→「くぐつ(裹)」の語誌
魁,窟などとも書かれる。殉死者の代用物である明器(めいき)に起源するとの考えもあるが,漢の応邵の《風俗通》の佚文に〈魁,喪家の楽〉とある傀儡は,追儺(ついな)の日,黄金四目の面に,熊皮をかぶり,玄衣朱裳の身ごしらえをし,戈(か)と盾を手に悪鬼を追う方相面に由来するといわれる。方相の頭が大きく畏怖すべき貌を形容したのが,もともと傀儡の意味なのである。この追儺を喪礼に行ったのが〈喪家の楽〉である。偶人(人形)を作っての芝居,魁子(傀儡子)は,漢末(2世紀)になると葬礼からはなれ宴会に使用され,凶疫をはらう意が失われて滑稽娯楽の性格をおびてくる。南北朝から宮中で傀儡歌舞が愛好されたが,芸能として大成し演劇と結合したのは宋代(10世紀)である。演目も多様で,孫楷第は後世の芝居の源と重視する。今日と同じものは杖頭と懸糸の2種。杖頭は約60cmの人形を左手で主棒を支えからくりのひもで表情をつくり,両手についた2本の棒を左手で使う。北京,四川,広東のものなどが有名。懸糸は今の提線木偶で約30cmの人形を(鉄)糸で操る。指人形(布袋戯)も含め福建のものが最も優れ対岸の台湾でも流行している。演目は旧劇に類し,当初,鼓笛を伴奏としていたがのちに胡弓も加わる歌舞形式をとる。1930年,上海で木人戯社が結成され左翼演劇も上演された。現在,中国では傀儡子を木偶戯という。日本では9世紀ごろ藤原醜人(しこひと)が中国から習って宮中で演じた(《散楽策問》)という。
執筆者:吉川 良和
人形を回したり今様をうたったりして漂泊した一種の芸能民。操り人形をさしてもいう。日本におけるくぐつについては外来民説と国内発生説がある。前者は朝鮮の史書に見える白丁(はくちよう)族の日本に渡来したとする説で,後者は海部(あまべ)の民とする折口信夫の説である。くぐつとは莎草(くぐ)を編んで作った袋の意のくぐつこ(籠)に人形や生活用具を入れて放浪した芸人のことをいう。他に名称の由来については,木霊を意味する〈くくのち〉に由来するとする説やあるいは中国語,朝鮮語,ジプシー語(ロマニ語)などの転化かとする説などもある。大江匡房の《傀儡子記(くぐつき)》によると男は弓馬を使って狩猟をこととし,さまざまな幻術を行ったり,木偶(でく)を舞わしたりする。女は化粧をこらして歌をうたい,婬を売るとある。ジプシーに似た漂泊民であって,彼らは農耕の民ではなく,官僚的支配の外側に生き,〈上は王公を知らず,傍(かたわら)牧宰を怕(おそ)れず,課役なきをもて一生の楽となせり〉とあるように,体制外の非編戸の民であった。集団の傀儡の中で人形を舞わすものを〈くぐつまわし〉と呼び,12世紀(平安末期)には〈傀儡師〉の字をあてるようになった。のちには〈くぐつまわし〉を〈かいらいし〉ともいった。13世紀(鎌倉時代)の間に傀儡集団は各種の職能別に分散して定住したようで,14世紀以後はくぐつという語が集団民を指すことはなくなった。15世紀には〈てくぐつ〉が輩出し,それが16世紀には摂津西宮の戎神社と結合して職能組織をもち,〈えびすかき〉と称して劇団を組んだ。ほかに仏寺と結合した〈ほとけまわし〉などもあった。
くぐつ女が遊女(あそびめ)であったことは,《下学(かがく)集》(1447成立)の〈日本の俗遊女を呼びて傀儡といふ〉に明らかである。中世以後くぐつというと人形まわしのことを指すようになり,遊女の印象は消えてゆくが,これは後の分化で,平安時代の遊女くぐつは,江戸時代の遊女や宿場女郎のような籠の鳥ではなく,天下を放浪する自由な身で,党を作り旅行者の多い駅路や港津に集まった。くぐつ女の集結した場所には,東国の美濃,三河,遠江,山陽の播州,山陰の馬州(但馬と丹波),西海道などがあり,乙前(おとまえ)小三(おみ),なびき,目井(めい)など,今日まで名の伝わるくぐつ女も少なくない。《梁塵秘抄口伝集》には乙前という老くぐつ女が後白河院に今様の手ほどきをしたことが記されているが,くぐつ女はいわゆる〈今様雑芸(ぞうげい)時代〉の中心的な担い手だった。その演ずるものは今様のほか古川様(ふるかわよう),足柄(あしがら),片下(かたおろし),催馬楽(さいばら),黒鳥子(くろとりこ),田歌など,およそ当時の歌謡のすべてに及んでいるが,これなどもくぐつ女が音曲面でよほどすぐれていたことを示すものであろう。また《詞花集》《散木奇歌集》《本朝無題詩》《六百番歌合》などからは,くぐつ女とその芸が都の貴族たちにとっていかに魅力あるものであったかが如実にうかがえる。
執筆者:岩崎 武夫+天野 文雄
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傀儡子(くぐつ)・(かいらいし)とも。狭義には人形遣いの古称だが,広義には人形とその芸能集団を含めた漂泊芸能民総体をいう。「くぐつ」の語源は不詳。文献上の初見は「新訳華厳経音義私記」の「機関」の注の「木𤯔,久々都」(「𤯔」は則天文字で人の意)で8世紀末。「和名抄」には「傀儡子,和名久々豆」とある。11世紀末頃の実態を記す大江匡房(まさふさ)の「傀儡子記」によれば,流浪生活を送りながら,人形芸以外に男は狩猟・曲芸幻術,女は歌舞売春などをしたとある。今様の名手もこうした女性のなかから出た。鎌倉時代に消滅し,かわって「てくぐつ」と称する,のちの人形浄瑠璃につながる専門の人形芸人が登場し,室町時代に盛んとなった。
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… また,散楽は曲芸,幻術,物真似などを含み宮廷の饗宴の余興にも演じられたが,また民間にも流布して,猿楽(さるがく)とよぶ芸能を生んだ。平安中期に著された藤原明衡の《新猿楽記》には,猿楽を専業とする芸人が京の稲荷祭の雑踏の中で滑稽猥雑な寸劇や曲芸,さらには傀儡(くぐつ),田楽(でんがく)などの芸も演じて人気を博したとあるが,傀儡は人形まわしで,当時これを中心に歌舞,幻術,曲技などをもって各地を巡回する芸能集団も別にあった。また田楽は元来田植の祭事に演じられたお囃子で,太鼓,編木(びんざさら)主体の野性的な音楽の魅力が人気をよび,やがて猿楽にも取り入れられ,またこれを主体に演ずる田楽法師と称する専業芸能者が生まれた。…
…そしてこうした女性も特有の被り物(かぶりもの)によって,平民の女性からみずからを区別していた。 遊女,白拍子(しらびようし),傀儡(くぐつ)なども基本的には同様で,そのなかには正式の職人として認められた人々もあったのである。鍛冶,番匠,檜物師などと同様に荘園・公領に給免田を与えられた傀儡の存在や,遊女・白拍子は〈公庭〉に属する人といわれている点などによって,それは明らかである。…
…中世後期に活躍した人形遣い。手傀儡の〈手〉は〈私的な〉という意味をもち職能組織には属さないことを示すもので,平安時代から中世後期に活躍した傀儡が,職能組織として交通の要衝に地歩を築いて活躍したのに対し,手傀儡は宮中や貴族の邸内に参入,当時の流行芸能である猿楽能などを人形で演じて見せた。ほかに一座の少年が輪鼓(りゆうご),師(獅)子舞,曲舞(くせまい)などを演じることもあった(《看聞日記》)。…
…
【人形浄瑠璃の歴史】
[成立]
浄瑠璃は,三河国矢矧(やはぎ)の長者の娘浄瑠璃姫と牛若丸の恋物語で,《十二段草子》とも呼ばれ,中世後期から近世初期に多くの絵巻や草子に書き留められたが,本来は三河の巫女たちによって語られた女主人公をめぐる鳳来寺峰の薬師の霊験譚であったといわれる。その成立については,少なくとも1474年(文明6)ころには,薬師如来の申し子である姫の誕生,牛若との悲恋,死と成仏を語る現在の《しゃうるり御前物語》(山崎美成旧蔵)のごとき長編が都で行われていたと考えられ,1世紀余りのちの〈文禄から慶長への交〉には,外来の三味線を伴奏楽器として,傀儡子(くぐつ)の人形戯と結んで,人形浄瑠璃が成立する(《絵巻`上瑠璃’》および《しゃうるり十六段本》所収の信多純一説)。そのころには,すでに浄瑠璃姫物語以外の新作や幸若(こうわか)の曲目が浄瑠璃の節で語られ,〈浄瑠璃〉は一作品名から一語り物ジャンルの名称に転じていた。…
…(5)人形芸 桑の木の御神体を手にして語る東北の〈おしら遊び〉は日本の人形芸の原始を示す例だが,大分県の古要(こよう)神社などに伝わる神人形は朝鮮半島の人形とも似て,大陸伝来の人形芸の古風をしのばせる。海辺の村々を漂泊したという平安時代の傀儡(くぐつ)のおもかげは,いまも徳島県の夷(えびす)まわしにも見られ,江戸時代に発達した一人遣いの人形芝居や,大坂で完成した三人遣いの文楽系の人形芝居も各地に分布している。また,からくり人形(からくり)などの人形戯も各地で考案されている。…
※「傀儡」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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