改訂新版 世界大百科事典 「マラーター同盟」の意味・わかりやすい解説
マラーター同盟 (マラーターどうめい)
17世紀後半からインドのデカン地方に成立したマラーター王国が領土を拡大していく過程でとった形態で,プネー(プーナ)のペーシュワー(宰相)政府を中核として半独立的マラーター諸侯が連合し,1708年から1818年まで続いた。
王国の創始者は,17世紀にデカン地方を支配したムスリム王国アーディル・シャーヒーの武将シャーハジー・ボーンスレーを父とするシバージーである。彼はプネーに本拠をおき,マハーラーシュトラ地方の豪族や農民を結集しつつ,巧みなゲリラ戦法で近隣のムスリム勢力を打破,またムガル朝アウラングゼーブとも対等に渡り合い,1674年にラーイガル山砦でみずから王(チャトラパティCatrapati)となり,一大ヒンドゥー王国の基礎を築いた。デカン進出を図るムガル朝との対決関係は続くが,アウラングゼーブの死(1707)以後はマラーター王国の勢力はデカンの地に定着する。
第4代王のときに王位継承問題が生じ,1708年シャーフーが王位を継ぐ(5代)が,このころから王国の実権はペーシュワー(宰相)の手に移り,第2代ペーシュワーのバージー・ラーオ1世(在職1720-40)のときにプネーにペーシュワー政権を樹立し,王はサーターラーの地に監禁同様の身となった。こうして王国はプネーにあるペーシュワーを頂点とし,ナーグプルのボーンスレー家,インドールのホールカル家,バローダーのガーイクワード家,グワーリオールのシンディア家など各地の半独立的マラーター諸侯がこれに忠誠と貢納の義務を負って結合する政治的連合体となり,これがマラーター同盟と称される。しかし1761年にパーニーパットでアフガン軍に敗れたあとペーシュワーの実権は弱まり,とくに第4代マーダバ・ラーオ・バッラールの死後,後継者争いが激化,諸侯間の対立も顕在化する。ベンガルやアウドを征圧したイギリスはこの状況を利して,3度にわたるマラーター戦争によって介入し,1817-18年の第3次戦争で決定的敗北を被ったマラーター同盟は崩壊した。
執筆者:内藤 雅雄
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報