プラッシーの戦(読み)プラッシーのたたかい

改訂新版 世界大百科事典 「プラッシーの戦」の意味・わかりやすい解説

プラッシーの戦 (プラッシーのたたかい)

1757年に行われたインドのベンガル太守(ナワーブ)とイギリス東インド会社軍との戦闘。東インド会社の得た会社取扱商品の自由通関権と会社職員などによるその乱用は,ベンガル太守の財政収入に打撃を与え,太守シラージュ・ウッダウラと会社との対立が強まっていった。会社商館の要塞化問題を機に,両者の軍事的衝突へと事態は発展した。R.クライブの率いる会社軍は,反シラージュ派の将ミール・ジャーファルとひそかに結んで,ベンガル地方のプラッシーPlasseyでフランスと結んだ太守の軍勢を敗退させた。会社は,新太守にミール・ジャーファルを据え,貿易上の特権だけでなく,24パルガナ地方のザミーンダーリー(一種の領主権)と賠償金を獲得した。これ以降ベンガル太守は会社のかいらいと化し,会社のベンガル支配が事実上始まる。
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百科事典マイペディア 「プラッシーの戦」の意味・わかりやすい解説

プラッシーの戦【プラッシーのたたかい】

1757年イギリス東インド会社軍隊と,フランス・ベンガル太守連合軍とが,カルカッタ北方のプラッシーPlasseyで行った戦争。インド支配権をめぐる英国とフランスの緊張の中で,1756年フランスの援助を受けたベンガル土侯シラージュ・ウッダウラはカルカッタを占領したが,1757年クライブの率いる東インド会社軍に奪還された。この後プラッシーで両軍は対戦し,フランス・ベンガル太守連合軍は反シラージュ派の将と結んだ英国側に敗れた。以後英国のインド支配の基礎が固まった。
→関連項目ベンガル南アジア

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世界大百科事典(旧版)内のプラッシーの戦の言及

【インド】より

…インドに到来したヨーロッパ人の目的は,当初はインドの産物の入手という純商業的なものであったが,やがて軍事力を背景にインドの土地と住民に政治的な力を及ぼすようになった。1757年のプラッシーの戦はこうした侵略的なインド経営を象徴するできごとであり,この戦いでベンガル太守軍を破ったイギリス東インド会社は,インド植民地化の足場を固めた。 18世紀のインドはムガル帝国の衰退期にあたり,各地に地方政権が乱立していた。…

【東インド会社】より

…〈地理上の発見〉以降ヨーロッパ各国がアジアとの直接貿易に進出するなかで,イギリス東インド会社は,喜望峰以東のアジア地域の貿易を独占的に行う特権会社として,1600年12月31日に設立され,57年のクロムウェルによる改組を経て,近代的株式会社として確立していった。イギリス東インド会社は,オランダの力の強かったモルッカ(香料)諸島からは退却し,ポルトガルやオランダの勢力を抑えてインドに拠点を拡大し,のちには,プラッシーの戦などを通じてフランスのインドへの進出を挫折させた。会社は,取引の拠点としてインド各地に商館を設立し,その要塞化を図った。…

※「プラッシーの戦」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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