日本大百科全書(ニッポニカ) 「ブリュメール一八日」の意味・わかりやすい解説
ブリュメール一八日
ぶりゅめーるじゅうはちにち
Coup d'État du 18‐Brumaire フランス語
フランス革命暦8年ブリュメール(霧月)18日(1799年11月9日)の、ナポレオン1世による軍事クーデターの開初日。ナポレオンは1799年10月にエジプト遠征から単身帰国したが、彼を迎えてシエイエス、タレーラン、ジュールダンらが密議を凝らし、総裁政府打倒の計画をめぐらした。ナポレオンも弟リュシアンとともに策謀に加わる。11月9日の朝、ナポレオンは盟約の将軍・将校の集めた軍を率い、パリの元老院で演説を行い、ジャコバン派テロリストの不穏な動きを口実に、パリ軍総司令官への就任を認めさせ、五百人議院と元老院をパリ西郊のサン・クルーへ移転せしめる。同時に総裁政府の首脳のバラス、ゴイエ、ムーランらを強制もしくは買収して辞職させ、指揮権を奪い取る。翌10日、ナポレオンは5000の兵を連れて、サン・クルーの両院に乗り込む。反対派の議員は彼に罵声(ばせい)を浴びせ、とくに五百人議院では激しい抵抗を受けたが、議長を務める弟リュシアンの機転と軍の圧力により、反対派を排除することに成功した。その夜開かれた元老院の議場で、総裁政府の廃止が正式に承認され、臨時の統領政府が成立。かき集められた五百人議院も続いて元老院に同調した。臨時の統領にはナポレオンとシエイエスとデュコスが選ばれた。これが将軍ナポレオンの政界に進出した最初の機縁となる。ときに彼は30歳であった。
[金澤 誠]