栖原角兵衛(読み)すはら・かくべえ

朝日日本歴史人物事典 「栖原角兵衛」の解説

栖原角兵衛(7代)

没年嘉永4.7.25(1851.8.21)
生年:安永9(1780)
江戸中・後期,松前藩城下を拠点に蝦夷地場所経営に当たった紀州(和歌山県)有田郡栖原出身漁業家,海産物材木商,廻船業者。本姓北村,名は信義,角兵衛は世襲名。城下に設置した松前物問屋を統括店として石狩樺太場所を請け負う。初代が敢行した紀州からの関東鰯旅漁 や房総富津の鯛桂網漁と,5代以降の蝦夷地各地での鰊・鮭・鱒漁など累代による漁業基盤の上に立ち,さらに紀州藩を後ろ盾にそれらを拡張し,海産物を大坂店や江戸店を通じて販売した。なかでも,アイヌの強制徴用に基づく伊達林右衛門との共同樺太漁業経営は年額2000~3000両の利益を生み出し,天保期(1830~44)には松前城下第3位の分限者にのし上がった。 しかし,アイヌの徴用は9代角兵衛の安政期(1854~60)に最も苛酷になり,悪者を象徴する「スワラノチゥ」(栖原の星)というアイヌ語が生まれた。こうした事業のかたわら,幕府設立の箱館産物会所の御用達も務めていた。 10代角兵衛は維新後は樺太を引き揚げ,千島列島漁場の開発経営に専念し,新時代への対応を計るが,明治28(1895)年,北海道における漁業の多くを三井物産会社に移譲した。<参考文献>田島佳也「北の海に向かった紀州商人」(『日本海と北国文化』海と列島文化1巻)

(田島佳也)

出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「栖原角兵衛」の解説

栖原角兵衛(10代) すはら-かくべえ

1836-1918 幕末-明治時代の漁業家,実業家。
天保(てんぽう)7年生まれ。安政6年箱館(はこだて)奉行の外国銀銭通用取扱方をつとめる。樺太(からふと),千島列島などの北洋漁業開発にあたったが,明治28年三井物産に事業を委託し,栖原屋をとじた。大正7年死去。83歳。紀伊(きい)海部(あま)郡(和歌山県)出身。本姓は中尾。名は寧幹(やすとも)。

栖原角兵衛(7代) すはら-かくべえ

1780-1851 江戸時代後期の商人,漁業家。
安永9年生まれ。松前藩の場所請負人。文化3年蝦夷(えぞ)地(北海道)石狩13場所のうち5場所をうけおい,7年初代伊達林右衛門と北蝦夷地(樺太(からふと))の漁場をひらく。のち根室,厚岸(あっけし)場所の開発にあたった。嘉永(かえい)4年7月25日死去。72歳。本姓は中尾。名は信義。

栖原角兵衛(6代) すはら-かくべえ

1753-1817 江戸時代中期-後期の商人,漁業家。
宝暦3年生まれ。松前藩より蝦夷(えぞ)地(北海道)の「場所」(アイヌとの交易地の意)の経営をうけおう,場所請負人となる。天明6年天塩(てしお)場所を,ついで留萌(るもい),苫前(とままえ),十勝(とかち)場所をうけおう。文化14年9月6日死去。65歳。名は茂則。

栖原角兵衛(3代) すはら-かくべえ

1685-1734* 江戸時代中期の商人。
貞享(じょうきょう)2年生まれ。漁業をやめ,江戸で材木商をいとなむ。元禄(げんろく)のころ陸奥(むつ)北郡(青森県)大畑に支店をもうけ,南部ヒバ材を江戸,大坂に輸送販売した。享保(きょうほう)18年12月21日死去。49歳。名は茂延。

栖原角兵衛(8代) すはら-かくべえ

1808-1854 江戸時代後期の商人,漁業家。
文化5年生まれ。松前藩の場所請負人。天保(てんぽう)12年3代伊達林右衛門と択捉(えとろふ)を,のち山越内(やまこしない)をうけおった。14年支店を大坂にひらき,松前物産問屋をはじめた。嘉永(かえい)7年9月22日死去。47歳。名は茂信。

栖原角兵衛(5代) すはら-かくべえ

1731-1793 江戸時代中期の漁業家,商人。
享保(きょうほう)16年生まれ。4代角兵衛(茂村)の弟。明和2年蝦夷(えぞ)地(北海道)にわたり,松前に支店をもうけ屋号を栖原屋とし,漁業をいとなむ。かたわら蝦夷地の産物を江戸に輸送販売した。寛政5年9月19日死去。63歳。名は茂勝。

栖原角兵衛(初代) すはら-かくべえ

1601-1673 江戸時代前期の漁業家。
慶長(けいちょう)6年生まれ。紀伊(きい)有田郡(和歌山県)栖原の人。元和(げんな)の末,上総(かずさ)(千葉県)天羽(あまは)郡萩生(はぎう)に移住し,この地方の漁場をひらいた。寛文13年1月20日死去。73歳。名は茂俊。

栖原角兵衛(9代) すはら-かくべえ

1812-1857 江戸時代後期の商人,漁業家。
文化9年生まれ。8代角兵衛の弟。松前藩の場所請負人。安政2年同藩の沖口収納取扱方となる。3年江戸に松前物産問屋をひらいた。安政4年1月13日死去。46歳。名は茂寿。

栖原角兵衛(2代) すはら-かくべえ

1644-1706 江戸時代前期の漁業家,商人。
正保(しょうほ)元年生まれ。父の漁業をひきつぐとともに,元禄(げんろく)の初め江戸で材木問屋をひらいた。宝永3年10月13日死去。63歳。名は俊興。

出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例

世界大百科事典(旧版)内の栖原角兵衛の言及

【小平[町]】より

…海岸部には高い海岸段丘があるが,海食崖で終わり,その下に狭い砂浜があり,国道がここを通る。1782年(天明2)松前藩の場所請負人栖原角兵衛がニシン漁場を開いた臼谷は町域の南端にあたり,港町(旧鬼鹿)と臼谷には漁港がある。港町の南2kmに1905年に建てられた小樽の網元花田家の番屋があり,ニシン漁の最盛期には250人の漁夫を収容したもので,重要文化財に指定されている。…

※「栖原角兵衛」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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