インドのムガル帝国の創設者。在位1526-30年。中央アジアのフェルガナ地方アンディジャーンにティムール朝の王子として生まれる。母はモグーリスターン・ハーン家の出身。1494年父の死去により,12歳でティムール朝フェルガナ地方の太守となる。97年サマルカンドに入城して,ティムール朝サマルカンド政権の君主の位に就くが,フェルガナ地方における内乱のため,わずか100日でサマルカンドを放棄。99年アンディジャーンの奪回に成功,1500年にはウズベクのシャイバーニー・ハーンの手から再びサマルカンドを奪取したが,翌年シャイバーニー・ハーンにサリ・プルの戦で敗北,中央アジアでの活躍の場を失い,幾多の艱難辛苦の後,アフガニスタンに転身して,04年カーブルを征服。次いでこの地を本拠に,11年三たびサマルカンドをウズベクの手から奪還したが,翌12年ウズベクのウバイド・アッラーフ・ハーンに敗れ,以後中央アジアでの活動の道をまったく閉ざされた。しかしこれにくじけず,カーブルを本拠に,19年以降5次にわたってインドに侵入,26年パーニーパットの戦に,デリーのローディー朝の君主イブラーヒームの軍勢を撃破してデリー,アーグラを占領。翌27年にはラージプート族のラーナー・サンガーの軍勢をカンワーKanwāの戦で打破して,ムガル帝国によるインド支配の基礎を築いた。30年アーグラで病没。軍人・政治家として傑出していたにとどまらず,トルコ散文学史上最高の傑作とされる回想録《バーブル・ナーマBābur-nāma》を著し,またイメージ豊かな多数の詩を残した優れた文人でもあった。
執筆者:間野 英二
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1483~1530(在位1526~30)
インド,ムガル帝国の創始者。ティムールの5代目の子孫。中央アジアのフェルガナの領主バーブルは,ティムール帝国の復活をめざしたが,ウズベク人によって中央アジアを追われ,1504年,アフガニスタンのカーブルを征服。その後もサマルカンド奪還を試みたが,結局ウズベク人に敗れた。そこで,19年以降,5度インドに侵入し,26年パーニーパットの戦いでローディー朝の王イブラーヒームの大軍を撃破し,デリー,アーグラーを占領。翌年,ラージプート連合軍も破り,ムガル帝国の北インド支配の基礎をほぼ築いた。30年,アーグラーで病死。彼は軍人,政治家としてだけでなく,文人としても傑出していた。その回想録『バーブル・ナーマ』はトルコ語散文学の最高傑作とされる。
出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報
インドのムガル朝の始祖(在位1526~30)。ティームールの5世の孫。中央アジア、フェルガナの領主バーブルは、ティームール帝国の復活を夢みたが、ウズベク人のために自領をも奪われ、カブールに建国し、サファビー朝と結んで故国の回復を図ったが失敗した。そこで、おりからロディー朝の内紛で混乱していたインドへの遠征を決行した。中央アジアで鍛えられた軍事的才能と優秀な火砲をもった彼は、1526年、10倍ともいわれるイブラーヒーム・ロディーの大軍を、パーニーパットの戦いで撃破して首都デリーを奪い、さらにラージプート連合軍やベンガル王にも勝利し、北インド主要部を征服した。彼はその領地の主要部分を自己の武将たちに分与し統治させたが、少なからぬ部分を、服属したアフガン人豪族や各地の土豪(ザミーンダール)たちに所領として安堵(あんど)しなければならず、まだ帝国の安定を確立できなかった。彼のチャガタイ・トルコ語による回想録『バーブル・ナーマ』は一大傑作である。
[長島 弘]
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