トンブクトゥ(読み)とんぶくとぅ(英語表記)Tombouctou

日本大百科全書(ニッポニカ) 「トンブクトゥ」の意味・わかりやすい解説

トンブクトゥ
とんぶくとぅ
Tombouctou

西アフリカ、マリ中部にある古都。英語ではティンブクトゥTimbuktuという。ニジェール川中流の湾曲部北岸に位置する。人口3万4600(2002推計)。スーダン地方の代表的歴史都市で「神秘の都」と称せられた。この都市は1988年に世界遺産の文化遺産(世界文化遺産)として登録された。1990年に危機遺産リスト入りしたが、改善措置がとられたため2005年にリストから削除。しかし武装勢力による破壊などを受け、2012年にふたたび危険遺産リスト入りしている。市街はニジェール川から数キロメートル北のサハラ砂漠にあり、ニジェール川とは水路で結ばれている。12世紀まで遊牧民の泊地であったが、その後サハラ隊商路とスーダン地方との接点として発展し、サハラの塩と南の地方の金、象牙(ぞうげ)、コーラ、奴隷との交易が行われた。14世紀にはモスクが建設され、多くの巡礼者が訪れるようになり、マリ帝国マンサ・ムーサ王の時代に大発展を遂げた。北アフリカ諸国やエジプトなどと隊商路で結ばれ、コーランを教える大学も設置され、文化の中心地でもあった。1468年ソンガイ帝国の支配下に入り、最盛期の16世紀前半には、4万5000の人口をもつ西アフリカ最大のイスラム都市であった。当時この町を訪れたレオ・アフリカヌスは「ここには、多くの裁判官、学者、聖職者がいる。北アフリカ諸国からの書籍(手稿本)の需要が多く、他の商取引より大きい」と述べている。1590年、塩山をめぐる紛争から、サード朝モロッコが軍を送って占領し、ここをモロッコ太守領の首都とした。このころから隊商路の拠点が東のガオに移り衰微した。ヨーロッパには長く「幻の都市」として知られ、1828年フランス人ルネ・カイエRené Caillié(1799―1838)が苦労のすえ到達した。19世紀末にはフランス領となった。現在は単なる地方都市で、古いモスクが過去の栄華をしのばせている。皮革建具などの手工業がある。空港、河港があるが観光客は空路で訪れる。

[藤井宏志]

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「トンブクトゥ」の意味・わかりやすい解説

トンブクトゥ
Tombouctou; Timbuktu

トンブクツー,チンブクツーともいう。マリ中部のオアシス都市。トンブクトゥ県の県都。バマコ北東約 700km,ニジェール川北方約 13kmのサハラ砂漠南縁に位置。月平均気温 22~36℃。年降水量 211mm。雨季 (6~9月) 以外はほとんど降水をみない。サハラ砂漠縦断路の中継地にあり,古くからサハラ遊牧民とスーダン地方西部の諸民族との交易地で,12世紀にはマグレブで産する工芸品と西スーダン,ギニア湾沿岸地方で産する金,コーラナッツ,奴隷などを交易する隊商の基地として繁栄。 1310年マリ帝国の王がモスクを建て,イスラム文化,教育の中心地となり,「黄金の都」と呼ばれた。ソンガイ王国のアスキア・ムハンマド (在位 1493~1528) の時代に最盛期を迎え,コーラン学校 180,人口 100万といわれたが,ヨーロッパ人による大西洋岸航路の開発と,1591年からのモロッコ軍の占領により次第に衰退。 1827~28年にフランスのルネ・カイエが探検したときの記録によれば,想像よりはるかに小さい町になっていたという。岩塩,米,雑穀,家畜などの集散地。織物,皮革加工が行われる。南 9kmのニジェール川沿岸に河港カバラがあり,上流のバマコ,下流のガオと船便で結ばれている。近年はサハラ砂漠の南下による乾燥化が進んでいる。 1988年世界遺産の文化遺産に登録。人口3万 1925 (1987推計) 。

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