多数の人の前で自分の意見や主張を述べる方法。古代ギリシア・ローマ時代に発達した。弁論術の大家としては、ギリシアの哲学者ゴルギアス、その弟子でアテネの法廷演説家イソクラテス、イサイオス、イサイオスに修辞を学んだデモステネス、その論敵のアイスキネスなどがあげられる。ローマではキケロ(そのカティリナの陰謀を摘発した演説はとくに有名)、カエサルの追悼演説に雄弁を振るって人望を集めたマルクス・アントニウスなどがいる。このような雄弁術は、ポリス(都市国家)における古代市民の自由から生まれたもので、アテネにもっとも多くの演説家が出たが、帝政の成立とともにこのような演説はとだえ、中世では説教がそれにかわった。議会制度がおこると議会の政治演説が盛んになり、イギリスでは、雄弁で頭角を現したピット、ヘースティングズのインド統治政策を弾劾したE・バーク、C・フォックス、R・シェリダンらの演説が知られている。最近ではW・チャーチルが「その優れた文章と演説は英語とともに残る」と賞賛された。
日本で演説が始まったのは明治になってからである。スピーチspeechに演説の訳語を与えた福沢諭吉(ふくざわゆきち)は『学問のすゝめ』のなかで「我国には古(いにしへ)よりその法あるを聞かず 寺院の説法などは先(ま)づ此類(このたぐひ)なる可(べ)し」と説いているが、1873年(明治6)夏ごろから慶応義塾のなかで有志の者と演説討論の練磨を始め、翌74年三田(みた)演説会を創設、7月1日第1回弁論会を開いた。これが日本における演説の創始で、75年5月三田演説館が竣工(しゅんこう)すると、定期的に公開演説会を開催した。また森有礼(ありのり)らの明六社(めいろくしゃ)の会合でも74年冬から演説が始まっている。
明治10年代に入ると国会開設請願や自由民権運動の高まりとともに、三田系や小野梓(あずさ)の共存同衆、沼間守一(ぬまもりかず)の嚶鳴社(おうめいしゃ)のほか種々の結社が結成され、演説会を開催した。しかし、政府は1878年7月演説取締令を布告、79年5月には官吏の演説を禁止、80年4月には集会条例を公布して政談演説に弾圧を加えた。そのため議会開設後、政治家は議政壇上で雄弁を振るうことになり、文化・時局演説は大衆啓蒙(けいもう)の講演会に形を変えていった。名演説家としては、島田三郎、犬養毅(いぬかいつよし)、尾崎行雄(ゆきお)、永井柳太郎、鶴見祐輔(つるみゆうすけ)などがいる。斎藤隆夫(たかお)の粛軍演説(1936年の二・二六事件の直後)、反軍演説(1940)も有名である。
[春原昭彦]
出典 平凡社「普及版 字通」普及版 字通について 情報
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