元老院(読み)ゲンロウイン(その他表記)senatus; senate

デジタル大辞泉 「元老院」の意味・読み・例文・類語

げんろう‐いん〔ゲンラウヰン〕【元老院】

古代ローマの立法・諮問機関。共和政期には政治の運営の中心機関となったが、帝政期には権限が縮小された。
明治8年(1875)左院の後身として設置された立法機関。明治23年(1890)帝国議会の開設により廃止。

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精選版 日本国語大辞典 「元老院」の意味・読み・例文・類語

げんろう‐いんゲンラウヰン【元老院】

  1. 〘 名詞 〙
  2. 古代ローマの立法・諮問機関。王政時代には氏族の長で構成されたが、共和政時代には貴族と任期終了後の政務官から選ばれ、強大な力をもった。任期は終身で最初三〇〇名、のち六〇〇名、二〇〇〇名と増加、帝政時代には無力化した。
  3. フランス総裁政府時代の上院。一七九五年創設。五百人会の提出する法案を票決した。
  4. ナポレオン時代の上院。一七九九年創設。一八一四年廃止。
  5. 明治初期の立法上の諮問機関。政府、大審院と並び三権分立を確立するため明治八年(一八七五)太政官の左院を廃して設置。議長は左・右大臣。議官は華族・官僚などから勅任。権限は弱く、日本最初の官撰憲法草案を作成したが廃案。同二三年(一八九〇)帝国議会の開設により廃止。〔元老院・大審院設置及び地方官召集の詔‐明治八年(1875)〕

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「元老院」の意味・わかりやすい解説

元老院[古代ローマ]
げんろういん[こだいローマ]
senatus; senate

立法・諮問機関。ローマ建国者のロムルス (→ロムルスとレムス ) によって設置されたといわれる。起源は古く,タルクイニウス王のとき定員が 100名から 300名となる。元老院議員の選定は王,執政官 (コンスル ) を経て前4世紀末戸口総監 (ケンソル ) の権限となる。政務官を終えた,おもに高齢者が選ばれた。元来パトリキ (貴族) が多く選ばれたが,プレプス (平民) の議員もふえていった。議員名簿の筆頭者をプリンケプスと呼び,特定氏族のパトリキで戸口総監経験者の最高齢者がその地位を占めた。王政期には諮問機関の役目を果し,王の急死の際には中間王 (インテルレックス ) が議員から選ばれた。議員は紫の上衣,赤皮の靴の着用を許され儀式や競技の座席が与えられた。元老院の職務は,民会 (コミチア ) の議決の承認,また行政,財政,宗教,立法などについての諮問に答え,その諮問が実質的には元老院議決として政務官を拘束した。前 287年のホルテンシウス法以後,法案承認の権利を民会の議決に譲り,議員にも新興のノビリタス (新しい貴族) 階級が進出したが,政務官への助言機関として政務官任命,宣戦日や講和の決定,租税額,収入,支出の決定に大きな影響力をもち,儀式の開催,新宗教の導入を決定するなど,内政,財政,外交面にわたって共和政期ローマの指導的機関となった。前 218年元老院議員は国との請負契約,大船舶の所有を禁じられ,富裕な大土地所有者が議員に選ばれるようになり,終身議員として世襲化するにいたった。 L.スラのとき定員 600名となり騎士身分 (エクイテス ) が参加,さらにユリウス・カエサルは議員資格の制限を縮小し,部下の属州民,軍人,解放奴隷を送り込んで 900名とし,元老院は独裁権の前にその地位を喪失した。しかしアウグスツスは元老院再建に努め定員 600名,議員資格を自由人で 100万セステルチウス銀貨以上の財産をもち,財務官 (クアエストル ) 以上の官職経験者とした。一方皇帝がプリンケプスにつき,議員任免権ももち,元老院統治の属州も治安のよいものに限るなど,その独立性を次第に奪っていった。その結果議員は世襲化し,大土地所有者層の利害を代表することとなった。3世紀の軍人皇帝時代にその権威はまったく衰えたが,皇帝任命権は保ち続けた。コンスタンチヌス1世 (大帝)は新たな議員階級を定め,以後完全に皇帝諮問機関となり,580年頃まで存続した。

元老院
げんろういん

1875年4月 14日のいわゆる「立憲政体を立つるの詔」に基づき,それまでの太政官左院に代って設立された立法機関。同時に右院に代って大審院がおかれ,残置された正院とともに三権分立の形式がとられた。議長,副議長,幹事,議官から構成され,新法の制定,旧法の改正を議定し,諸建白を受けるところとされたが,政府には元老院の議を経なくても法律を制定できる道があったから,厳密な三権分立の意味の立法機関ではなかった。 90年帝国議会の開設によって廃止されるまで,立法上果した役割は大きく,その活動は元老院の会議録で,公刊された『元老院会議筆記』によりうかがうことができる。なお日本初の官選憲法草案「日本国憲法」はここで作成されたが,同草案は廃案となった。

元老院[ロシア]
げんろういん[ロシア]
senat

ピョートル1世 (大帝)が設置した国政の最高機関。ピョートルは外征による不在中の臨時の政府として,1711年2月,従来の貴族会議に代るものとして,9人から成る元老院をつくった。これにより貴族会議は消滅。ピョートルの全国家機構改革の際には,恒久的な最高の行政,司法機関に改組され,その権限はきわめて大きなものとなった。その後,機能,権限は次第に変っていくが,上級裁判所などの機能は,十月革命によって廃止されるまで保持された。

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「元老院」の意味・わかりやすい解説

元老院(ローマ)
げんろういん
senatus ラテン語

古代ローマの王政時代にさかのぼる統治機関。コミティア(民会)、コンスル以下の政務官とともに国政を掌握した。議員は初めは300人、紀元前1世紀には600人に増加され、4世紀には2000人とされた。初めは、王、コンスルによって指名されて議員となったが、のちにはクアイストル(財務官)就任とともに元老院入りをした。財務官就任は民会選挙によったから、元老院入りも民会の意思によったことになる。元老院は政務官を指導して、国内政治と外交、財政と宗教、立法など国政全般に積極的に関与した。開戦と講和の決定、戦時特別税額の決定、服属地への課税、征服地の組織、国庫(アエラリウム)の管理、鋳貨の決定のほか、外国宗教の導入を含め国家宗教の統制も元老院の手に握られた。議員は終身制で、アウグストゥスは議員資格を100万セステルティウスの財産(土地)の所有と定めたが、ケンソルの道徳監査的な機能によって議員資格を奪われることもあった。元老院会議は、インペリウム保持者(のちに護民官など)の主宰で開かれ、報告、提案のあと、議員の官職経歴などで決められる位の上の者から意見陳述が行われ、賛否二群に分かれて集まる採決によって、元老院議決がつくられた。議員のなかには、歩いて採決にだけ加わり何も発言しない「足の議員」も大ぜいいた。有力な将軍(政務官など)の実力の前に元老院の権威が失墜して、共和政は崩壊したが、アウグストゥスは元老院の威信の回復に努め、イタリアと一部属州の統治や国庫の管理を元老院にゆだねたが、これらの管掌はしだいに皇帝の手に移っていった。元老院議員への就任にも、さまざまな手段を通して皇帝の意思が貫徹した。しかし元老院議員はしだいに世襲となり、帝国の高級官僚はほとんど元老院議員の占めるべきものとされ、皇帝と結び付いて帝国統治の要(かなめ)となった。

 元老院と皇帝との関係では、皇帝は元老院議決を自己の思うままに決定させて、元老院の独立性はほとんどなかったが、皇帝の死去あるいは殺害に際しての後継皇帝の決定は元老院の手に握られ、前の皇帝の統治を批判してしばしばその「記憶の抹消」の挙に出た。この間、元老院はしだいにイタリア以外の出身者の多く占めるところとなった。4世紀以後には騎士身分と合体して特権的な大土地所有者の世襲的機関としての元老院となった。しかし、コンスタンティヌス大帝が新都コンスタンティノープルに新たに設置した元老院は、359年にはローマのそれと同格とされ、603年の言及を最後としてローマの元老院は姿を消した。

[弓削 達]


元老院
げんろういん

明治前期の立法審議機関。1875年(明治8)4月14日、大阪会議での合意に基づき大審院(だいしんいん)とともに設置された。左院(さいん)の職掌を引き継ぎ、新法の制定と旧法の改正を議定することを基本的権能としたが、議案は内閣から下付され、急を要する場合は便宜布告後、検視に付する(事後承認を求める)など、立法権はきわめて弱かった。81年までの議案287件のうち、検視は193件に上る。76年から80年にかけて憲法起草に従事し、3次にわたって「日本国憲按(あん)」を作成したが、政府首脳部の拒否により廃案となった。初期の書記官には大井憲太郎、中江兆民(ちょうみん)、沼間守一(ぬまもりかず)、島田三郎ら、のちに自由民権運動の指導者となる新進知識人たちがいた。また、佐々木高行を中心とする議官層は、権限の強化を求めて政府当局者としばしば対立した。

 1890年10月20日、帝国議会が開設されるため廃止。扱った議案は合計759件で、審議状況は「元老院会議筆記」によって知ることができる。なお、建白書の受理も元老院の管轄であった。

[大日方純夫]

『大日方純夫・我部政男編『元老院日誌』全4巻(1981~82・三一書房)』

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改訂新版 世界大百科事典 「元老院」の意味・わかりやすい解説

元老院 (げんろういん)
senatus[ラテン]

古代ローマで王に助言した氏族長老の集い,共和政期には公職者の諮問機関。貴族,平民の終身議員300名を初めはコンスルが,前4世紀末からケンソルが信望と勢威を基準に選任した。後にもっぱら元公職者を選び,議員序列も元ケンソル以下,公職序列に準じた。命令権に基づき,通例コンスルが会議を招集し,議題提示,序列順の指名諮問,採決を主導した。最初に指名される最長老議員の発言は大勢の予示として重視され,逆に発言者へ歩み寄る(賛意表明)だけの議員もいた。理由なき欠席は罰金を負い,議員がイタリア外へ出るには許可を要した。国制上,元老院は諮問機関で自ら開催しえず,決議は単なる勧告で法的拘束力を欠くが,議員の権威と多年の経験が1年任期の公職者を強く束縛した。慣行的に取得した元老院の事実上の裁定権は宣戦,講和,凱旋式,条約締結,属州統治,平時・戦時の国費支出,徴税,貨幣発行などに及んだ。不穏の事態に査問委員会を設け,危急の際は法規停止,最後には戒厳令を布告して手段を選ばぬ収拾を公職者に命じた。すでに前4世紀末から立法と公職者選挙を民会決議以前に承認(実は規制)し,前3,前2世紀の元老院は事実上ローマの統治府であった。なお民会決議の承認権,最長老議員の地位は貴族系議員が専有した。元老院支配を担う特定の名門は前2世紀に元老院議員身分を形成し,帝政初期に議員数600と地位世襲が定められて制度的完成を見た。しかし共和政期末の動乱以来,名門の没落と家系断絶が相次ぎ,元首の指名で欠を補ったため,この身分は成員も意識も一変した。議員は古来の要職を占めるものの,元老院の実権は(裁判権の拡張を除き)半ば自ら放棄し,諮問の機能すら元首側近の顧問団に移った。3世紀後半,騎士身分の要職進出に元老院議員身分は決定的打撃を受け,元老院はわずかに首都ローマの参事会として580年まで形骸を保った。
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元老院 (げんろういん)

明治期の立法諮問機関。1875年4月設置。同年1月の大阪会議で立憲政体への移行の合意が成立し,4月に漸次立憲政体を立てるとの詔勅が発せられ,立法機関として元老院,地方官会議,司法機関として大審院が設置された。立法機関としては法典編纂を主とした左院があったが,これが廃止されるとともに,欧米諸国の議会の上院になぞらえて元老院が設けられたのである。元老院は議長,副議長および議官からなり,書記官,書記生が事務を分掌した。主たる業務は〈新法ノ設立旧法ノ改正ヲ議定シ及ヒ諸建白ヲ受納スル所〉(元老院章程1条)とされたが,まったく自主的な立法機関ではなく,内閣の諮問機関にすぎなかった。それでも3次にわたる憲法草案の起草をはじめ,多くの新法制定,旧法改定を審議し,廃止までの15年間に議案759件,意見書56件を上奏,また自由民権期には多数の国会開設建白書を受理した。当初任命された議官は勝安芳,山口尚芳,鳥尾小弥太三浦梧楼,津田出,河野敏鎌加藤弘之後藤象二郎,由利公正,福岡孝弟,吉井友実,陸奥宗光,松岡時敏,副島種臣の14名(ただし勝,副島は辞退)。初め議長は空席で副議長に後藤がなり,議官を増員し,79年有栖川宮熾仁(ありすがわのみやたるひと)親王が初代議長となった。会議の模様は《元老院会議筆記》に記録されたが,これは当初《元老院日誌》に掲載され,のち独立して689号まで刊行。元老院は90年10月廃院。
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百科事典マイペディア 「元老院」の意味・わかりやすい解説

元老院(西洋)【げんろういん】

senatusの訳。古代ローマの立法・諮問機関。王政時代から存在したとみられる。議員は終身,共和政初期には定員300,のちに600。任命も最初はコンスルが,のちケンソル(戸口総監)が行った。元老院議員のあいだにも大きな権限の差があった。最初貴族のみで構成されたが,のち平民議員も加わり,前3世紀ごろから高級官僚が任期終了後に議員となったため,次第に最上級身分層を構成するようになった。帝政期には権限が縮小し,ディオクレティアヌス帝以降,議員は一種の名誉的称号となった。6世紀末消滅。
→関連項目アレオパゴス会議エクイテスグラックス[兄弟]元首政五賢帝護民官スラトラヤヌスネルウァホルテンシウス法

元老院(日本)【げんろういん】

1875年の大阪会議を受け,太政官左院の後身として欧米諸国の上院になぞらえて同年設立された立法上の諮問機関。議長,副議長および議官からなり,その権限は弱かったが廃止までの15年間に多くの議案を審議し,自由民権期には多数の国会開設建白書を受理した。勅令により日本最初の官選憲法草案〈日本国憲按〉(1876年)およびその改正案として〈国憲〉(1880年)を完成させたが,1890年の帝国議会開設によって廃止。
→関連項目勝海舟神田孝平酒屋会議佐野常民三大事件建白運動高橋由一

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「元老院」の解説

元老院
げんろういん

1875年(明治8)4月14日の立憲政体樹立の詔により,大阪会議にもとづく太政官改革の柱として設置された立法諮問機関。初代議長は有栖川宮熾仁(たるひと)親王,副議長は後藤象二郎。議官は国家功労者・学識者などから任命され,定員30人。定足数は3分の1,議決は多数決(同数は議長裁決)とされた。設立当初,同院は法律議決権や予算議定権をもつとされたが,同年11月の章程改正によりその権限は法案審議のみに限られ著しく弱体化した。翌年9月から国憲取調に従事,80年12月第3次案を上奏したが不採択となっている。同院改革の動きは多く,おもなものには80~81年の一部議官の士族公選制導入への動きなどがある。90年10月20日,明治憲法施行にともない廃止。

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山川 世界史小辞典 改訂新版 「元老院」の解説

元老院(げんろういん)
senatus

古代ローマの最高諮問機関。伝承ではロムルスが設置したといわれるが,建国当初から存在したと推定される。議員の定員は共和政初期には300,のちに600(一時900),任期は終身。初めパトリキのみ,のちにプレブスにも道が開け,前3世紀から財務官(高級官僚の最下位)が任期終了後選ばれて議員となったため,実質的な支配機関を構成した。年齢制限,のちには財産資格があった。帝政期には権限は縮小し,ディオクレティアヌス帝以後は元老院議員は名誉的称号と化した。

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旺文社世界史事典 三訂版 「元老院」の解説

元老院
げんろういん
senatus

古代ローマの政治機関で,共和政時代の実質上の支配機関。「セナトゥス
王政時代から存在し,氏族の長によって構成されていたという。議員の任期は終身で,定員は最初100人であったが,ついで300人となり,スラのとき600人,カエサルのときには900人となった。宣戦・講和・条約・徴税等に関する事実上の裁定権をもつなど,共和政期のローマの最高機関であった。帝政ローマの成立とともに,形式上の権限は保持したが,実質は無力化した。

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旺文社日本史事典 三訂版 「元老院」の解説

元老院
げんろういん

明治前期,国会開設以前の立法機関
1875年の大阪会議の結果,太政官の正院・左院・右院のうち,立法部門は左院を廃し元老院を,司法部門は右院に代えて大審院を設置し,三権分立の形がとられた。'78年元老院で憲法草案(日本国憲按)を作成したが,岩倉具視らの不満をかい,'80年修正案も廃棄された。'90年帝国議会開設に伴って廃止。

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世界大百科事典(旧版)内の元老院の言及

【上院】より

…その正式な名称は,国によって異なる。たとえば,アメリカ合衆国では元老院Senate,イギリスでは貴族院House of Lords,ドイツでは連邦参議院Bundesrat,旧ソ連では民族ソビエト(民族会議)Sovet Natsional’nostei(ソ連崩壊後のロシア連邦では連邦会議),日本では明治憲法下にあっては貴族院,現在は参議院である。その構成や機能も多様であるが,大別すれば,(1)世襲貴族や資産階級などの特権的階層を代表し,保守勢力の利益を擁護するもの(イギリス,明治憲法下の日本),(2)連邦国家において,州を代表し州の利益を代弁するもの(アメリカ合衆国,ドイツ,旧ソ連など),(3)職能代表あるいは良識の府としての役割を期待されているもの(アイルランド,旧ユーゴスラビアなど)などに分けられる。…

【エクイテス】より

…前4~前3世紀になると,軍団騎兵の戦力は低下し,平民の騎兵で増強しても実効は得られなかったため,実戦には同盟者の騎兵をあて,制度上の特権と地位を保った。この名目的騎兵として新興の富裕市民,特に海外交易や徴税請負で巨富を得た平民が登録され,前2世紀,元老院議員身分の形成を機に騎士身分が成立した。政権から除外された大資産家の騎士たちはグラックス兄弟の改革以降,元老院支配の対抗勢力をなし,スラの弾圧を被る。…

【護民官】より

…主務は何より平民救援で,公職者,特にコンスルの懲戒や公務執行を干渉権で阻止し,抵抗すれば逮捕,投獄し得た。民会立法,元老院決議にも干渉権を発動し,公職者の職権濫用,背任を民会裁判に付して罰金刑,死刑に処し,また決議や平民アエディリス,護民官の選挙のため平民会を主宰した。この多分に国制外的な抵抗活動が平民の身分闘争を支えた前5,4世紀,貴族側は護民官の一部を抱きこみ,干渉権を同僚に向けさせるなどの手段で対抗したが,前287年,ホルテンシウス法により平民会決議が国法と同じ効力を持つようになると,護民官の権限も増大する。…

【コンスル】より

…前509年の共和政成立以降,毎年2名が選ばれたという。ケントゥリア民会の選挙後,コンスルはクリア民会でインペリウムを受け,先導リクトルの斧と棒に生殺与奪の大権を示しつつ民政,軍事,祭祀,民会・元老院の開催等,国政全般を主導した。下位公職者への干渉権,市民懲戒の強権も帯びながら在任中は弾劾を免れ,元老院,護民官の掣肘と1年任期,同僚制の厳守が専制を防いだ。…

※「元老院」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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