翻訳|Delhi
インド北部、ヒンドスタン平野の北西部にある同国の首都。ガンジス川の支流、ジャムナ川の中流右岸に位置する。中央政府直轄地区デリーの中のデリー特別市とニュー・デリー準市、デリー軍事区をあわせた市街化区域をさし、インドの政治、経済の中枢機能が集中する。直轄地区の面積は1483平方キロメートル、人口1279万1458(2001)、1678万7941(2011センサス)。気候は冬の寒冷、夏の酷暑、そして少雨という特徴をもつ。1月が最寒月で日中最高気温の平均は21.3℃になるが、朝晩は冷え込み氷点下になることもある。4~5月が盛夏でルーとよぶ南西寄りの熱風で気温は高まり、日中の最高気温は45~46℃まで上昇し不快感を増す。5~9月の雨季は蒸し暑い日が続くが、10~1月はさわやかな季節となる。年降水量は715ミリメートルで雨季に集中する。
この地は、西方のインダス川流域から、ガンジス川流域およびデカン高原方面をにらむ戦略上の要地で、古くから多くの王朝が首都に定めた。17~18世紀にムガル朝のシャー・ジャハーン帝以後とくに繁栄し、1911年、カルカッタ(現、コルカタ)にかわって当時のイギリス領インドの首都と定められてから、いっそう発展した。1931年以後町の南側に新市街が建設され、それ以来、北のデリーをオールド・デリー、南の新市街をニュー・デリーとよぶようになった。
[中山修一]
シャー・ジャハーンが築いたレッド・フォート(ラール・キラーともいう)と、これに対面するジャマー・マスジット回教寺院を中心とし、レッド・フォートから西へ向かうチャンドニ・チョーク通りは同地区随一の繁華街として知られる。デリーの名産品として知られる美術工芸品(金、銀、象牙(ぞうげ))の商店などが建ち並び、雑踏する群衆とともに、伝統的なインドの都市の特色がよく表れている。デリー駅の北には、1911年首都になってから形成されたシビル・ライン地区がある。
[中山修一]
直交、斜交する多くの道路が整然と広がり、オールド・デリーと対照的に近代的、西欧的外観を示す。中心に東西3キロメートルにわたって幅300メートルのラージ・パート通りが貫通し、その東端にインド門があり、西部は中央官庁地区となっている。ラージ・パート通りと直交してジャン・パート通りが南北に通じ、その北端に同心円形のコンノート・プレイス(広場)がある。この広場の周辺には高級商店街、レストラン、ホテルなどが集中している。ニュー・デリーの西側には広大なデリー軍事区が広がる。ほかにフマーユーン廟(びょう)、ラクシュミー・ナラヤン寺院など有名建造物が多い。
[中山修一]
北インドのほぼ中央に位置するデリー地域は古来交通の要衝であり、『マハーバーラタ』に現れるインドラプラスタ城もここにあったという。しかし、今日に続く町はラージプート時代のトーマラ朝(9、10世紀)の創建といわれ、ついでチャーハマーナ朝もここに首都を築いた。しかし、デリーが発展したのは、デリー・サルタナットの初めからムガル帝国滅亡までほぼ一貫してムスリム政権の首都として存続したことによる。この間、「デリーの七つの都市」と称されるように、デリー地域内でしばしば首都の移動・新設が行われた。サルタナット中期までの各城砦(じょうさい)都市は現在のニュー・デリーの南に展開した(クトゥブ・ミナールなどの遺跡が現存)が、トゥグルク朝のフィーローズ・シャーの都市は北東部に移った。ムガル朝の第3代アクバルと第4代ジャハーンギールのとき、宮廷はデリーになかったが、第5代シャー・ジャハーンは、フィーローズ・シャーの都よりもさらに北方に、今日「オールド・デリー」の名で知られる一大城壁都市を造営したといわれる(1638年宮廷部分着工、1658年都市部分造営)。
その王城、レッド・フォート内には壮麗な宮廷建築群が現存し、市街地や大モスクは現代に生きている。デリーは商業都市、東方イスラム文化の一大中心地としても発展し、イスラム神秘主義者(スーフィー)の活動の拠点でもあった。またムガル帝国衰退期にはウルドゥー文学が花開いた。デリーはティームール軍の大略奪(1398)を受け、18世紀にはペルシア軍(1739)やアフガニスタン軍(1757)の侵入を受け、19世紀初頭には実質的にイギリスの管轄下に置かれた。1857年のインドの大反乱(セポイの反乱)の際、デリーにムガル皇帝を擁立して「反乱政権」が樹立され、イギリス軍と激戦したが敗れ、破壊、虐殺、略奪の限りが尽くされた。ここにムガル帝国が名実ともに滅亡したことにより、デリーはその首都たることをやめた。イギリスのインド支配はカルカッタのインド政庁より行われた。
[長島 弘]
インドには2022年時点で40の世界遺産が存在するが、このデリーでは「デリーのフマーユーン廟」(1993年、文化遺産)、「デリーのクトゥブ・ミナールとその建造物群」(1993年、文化遺産)、「レッド・フォートの建造物群」(2007年、文化遺産)がユネスコ(国連教育科学文化機関)により世界遺産に登録されている。
[編集部]
『荒松雄著『多重都市デリー――民族、宗教と政治権力』(1993・中央公論)』▽『SD編集部編『都市形態の研究――インドにおける文化変化と都市のかたち』(1971・鹿島研究所出版会)』
イギリス、北アイルランドの都市ロンドンデリーの、1633年以前の旧称および1984年以後の新名称。
[編集部]
インドの首都。連邦直轄領(面積1484km2)を形成し,行政的にはデリー(面積1398km2),ニューデリー(面積43km2),デリー軍事区(面積43km2)の三つに区分される。都市部人口は988万,農村部を含む人口は1279万(2001)。ウッタル・プラデーシュ州とハリヤーナー州との州境部に位置し,東をヤムナー川,西と南をアラーバリ山地の最北にあたるデリー丘陵に囲まれたいわゆるデリー三角地にあたる。防御上の有利性をもつだけでなく,広大なインダス・ガンガー(ガンジス)平原の分水帯に位置し,ベンガル湾,デカン高原,アラビア海さらには中央アジアからの交通路が集まる戦略的要地を占める。そのため,インド史上とりわけ西方からの外来諸勢力の根拠地となった。
デリー三角地は,デリー城を中心とするいわゆるオールド・デリーを北端の頂点とし,歴史的には三角地南部,次いでオールド・デリー,さらにその南方のニューデリーの順に発展した。《マハーバーラタ》に描かれたパーンダバ王子の都インドラプラスタは現在のニューデリー東部プラーナー・キラー(〈古城〉の意)の位置にあったとされる。8世紀の小国分立時代から12世紀末のゴール朝アイバクによる占拠まで,デリーはヒンドゥー諸王の都として存続した。その位置はデリー三角地南部のラール・コット付近であった。アイバクもここを根拠地として1206年みずからデリー・サルタナットの奴隷王朝を樹立した。ラール・コット南方のクトゥブ・ミーナールはデリー征服を記念して彼が建造を開始した高さ71mの石の尖塔である。以後デリーは歴代ムスリム王権の首都となっていく。そのおもな都城址をあげると,ハルジー朝のシリ(1303建),トゥグルク朝のトゥグラカーバード(1321-23建),ジャハーン・パナー(1327建)と続き,これらはいずれもデリー三角地の南部にあった。同朝のフィーローザーバード(1354建)はオールド・デリー南東郊に一挙に北上した。続いてスール朝のシェール・シャーにより1541年建設され,ムガル朝第2代皇帝フマーユーンにより改修されたのがプラーナー・キラーで,フマーユーンはここで死去し,その南方にあるフマーユーン廟に葬られた。
彼以後ムガル朝の首都はデリーを離れたが,第5代皇帝シャー・ジャハーンはアーグラからデリーに首都を移し,シャージャハーナーバードを建設した。これが現在残るオールド・デリーである。シャージャハーナーバードはヤムナー川西岸に接する南北約900m,東西約500mのデリー城と,それを中心としてほぼ約1.5kmの半径で北西から南に扇形に広がる城下町からなる。王城は1639年から9年かけて建設され,赤砂岩の壮大な城壁をもつことからラール・キラー(〈赤い城〉の意)と呼ばれる。内部には1739年ペルシアのナーディル・シャーによって略奪された壮麗な孔雀玉座があったディーワーネ・ハーッス(貴賓謁見の間)などが残る。城下町は11の市門をもつ周囲6.4kmの市壁で囲まれていた。ジャーミー・マスジド(〈金曜日のモスク〉の意,1656完成)は城下町中央部やや南寄りにあり,インド最大の規模をもつモスクである。城下町は小路が迷路状に錯綜する。そのなかの数少ない直線状大路が,王城からほぼ真西にのびるチャンドニー・チョーク(〈銀の町〉の意)で,いまも高級衣料,金銀細工,時計店などが連なるデリー第一の商店街である。
第2次マラーター戦争に際して1803年イギリスが占領,王城の北西方にイギリス軍駐屯地,イギリス人居留地が建設された。1857年のインド大反乱(セポイの乱)に際しては,デリーは両軍の争奪の地となり,王城,城下町とも大きな被害をうけた。イギリスによる鎮圧後,王城のイギリス軍兵舎への転用,城下町北部でのデリー駅を含む鉄道施設の拡充,北方でのシビル・ライン(官庁,イギリス人居留地区)の建設,さらに市門,市壁の一部撤去などの改変が加えられた。1911年にはカルカッタからデリーへのイギリス領インドの首都の遷都が宣言された。これをうけてニューデリーとその西隣の軍事区の建設が開始された。31年のニューデリー完成までは,シビル・ラインに臨時政庁が置かれ,22年にはデリー大学が創立された。遷都宣言時の人口はわずか23万3000にすぎなかったが,41年には67万6000に達した。
47年のインド,パキスタン分離独立は,40万と推定される難民の流入,中央政府および諸外国公館の拡充,工業(既存の紡績,食品,印刷などに加えて金属,機械などの重工業の近郊立地)・第3次産業の拡大をもたらし,デリーの発展の契機となった。人口も51年には141万5000,71年には364万7000に達した。これにつれコロニーと呼ばれる計画的住宅地区,バスティーと呼ばれる不法占拠による低質住宅地区が外延的拡大をとげた。商業と伝統工業を主とする人口過密なオールド・デリー,官庁と大企業管理部門を主とする人口過少なニューデリー,兵営地区のデリー軍事区,コロニー,バスティーからなるデリーのもつ都市構造の多様性はむしろ強化されている。
執筆者:応地 利明
インドネシア,北スマトラ州の地方名。隣接するセルダン,ランカット地方とともに1870年以降タバコ,次いで20世紀にゴム,ココヤシなどのプランテーション地域として発達した。オランダの植民地時代にはメダンを王都とするマレー人スルタンの小王国としてオランダの間接支配下にあったが,1946年の〈社会革命〉を機にスルタン制が廃され,北スマトラ州に編入された。その住民は本来マレー人,バタク族であったが,オランダ資本ほかによるプランテーション開発において華僑,ジャワ人が契約クーリー(苦力)として導入され,1930年までにはジャワ人,華僑が住民の多数を占めるにいたった。日本軍政,革命期にプランテーションが崩壊すると,ジャワ人労働者は耕地を占拠し,水稲耕作を行った。このため1950,60年代には,この地域でプランテーションの管理権を掌握した軍部とこれらジャワ人を代弁する共産党とが対立した。
執筆者:白石 隆
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
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インド北部,ヤムナー河畔の都市。広義には,デリー,ニューデリーの両都市を含む政府直轄地の地区名として用いられる。ムガル帝国のシャー・ジャハーンが造営したシャージャハーナーバード(1638年ないし39年宮廷部分を着工し,48年完成。56年頃までに市内の主要建築物を造営)一帯が現在のデリーに相当する。他方,1911年インド帝国の首都となり,現在インドの首都となっているニューデリーは,そのデリーの南郊にあたる。デリー・サルタナットの各王朝の都城址の多くは,ニューデリーのさらに南に広がる。デリーは,『マハーバーラタ』に描かれた昔から交通・軍事の要衝であり,9~12世紀にもヒンドゥー諸王国の都であった。各時代の数多くの遺跡が現存している。
出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報
出典 旺文社世界史事典 三訂版旺文社世界史事典 三訂版について 情報
…北アイルランド第2の都市。単にデリーDerryとも呼ばれる。フォイル川河口に位置し,人口6万2697(1981)。…
…牧人アミンタが情なき女シルビアに恋し,やがて女が死んだと錯覚して,断崖より身を投げるが未遂に終わり,ついに彼女の心を得てハッピー・エンドという古代の田園詩とフェラーラの宮廷の趣味とがほどよく統合された田園劇(牧歌劇)であるが,抜群の着想と官能性とある種の唯美主義がその特徴である。その系に連なるフランスの詩人に《デリー》(1544)を書いたM.セーブがいる。彼はペトラルキスムや占星術,博物学を駆使して,恋愛感情の諸相とその昇華を歌ったが,その難解さ,官能性,凝縮されたイマージュはまさに〈唯美的マニエリスム〉の名にふさわしい。…
※「デリー」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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