トママイ場所(読み)とままいばしよ

日本歴史地名大系 「トママイ場所」の解説

トママイ場所
とままいばしよ

現苫前郡域をほぼその範囲として設定された場所名。トママイ持場ともいう。北はテシホ場所、南はルルモッペ場所、東はイシカリ場所に接する。西は日本海に臨む。当場所の成立年代は未詳ながら、テシホ場所と同時期とすれば「慶長年中」となる(休明光記)。テシホ場所との境はヲタコシヘツ(現初山別町と遠別町の境)ルルモッペ場所との境は「チヤシユンナイ」(現小平町)(玉虫「入北記」安政四年六月六日条)ヤンケシリテウレ二島(現羽幌町)はテシホ場所に属した(万延元年「トママイ場所引渡目録」山形県鶴岡市郷土資料館蔵)。しかし当場所は、南北のいずれかの場所を包含していた時期、あるいは逆に包含されていた時期がある。「蝦夷商賈聞書」によれば、「戸間前とままい」のうちにルルモッペ場所とテウレが含まれていたが、一七七九年(安永八年)以後はルルモッペ場所として独立している(「松前随商録」、「工藤家年々秘録」高倉家文書)。また「蝦夷商賈聞書」や「蝦夷草紙別録」(天明後期)ではトママイ場所とテシホ場所(前掲二島を含む)がそれぞれ単独で記載されるが、一八世紀末から一九世紀初め頃にはトママイ場所にテシホ場所が含まれ(「蝦夷地一件」、近藤重蔵本「西蝦夷地分間」、磯谷則吉「蝦夷道中記」)、小名としてテウレシマ、ヤキシリスマの二島も含まれていた(松前随商録)。ところが一八〇七年(文化四年)には「トママイはテシヲ場所内なり」で、トママイにも運上屋が置かれた(「西蝦夷地日記」文化四年九月六日条)。天保郷帳でもテシホ持場のうちとしてトママイがみえる。しかし五六年(安政三年)トママイとテシホの両場所として分離、両島はテシホ場所の所属となっている(「場所境調書」、「観国録」安政四年五月六日条)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

中国のゴビ砂漠などの砂がジェット気流に乗って日本へ飛来したとみられる黄色の砂。西日本に多く,九州西岸では年間 10日ぐらい,東岸では2日ぐらい降る。大陸砂漠の砂嵐の盛んな春に多いが,まれに冬にも起る。...

黄砂の用語解説を読む