( 1 )中国の古典語であるが、日本でも平安時代から幕末・明治初期まで①の意味で用いていた。
( 2 )江戸中期以降、蘭学者の間で、オランダ語 redevoering の訳語として用いられ、さらに明治時代になってから英語 speech の訳語にも当てられるようになった。なお、当時の表記としては「演説」の他に「演舌」なども見られるが、後に次第に「演説」に統一されていった。
ギリシア時代には,ポリス(都市国家)で政治家が勢力を得るためにも,自分を守るためにも,全市民が出席する民会,代表者の構成する評議会などでまず聴衆を説得・扇動して,議決,選挙などの投票に勝つ必要があった。また各ポリス間の勢力争いも激しく,相互間の同盟・離反の関係はしばしば変遷したので,政治家はポリスの使節として演説によって他のポリスを味方にひきいれることも,自分の立身のためにたいせつであった。このように演説はひじょうに重大な国家的,社会的な利害にかかわる意味を持っていた。したがって説得力のある,または扇情的な,じょうずな演説の仕方の研究が発達し,ついに雄弁術(レトリック),雄弁術教師が出現するようになった。それと同時に,他の一方では論理学の発達をうながした。しかし演説者がその演説の内容に対して無責任な場合には,しばしば扇動演説,詭弁におちいった。
雄弁術は前5世紀にまず南イタリア出身の雄弁家たち,たとえばコラクスKorax,とくにゴルギアスらによってアテナイで形成され,アンティフォン,デモステネスらいわゆるアッティカの十雄弁家が輩出して模範とされたが,これを完成したのはイソクラテス,アリストテレスであった。その後もひきつづいて雄弁術はもっぱら哲学者,とくに逍遥学派(アリストテレス学派),ストア学派の手中にあった。ローマ人は前2世紀初め以来ギリシア人から雄弁術を学び,その演説はギリシアの影響をうけるようになった。当時,大カトー,ガイウス・グラックスらが雄弁家として知られたが,共和政時代の主要な雄弁家はすべて政治家としても活躍した。ローマ雄弁術の頂点はキケロであり,そのカティリナ弾劾演説は有名である。またマルクス・アントニウスのカエサル追悼演説もよく知られ,シェークスピアの《ジュリアス・シーザー》中にも,その場面が現れる。帝政になると,演説は政争における武器としての役目を失ったが,しかも依然として雄弁術はギリシア・ローマの教養の中心で,青少年教育の最高段階とみなされていた。5世紀ころには文法,雄弁術,弁証法,算術,幾何学,音楽,天文学は自由七科と呼ばれた。古代の雄弁術の著書はほとんどアリストテレス,キケロ,クインティリアヌスにもとづく。また帝政時代のその他の文芸,とくに叙事詩,手紙,対話,歴史書,文学書などは,その雄弁術的性格によって,ラテン文学に対する雄弁術の意義をよく示している。教会万能の中世には,民衆相手の説教が演説の最も重要な種類になったのである。ルネサンス期には外交官たちのラテン語の演説が行われた。人文主義者はキケロ,クインティリアヌスらの雄弁術を信奉した。
近代国家が成立し,議会制度が行われるようになった近代では,演説の中心は政治的演説で,とくにイギリスの議会主義をめぐって発達した。クロムウェル,バーク,ピット父子,フォックス,シェリダン,ロイド・ジョージ,W.チャーチルらはイギリス議会史上での雄弁家であり,また演説の国イギリスでは民衆のなかの無名の有志が,公園など人の集まる場所で政見その他自己の意見を発表するために街頭演説を行う伝統もあり,その自由も認められている。フランスではボシュエ,ブルダルーBourdaloue,フレシエFléchierらは雄弁な説教家であったが,その後フランス革命がおこると政治的演説は頂点に達し,ミラボー,ロベスピエールらが現れた。近くはクレマンソー,ブリアンらも有名である。ドイツではゴットシェートがライプチヒに演説学校を設立したが,19世紀にはフィヒテ(〈ドイツ国民に告ぐ〉),ラサール,ビスマルクらが傑出している。
日本で,英語のスピーチspeechを訳して演説という字をあてたのは福沢諭吉であるといわれる。初めは〈演舌〉という字をあてたが,舌の字が俗なため,改めて演説としたという。明治初年に福沢は,慶応義塾内の同志を集めて演説の練習をはじめた。それまではヨーロッパで行われてきたような演説の習慣は,日本ではみられなかった。演説の会場にあてるため,福沢は在アメリカの友人富田鉄之助に依頼して会堂の設計図をとりよせ,1875年に演説館を開館した。これは現在も慶応義塾大学の構内に残っている。
大衆の政治参加がすすむ20世紀には,政治的演説は説得の技術として重要度を増し,〈雄弁カリスマ〉(M. ウェーバー)の登場を促す。ヒトラーの場合のように,演説が感情に訴える度合いを強め,理性の意識的な遮断や鈍化に向かうと,それは扇動に転化する。一方,ラジオやテレビなどマス・メディアの発達は,多人数を相手とする熱弁とは異なる演説を生みだしており(1930年代にF.D.ローズベルトがラジオで放送した座談形式の炉辺談話はその先駆),民衆の親しみやすさが重視される。
→政談演説
執筆者:妹尾 幹+編集部
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
多数の人の前で自分の意見や主張を述べる方法。古代ギリシア・ローマ時代に発達した。弁論術の大家としては、ギリシアの哲学者ゴルギアス、その弟子でアテネの法廷演説家イソクラテス、イサイオス、イサイオスに修辞を学んだデモステネス、その論敵のアイスキネスなどがあげられる。ローマではキケロ(そのカティリナの陰謀を摘発した演説はとくに有名)、カエサルの追悼演説に雄弁を振るって人望を集めたマルクス・アントニウスなどがいる。このような雄弁術は、ポリス(都市国家)における古代市民の自由から生まれたもので、アテネにもっとも多くの演説家が出たが、帝政の成立とともにこのような演説はとだえ、中世では説教がそれにかわった。議会制度がおこると議会の政治演説が盛んになり、イギリスでは、雄弁で頭角を現したピット、ヘースティングズのインド統治政策を弾劾したE・バーク、C・フォックス、R・シェリダンらの演説が知られている。最近ではW・チャーチルが「その優れた文章と演説は英語とともに残る」と賞賛された。
日本で演説が始まったのは明治になってからである。スピーチspeechに演説の訳語を与えた福沢諭吉(ふくざわゆきち)は『学問のすゝめ』のなかで「我国には古(いにしへ)よりその法あるを聞かず 寺院の説法などは先(ま)づ此類(このたぐひ)なる可(べ)し」と説いているが、1873年(明治6)夏ごろから慶応義塾のなかで有志の者と演説討論の練磨を始め、翌74年三田(みた)演説会を創設、7月1日第1回弁論会を開いた。これが日本における演説の創始で、75年5月三田演説館が竣工(しゅんこう)すると、定期的に公開演説会を開催した。また森有礼(ありのり)らの明六社(めいろくしゃ)の会合でも74年冬から演説が始まっている。
明治10年代に入ると国会開設請願や自由民権運動の高まりとともに、三田系や小野梓(あずさ)の共存同衆、沼間守一(ぬまもりかず)の嚶鳴社(おうめいしゃ)のほか種々の結社が結成され、演説会を開催した。しかし、政府は1878年7月演説取締令を布告、79年5月には官吏の演説を禁止、80年4月には集会条例を公布して政談演説に弾圧を加えた。そのため議会開設後、政治家は議政壇上で雄弁を振るうことになり、文化・時局演説は大衆啓蒙(けいもう)の講演会に形を変えていった。名演説家としては、島田三郎、犬養毅(いぬかいつよし)、尾崎行雄(ゆきお)、永井柳太郎、鶴見祐輔(つるみゆうすけ)などがいる。斎藤隆夫(たかお)の粛軍演説(1936年の二・二六事件の直後)、反軍演説(1940)も有名である。
[春原昭彦]
出典 平凡社「普及版 字通」普及版 字通について 情報
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出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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