ハジウマル(英語表記)al-Ḥājj `Umar

改訂新版 世界大百科事典 「ハジウマル」の意味・わかりやすい解説

ハジ・ウマル
al-Ḥājj `Umar
生没年:1797?-1864

西アフリカ,セネガル川上流,フータ・トロ地方に生まれたイスラム改革指導者で,1848年から97年まで続いたトゥクロール帝国の建設者。ティジャーニー教団の厳格なイスラム教義を学び,23歳の時にメッカ巡礼に旅立ち,現ナイジェリア北西部のフラニ王国のムハンマド・ベロ王の娘を嫁にもらった。メッカでは,ティジャーニー教団からブラック・アフリカのカリフとして指名された。帰途数年間フラニ王国のソコトで義父から政治的訓練を受けた後,1840年にフータ・トロに帰り,黙想,自己否定,教主への盲目的従順こそが神に近づく道であると説き,支持者を増やした。54年3月に聖戦ジハード)宣言を発し,バンバラ族を征服して,イスラムに強制的に改宗させ,カーディリー教団のイスラム教徒であるフルベ(フラニ)族のマシーナ王国にも攻撃をかけて征服した。63年にはトンブクトゥをも占領したが,トゥアレグ族,フルベ族から攻撃を受けて,ハムダラヒに退却した。64年2月12日,避難中の洞窟が火薬で爆破されて死亡した。
執筆者:

出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報

世界大百科事典(旧版)内のハジウマルの言及

【ティジャーニー教団】より

…北アフリカにおけるこの教団は,19世紀にフランスの植民地支配のもとでは概して穏健で妥協的態度をとった。しかし,ティジャーニーの弟子でセネガル人であるハジ・ウマルは19世紀中ごろに,この教団をナイジェリア,ギニア,マリ,コートジボアールなどの西アフリカの各地に広めた。西アフリカにおけるティジャーニー教団は戦闘的性格をもち,フランスの植民地支配に対しても概して反抗的であった。…

【マリ】より

…そして彼は植民地化初期の民族的英雄としてフランス軍に抵抗したが,98年に敗北し,ガボンに流刑された。 他方,現ギニア中北部のディンギラエを本拠地として台頭してきたトゥクロールTukulor帝国のハジ・ウマルは,イスラムの聖戦(ジハード)を宣言し,カアルタ,セグー,マシーナなどの王国を制圧していった。しかし1864年死去したハジ・ウマルを継いだアマドゥAmadou王は,92年フランス軍によって追放された。…

※「ハジウマル」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

今日のキーワード

部分連合

与野党が協議して、政策ごとに野党が特定の法案成立などで協力すること。パーシャル連合。[補説]閣僚は出さないが与党としてふるまう閣外協力より、与党への協力度は低い。...

部分連合の用語解説を読む

コトバンク for iPhone

コトバンク for Android