イギリスの軍人,政治家。イギリスのインド支配の基礎を築いた。彼はまず,イギリス,フランス,インド人支配層の争いとなった南インドのカルナータカ戦争で活躍してイギリスの覇権確立に貢献した。1757年には,ベンガル太守とフランスとの連合軍をプラッシーの戦に打ち破り,クライブはベンガルの支配権を事実上掌握し,太守はイギリス東インド会社の傀儡(かいらい)的存在になった。クライブは,一時イギリスに帰国後,65年に再びベンガル知事に就任した。東インド会社は,ブクサルの戦を経て,65年には,ベンガル州全体の地税徴収の権利(ディーワーニーdīwānī)を得た。こうして,商業貿易会社であった東インド会社によるインド支配が事実上始まってゆく。クライブは,効率的行政機構の確立と会社職員の収賄防止に努めたが,67年に帰国。帰国後,議会などで在職中の行政・収賄などについて非難を受け,74年に49歳で自殺した。
執筆者:柳沢 悠
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イギリス東インド会社の軍人、ベンガル知事(在任1757~1760、1765~1767)。第二次カルナータカ戦争で南インドにおけるイギリスの覇権を確立し、1757年のプラッシーの戦いでベンガルの軍事、政治、商業上の支配を達成し、バクサルの戦いののちムガル皇帝から、ベンガル、ビハール、オリッサ(現、オディシャ)3州の収租権を譲渡させて、会社の領土支配の端緒をなした。彼は在地支配層内部の敵対関係や彼らと在地大商人層との矛盾を巧妙に利用しながら、これら一連の事業を遂行した。1762年功績により男爵に叙せられた。晩年は在任中の会社職員の腐敗や蛮行の責任と彼自身の蓄財とが世論の追及を受け、自殺を遂げた。
[高畠 稔]
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…会社商館の要塞化問題を機に,両者の軍事的衝突へと事態は発展した。R.クライブの率いる会社軍は,反シラージュ派の将ミール・ジャーファルとひそかに結んで,ベンガル地方のプラッシーPlasseyでフランスと結んだ太守の軍勢を敗退させた。会社は,新太守にミール・ジャーファルを据え,貿易上の特権だけでなく,24パルガナ地方のザミーンダーリー(一種の領主権)と賠償金を獲得した。…
※「クライブ」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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