パーニーパットの戦(読み)パーニーパットのたたかい

改訂新版 世界大百科事典 「パーニーパットの戦」の意味・わかりやすい解説

パーニーパットの戦 (パーニーパットのたたかい)

インドのデリー北方約90kmのパーニーパットPānīpatで行われたインド史上重要な3回の戦い。パンジャーブ平原の東のはずれにあるパーニーパットは,北西インドからデリーへのいわば入口となるところである。第1回は1526年4月,北西インドから南下したバーブルがローディー朝のイブラーヒームの軍を破った戦いで,その後バーブルはムガル朝を創始する。第2回は1556年11月,ムガル帝国第3代皇帝アクバルの軍が,デリーを占領していたヘームーの軍を破ったもの。最後は1761年1月,アフマード・シャー・ドゥッラーニーのアフガン軍がムガル皇帝を擁するマラーター軍を破った戦いである。この結果ムガル帝国の衰退が助長され,ひいてはイギリスの北西インド支配の道が開かれた。
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百科事典マイペディア 「パーニーパットの戦」の意味・わかりやすい解説

パーニーパットの戦【パーニーパットのたたかい】

インドのパーニーパットPanipatで前後3回行われた,インド史上重要な戦い。パーニーパットはデリーの北西にあり,パンジャーブ地方の要地。1526年バーブルがローディー朝の軍を破り,ムガル帝国を建設した。1556年アクバルがスール朝の軍を破り,ムガル帝国の基礎を確立した。1761年マラーター同盟はアフガン王に敗れ,北インド支配の野望を喪失した。
→関連項目ムガル帝国

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世界大百科事典(旧版)内のパーニーパットの戦の言及

【インド文学】より

…プラーナとは〈古譚〉を意味し,宇宙の創造,その破壊と再建,神々および聖賢の系譜,人間の始祖マヌの支配する長期間の記述,日種および月種の王族の系譜の5題目を主題とする規定であるが,現存のプラーナ文献の多くはヒンドゥー教の主神ビシュヌとシバの両神に関する神話,伝説を主体とし,信徒は宗派の聖典とみなしている。二大叙事詩の言語はすでに古代のベーダ語に比し変化を示しているが,前4世紀に大文典家パーニニが出て古典サンスクリット語の基礎を確立するに及び,この言語は文章語として,俗語を基礎として発達したプラークリット語とともに,中古文学の用語として使用され,幾多の傑作・逸品を残した。
【中古文学(古典サンスクリット文学)】
 素朴単純なベーダの宗教文学は,中古文学にいたって内容とともに文体,措辞,韻律の方面で著しい発達をとげ,修辞と技巧を主とする繊細華麗な美文体のカービヤ文学時代を現出し,各分野にインド文学の最盛期を画した。…

【カーティヤーヤナ】より

…前250年ころの人。サンスクリット文法学の最初の成果であるパーニニの《アシュターディヤーイー》に対する注解《バールティカ》を著した。しかしそれは単なる祖述にとどまらず,言語的慣用の変化に即し,選択的に(パーニニの1/3だけあつかう),批判的に師主の規則を吟味,解明し,補足的に規則を改善し,まれにはこれの誤りを指摘している。…

【サンスクリット】より

…しかしその間に,典型的な屈折語として複雑な格変化と動詞の曲用をもつこの言語も,その組織にいろいろな変化を経験した。我々はその全貌を,前5~前4世紀のインド北西部の人,パーニニのまとめた文法によって知ることができる。この文法の組織は西欧の文法とはまったく異なり,スートラとよばれる簡潔なスタイルで書かれ,特殊な専門用語を縦横に駆使した,8章の4000近い規則から成るものである。…

【文法学派】より

…ベーダ聖典研究としての語源学の先駆者としては前500年ころにヤースカが現れて《ニルクタ》を著した。現存する最古の文法学書は前5~前4世紀に活躍したパーニニの《アシュターディヤーイー》(別名《パーニニ・スートラ》)である。この書はきわめて巧妙かつ簡潔に文法の規則を構成したもので,現代の言語学者チョムスキーが生成文法を創案するにあたって有力なヒントをえたといわれる。…

※「パーニーパットの戦」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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