリー的なサウンドに接近したが,そういったサウンドを一貫して追求したのは,結局フライング・ブリット・ブラザースThe Flying Burrito Brothersなど少数のグループにとどまった。
(5)サイケデリック・ロックpsychedelic rock 1960年代後半のサンフランシスコで,ヒッピー文化の影響を最も強く受けたジェファソン・エアプレーンJefferson Airplane,グレートフル・デッドThe Grateful Deadなどの音楽は,ドラッグ(とくにLSD)による幻覚,心理(サイケデリック)を音で表現するようなロックだった。舞台では音楽だけでなく照明などもその効果を高めるようくふうされた。
(6)プログレッシブ・ロックprogressive rock ピンク・フロイドPink Floydやキング・クリムズンKing Crimsonなど,1970年前後を活動のピークとするイギリスの一連のグループがその典型だが,現代音楽やジャズのサウンドをも取り入れ,重厚な音を駆使した多彩な編曲で,ロックの音楽的高度化をはかる試みがなされた。
こうした状態に不満の声をあげたのは,やはり貧しい少年たちだった。1970年代半ばに,ニューヨークでもロンドンでもそうした声があがり始め,75年にはロンドンでセックス・ピストルズSex Pistolsが出現した。そのグループ名や《アナーキー・イン・ザ・UK Anarchy In The U.K.》といった彼らの曲の題名からも推察できるように,かなり過激な,怒りの音楽だった。クラッシュThe Clash,ジャムThe Jam,スージー・アンド・バンシーズSiouxsie And The Banshees,ストラングラーズThe Stranglersなどがそれに続いた。そうした音楽をパンク・ロックpunk rockと呼び,その支持者で現状に不満をもつ若者たちをパンクスと呼んだ。しかし,閉塞した状況を打ち破りたいという気持ちで一致していたかにみえた彼らの活動も意外と長続きせず,78年ころにはさまざまに変質し,早くもパンク以後がとりざたされるようになり,その後の多様化を視野に入れたニューウェーブnew waveという包括的な呼び方が一般化する。どこまでをニューウェーブに含めるかは人によってさまざまだが,80年代に入ってからの主流となったのは,いわゆるエレクトロニック・ポップ・ミュージックelectronic pop musicで,これはサウンドの感覚からいえば確かにパンク以後の流れのなかに位置しているものの,その姿勢はかなり商業主義に接近した若者向けの大衆音楽であって,当初のパンクの姿勢とは大きく隔たっている。エレクトロニック・ポップは,その呼名が表すとおり,シンセサイザーなど最新の電子楽器や録音装置を駆使したポップ・ミュージックであって,ドイツのクラフトワークKraftwerkに始まり,イギリスのゲリー・ニューマンGary Numan,日本のYMO(イエロー・マジック・オーケストラ)などが盛んにした。コンピューターを組み込んだ電子楽器の長足の進歩もあって,例えばリズムのパートはすべて機械にゆだねるといった演奏形態が急速に広まり,グループを組んで人間関係にわずらわされるよりも,1人でスタジオにこもり,機械相手に音を組み立てたほうが存分に自己の個性を伸ばせる,と考えるミュージシャンが増え,グループのメンバー同士で触発しあうといった集団性や身体性が失われ,ロックの本質が崩壊の危機に直面しているようにも思われる。
第2次大戦後米国で生まれ,世界的に広まった大衆音楽。〈ロック・アンド・ロールrock and roll〉あるいは短縮して〈ロックンロールrock'n'roll〉と呼ばれた音楽に由来し,他ジャンルとの接触を繰り返し多種多様なスタイルを生みながら発展した。黒人音楽であるリズム・アンド・ブルースを白人が演奏したことが始まりとされ,ビートや歌唱法,ギター演奏のスタイルまで,その基本となる音楽的要素の多くを負っている。プレスリーに代表されるロックンロールは当時反体制的なものと受けとめられたが,次第に既成の音楽産業の枠組みのなかにとりこまれた。一方で英国からビートルズが出て,社会的にもより広い影響力を持つ,折衷的で実験的な音楽として定着,以後多様化の一途をたどった。〈ロック〉という呼称が一般化したのも1960年代の後半からであり,1970年代前半にかけてロックはもっとも力づよく展開,その指向性によりハード・ロック(のちヘビーメタル),プログレッシブ・ロックなどと呼ばれた。一方大衆音楽の主流を占めるにまでなったロックの原点回帰運動としてパンク・ムーブメントが1970年代半ばに起きたが長続きせず,1970年代の末からは〈ニュー・ウェーブ〉と呼ばれるさらに新しいロックの模索や,エレクトロニック・ポップの隆盛があり,また世界の音楽を等価のものとして捉えるワールド・ミュージックの考え方が広まるなど,ロックという言葉は今日,境界の見えにくい多種多様な音楽の総体を表すに至っている。 →関連項目ウォーカー|ウッドストック・フェスティバル|ガイ|クラフトワーク|崔健|サザンオールスターズ|ザ・バンド|ジャングル(音楽)|ズーク|ディラン|テックス・メックス|ニュー・ウェーブ|ニュー・エイジ・ミュージック|ブルース|ベリー|ライ|リー|リンガラ|レゲエ|ロカビリー
[生]1632.8.29. ブリストル近郊リントン [没]1704.10.28. オーツ イギリスの哲学者。啓蒙哲学およびイギリス経験論哲学の祖とされる。オックスフォード大学で哲学と医学を学び,シャフツベリー伯の知遇を得て同家の秘書となったが,同伯の失脚とともに 1683年オランダに亡命。彼は認識の経験心理学的研究に基づいて悟性の限界を検討し,知識は先天的に与えられるものではなく経験から得られるもので,人間は生れつき「白紙」 (→タブラ・ラサ ) のようなものであると主張して本有観念を否定した。さらにこの考えを道徳や宗教の領域にも応用し,道徳においては快楽説,宗教においては理神論の先駆となった。政治論においてはホッブズの自然法思想を継承発展させ,当時の王権神授説を批判し,社会契約による人民主権を主張した。主著『人間悟性論』 An Essay Concerning Human Understanding (1690) ,『統治二論』 Two Treatises of Government (90) 。