改訂新版 世界大百科事典 「ムハンマド5世」の意味・わかりやすい解説
ムハンマド[5世]
Muḥammad Ⅴ
生没年:1910-61
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
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1910 - 1961.2.26
モロッコの国王。
元・モロッコ国王。
アラフィ朝の正統に生まれる。18歳の時、父ユースフを継いでスルタンに即位し、モロッコ民族運動の象徴としての役割を果たす。1953年植民地政府によって廃位され、国外追放となるが、’55年帰国して復位。翌年独立し、’57年スルタンから国王と改称。’61年病死し、ハッサン皇太子が王位を継承する。
出典 日外アソシエーツ「20世紀西洋人名事典」(1995年刊)20世紀西洋人名事典について 情報
出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報
…【私市 正年】。。…
…フィラーリーFilālī(ターフィーラールトTāfīlālt出身者の意)朝,フィラール朝ともよぶ。王家の先祖は13世紀末,アラビア半島からモロッコ南部のターフィーラールト地方に来住したアラブ系の一族で,預言者ムハンマドの孫ハサンの血を引くシャリーフ(〈高貴な血筋の人〉の意)を主張する。聖者崇拝思想の発展とポルトガルやスペインに対する排外的なジハード(聖戦)意識の高揚を土台に,ムハンマド・アッシャリーフをスルタンとしてターフィーラールトに建国(1631),40年には,アラウィー家のムハンマド・ブン・ムハンマドは,周辺地域を含む王とみとめられた。…
…フランスによるアルジェリア征服以降列強の圧力が高まり,イギリス(1856),スペイン(1861),フランス(1863)が相次いで不平等な通商条約を押しつけてモロッコへの経済的侵略が始められた。それに対してムハンマド4世以下3代のスルタンのもとで行政・軍制の改革,産業開発などの近代化政策が実施されたが,それが財政危機と内乱を誘発し,かえって国力を弱めた。フランスほかの列強は互いに牽制しあったが,マドリード条約(1883)による上記3国の妥協,タンジール事件(1905)によるドイツの介入(モロッコ事件),アルヘシラス会議(1906)を経て,モロッコは,経済的には列強への門戸開放,政治的にはフランスとスペインへの従属を余儀なくされた。…
※「ムハンマド5世」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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