第1次世界大戦の終結(1918年11月)から第2次世界大戦の勃発(1939年9月)までの約20年間を指すが,この時期は,国際政治史の観点からすれば,戦後処理から安定に向かった1920年代が大恐慌の突発(1929)によって一挙に暗転し,激動と対立の30年代につなげられ,再び世界大戦へと帰結する,〈20年間の休戦〉とも呼びうる時期であった。
一般に1880年代以降,世界は近代から現代へと移り変わりはじめ,第1次大戦はこの転換過程を加速したといわれているが,戦間期はこうした流れが一時的に中断され,古い要素と新しい要素が入りまじり,せめぎ合ってユニークな合成効果を生んだのであった。その特徴を国際関係と思想,文化の側面から概観してみよう。
交戦国のいずれもが短期戦と予想していた第1次大戦は意外な持久戦となったが,戦局の行詰りは1917年に起こった二つの事件,アメリカの参戦とロシア革命によって破られ,1年後に戦争の幕は下りることになった。いわばヨーロッパから燃え広がった戦争は非ヨーロッパ大国の介入によって消し止められたわけである。もちろん二つの事件の直接的効果には質的な違いがあるが,いずれにせよ,かつては国際政治の中心とみなされていたヨーロッパが今やその地位を失ったことは明らかであった。この意味において,1919年に出版されたO.シュペングラーの《西洋の没落》が評判になったのは象徴的なことであった。
二月革命以後のロシアの混沌状態に終止符を打ったのはレーニンらボリシェビキによって指導された十月革命であったが,彼らは後進国ロシアでの社会主義革命の生存可能性に疑問を抱き,先進資本主義国における革命からの援助を不可欠と考えていた。しかし,さしあたって第二,第三の革命が続く現実的可能性がない以上,この可能性を射程にいれた〈革命外交〉を進めることは無益であるどころか危険であった。1917年末から始まるドイツ側との単独講和交渉で党内の意見が大きく分かれたのは,〈革命外交〉に本来ひそむこのジレンマのためであった。18年3月3日,ブレスト・リトフスク条約の締結によってロシアが戦争から離脱すると,列強からの本格的武力干渉が始まり,その後約2年間,ソビエト政権は国内の反革命勢力と外国の干渉軍を相手に死闘を繰り広げた。
パリ講和会議(1919年1~6月)にはソビエト政権の代表は招かれなかったが,その見えざる影は会議の進行に大きな影響を及ぼさずにはいなかった。そもそも講和の原則として受け入れられたウィルソン・アメリカ大統領の,いわゆる〈ウィルソンの14ヵ条〉は,もともと十月革命の提起した民主的平和のシンボルを連合国政府の側で奪い返すために打ち出されたのであり,要するに伝統的な旧式外交に対して新外交new diplomacyを対置させたものであった。こうしてウィルソンの新外交とレーニンの革命外交は,二つの戦後構想として対立したが,いずれも貫徹されることなしに終わった。ウィルソンの新外交はアメリカ国内での支持の喪失と,他の諸列強の国家利益をかけた抵抗によって,適用面では大幅な修正を余儀なくされ,さらに国際連盟への不参加が示すように,アメリカは孤立主義に復帰したかのようにすらみえた。しかし,この古い伝統への回帰とみえたものは,実は戦後アメリカの経済的繁栄を背景とした高度文明の生み落とした〈アメリカニズム〉(アメリカ第一主義的信念)の外交的表現にほかならなかった。そして,確かに世界最大の債権国となったアメリカは,工業生産の分野で,その占める割合を1914年の35.83%から29年の42.2%へと増大させていたのであり,他を寄せつけない経済的実力は国際問題を処理するうえでのアメリカの強力な切札となった。他方,ボリシェビキの唱えた革命外交も,社会主義国家といえども免れえなかった国家の自己保存の論理に,やがて席をゆずることになった。
戦後処理の焦点はいうまでもなくドイツであった。ドイツ革命(1918年11月)は確かにロシアの先例をたどらなかったとはいえ,敗戦に伴う荒廃と社会不安は依然として左右の急進主義の絶好の土壌であり,コミンテルンはドイツ共産党による権力獲得を鼓舞した。しかしドイツ共産党とコミンテルンの指導のもとに中部ドイツで計画された〈三月行動〉(1921)の惨憺(さんたん)たる失敗は,独立社会民主党左派を吸収して大衆政党となった共産党を大きく後退させた。ここにドイツにおける共産党=コミンテルンの攻勢期は峠を越し,コミンテルンも統一戦線という守勢戦略に転じた。同時にソビエト政権も対ポーランド戦争(1920年4~10月)を最後に,内戦と干渉戦争の試練をのりきり,戦時共産主義からネップ(新経済政策)の穏健路線に移行し,これに応じて,これまで利用を限定されていた通常の外交手段による国際的地位の改善を図るようになった。そして,このような背景のもとで,ソ連とドイツの接近が進められた。なお,ドイツ側にも経済的あるいは軍事的考慮から,ソ連との提携を支持する有力な勢力(いわゆる東方派)が存在していた。この相互接近のピークが1922年4月のラパロ条約であり,ドイツはソビエト政権を正式に承認する最初の資本主義大国になった。
ベルサイユ体制のもとでも,フランスとドイツは厳しい対立関係におかれた。国力の点でドイツに対する劣勢を自覚していたフランスは,軍備上の優位の確保,ドイツの背後にあるチェコスロバキア,ポーランドなどの継承国家との同盟網によって安全保障を図るとともに,過酷な賠償取立てによるドイツ再建の遷延をねらった。そしてドイツが経済状態の悪化のため賠償支払いの履行が不可能になると,1923年1月,フランスはイギリスの反対を押し切ってドイツの工業中心地ルール地方を占領した(ルール占領)。ドイツ政府は〈消極的抵抗〉を命じたが,天文学的なインフレーションが進行し(11月にはマルク紙幣は戦前の1兆分の1に下落),左右の反政府勢力も着実に伸張した。こうしてドイツは〈消極的抵抗〉を打ち切り(9月),シュトレーゼマンのもとで〈履行政策〉に切り替えた。また,インフレーションも新通貨レンテンマルクの発行によって収拾に向かった。一方,フランス国内でもルール占領に対する批判がしだいに高まり,翌年5月の総選挙では,ポアンカレの政府が社会党,急進社会党などの〈左翼連合〉に敗れるという情勢が生まれた。こうしてのりだしたのがアメリカであった。8月16日,専門家委員会(ドーズ委員会)の報告書に基づく新しい賠償支払暫定計画が調印された。その仕組みは,アメリカがドイツに資金を供与し,その一部はドイツからの賠償に充てられ,賠償を受け取ったイギリス,フランスなどはアメリカに対する戦時債務の弁済に充てるというもので,今や圧倒的なアメリカの資本力を媒介とする経済的統合が一段と進んだことを意味していた(もっともドイツは1924年から29年にかけて80億金マルクを支払っただけで,残りは大恐慌の余波をうけて事実上棚上げになった)。
ルール占領が引き起こした国際危機がこうしてひとまず回避されたのち,ヨーロッパの平和はロカルノ条約(1925年12月)によっていっそう固い基盤を与えられた。これはフランス,ドイツ,ベルギー,イギリス,イタリアの間で結ばれたラインラントの現状維持に関する集団安全保障条約(ライン条約ともいう)で,ドイツが自発的にベルサイユ条約の規定を再確認したことの意義は大きい。ただドイツがその東部国境については同じような義務を引き受けることを拒否したことは,将来のドイツの対東ヨーロッパ政策の方向を暗示していた。1926年,ドイツは国際連盟に加入した。しかしドイツの対西方接近に対して,ソ連は対ソ包囲網の形成として神経をとがらせたが,シュトレーゼマンは,ドイツの対外的自主性の回復にとって東西の中間に立つことの有利さを認識していたから,26年4月にはソ連と中立条約を結んだ。28年8月,侵略戦争を違法とした不戦条約が32ヵ国代表によってパリで調印された。こうしてヨーロッパの戦後の混乱期は終わり,相対的ないしは一時的安定期が始まった。
レーニンの後継者の一人に擬せられていたスターリンが1924年末に初めて唱えた〈一国社会主義〉は,党のオーソドックスな立場からいかに離れていたにせよ,ヨーロッパの国際関係の安定,したがって革命情勢の退潮という当時の現実を反映していたのであり,〈革命外交〉における〈革命〉と〈外交〉の分離,さらには前者の後者に対する従属を含意していた。
20世紀の特徴の一つは,アジア,アフリカ諸民族のヨーロッパへの反逆であった。19世紀末以降のヨーロッパ勢力のグローバルな拡大は,なかんずくアジアにおいては,伝統社会の解体,近代産業の発達,民族運動を担う新しいエリート層の形成を促し,第1次大戦はこの変革過程をさらに速めた。インドでM.K.ガンディーに指導された全国的な非暴力不服従運動の展開(1920-22),五・四運動(1919)から中国共産党の創立(1921)を経て第1次国共合作(1924-27)にいたる中国の反帝・反封建闘争の高揚は,戦後の民族運動の新しい段階を代表している。エジプト,ペルシア,アフガニスタンも戦後相次いでイギリスの保護国の地位を脱し,パレスティナでのユダヤ人,アラブ人,イギリス当局の三つどもえの抗争は大国の民族問題に関する無知の告発となっており,北アフリカではアブド・アルカリームに指導されたリーフ族の反乱が1920年代前半,スペイン,フランス連合軍を翻弄した。トルコでもケマル・アタチュルクの国民軍に結集した民族主義勢力が協商国間の矛盾を巧みに利用し,スルタン政府の結んだ屈辱的な講和条約を改正することに成功した(1923年7月)。ソ連が国民軍の闘争に援助を惜しまなかったことは,コミンテルンがそれまでの社会主義運動と違って,民族・植民地問題を革命戦略の不可分の環として取り上げたこととならんで,戦後の民族運動に新しい展望を与えるものであった。
ワシントン会議(1921-22)は,大戦中,中国と西太平洋方面で独占的地歩を固めつつあった日本に対するアメリカの巻返しであり,中国に関する九ヵ国条約は,中国の半植民地状態を維持したままで列強の利害の調整を図ったものであった。こうしてワシントン体制のもとで,中国の民族革命運動はさらに激化した。1926年6月,全国統一をめざす北伐が開始されると,各地の農民と労働者も立ち上がり,運動の急進化を促した。この結果,運動内部での左右への分裂が深まり,27年4月12日の上海クーデタ後,民族革命の波は明らかに退きはじめた。このような情勢をまえに,コミンテルンの指導方針はソ連共産党内部の権力闘争とからみあい,スターリンは,国共合作路線に最後まで固執し,次にあわてて武装蜂起という極左方針を指令,中国共産党に致命的な損害を与えた。国民党の実権を握った蔣介石は,翌28年2月北伐を再開し,6月には北京を占領し,やがて満州(中国東北)にも青天白日旗がひるがえるにいたった。
相対的安定期における資本主義経済の回復には目覚ましいものがあったが,活況の表面の下では農産物など一次産品の価格は低迷し,失業者も慢性的にかなりの高水準にあるといった構造的脆弱(ぜいじやく)性が存在していた。1929年10月に突発したニューヨークの株式相場の大暴落をきっかけに,各国は相次いで恐慌の渦に巻き込まれた。安定の基礎をなしていた国際経済協力体制は崩壊し,列強はこぞって自給自足をめざすブロック政策に移行した。この間ソ連は,恐慌からみずからを隔離させつつ,五ヵ年計画を推進し軍事力の増強に努めたが,それは同時にスターリン主義という永続的戒厳体制がつくられていく過程でもあった。
大恐慌のもたらした国際的アナーキーは,対外侵略によって国内の危機を打開しようとする国々を生み出した。日本,ドイツ,イタリアがそれである。1931年9月,日本軍は奉天(瀋陽)北方の柳条湖で軍事行動を起こし,まもなく全東北を占領した。これに対して西側諸国は,アメリカが侵略の結果を承認しないとするスティムソン・ドクトリンを発表しただけで,日本の侵略行動を事実上黙認したが,その後,日本は国際連盟の微温的な決議にすら反対して国際連盟を脱退した(1933年3月)。ドイツでは33年1月,ヒトラーのナチス政権が成立し,〈生存圏〉の獲得をめざして本格的な再軍備にのりだした。ドイツはまず軍備平等権を要求して軍縮会議と国際連盟から脱退し(10月),35年3月徴兵制度の復活を発表し,ベルサイユ条約の軍備制限条項を一方的に破棄した。イギリス,フランス,イタリアは,ストレーザ会談で対独結束を誇示したが,具体的な制裁措置は生まれなかった。そればかりでなく2ヵ月後には,イギリスはドイツが対英35%の海軍力を保有することに同意した。つづいてイタリアも,35年10月,エチオピアに対する全面的侵略にのりだした。国際連盟はイタリアに対する経済制裁を決定したものの,石油を禁輸リストから外すなど実効的手段を欠き,イタリアをドイツの手中に追いやる結果にしかならなかった。
1936年5月,エチオピアの抵抗もついに力尽き,11月,ムッソリーニは〈ベルリン・ローマ枢軸〉を豪語した。それよりさき35年3月,ヒトラーはロカルノ条約を破棄してラインラントにドイツ軍を進駐させた。フランス,イギリスはことば以上の対抗措置をとることもなく,ベルサイユ体制の崩壊を座視した。フランスが誇るマジノ線の要塞は,これ以降この国を東ヨーロッパ同盟国から切り離すゲットーと化した。
ナチス政権の出現はソ連とフランスにとって深刻な脅威となった。〈一国社会主義〉のコースを邁進しつつあったソ連にとって,平和な国際環境の維持が何よりも必要とされ,日本,ドイツの現状打破政策に直面して,現状維持国との協調を選んだ。ソ連は1934年9月国際連盟に加盟し,翌35年5月にはフランス,チェコスロバキアと相互援助条約を結んだ。一方フランスでは,34年2月6日のファシスト団体の反政府暴動をきっかけに社会党と共産党の統一行動が組織され,さらに中間層をも糾合した反ファシズム共同闘争のための〈人民戦線〉が結成された。35年夏のコミンテルン第7回大会は,セクト的な〈社会ファシズム論〉と最終的に決別し,民主主義の擁護を何よりも優先させる〈人民戦線〉戦術を採択した。同じころ,大西遷を終えたばかりの中国共産党も,抗日救国の統一戦線を呼びかけた八・一宣言を発表した。36年6月,フランスでは社会党と急進社会党よりなる人民戦線政府が発足した。しかしながら新政府の社会改革計画は資本側の抵抗にあって行き詰まり,さらに7月に勃発したスペイン内乱に伴う外交指導の危機にさらされ,統治能力の喪失を露呈した。人民戦線政府に対する軍部のクーデタに始まるこの内乱に際してブルム政府は,反乱側へのドイツ,イタリアの援助にもかかわらず,イギリスの圧力とフランス国内世論の分裂の危機に直面して不干渉政策を提案し,9月にはロンドンに不干渉委員会が設けられた。ちなみにフランスの干渉反対派は,親独的な保守派だけでなく非共産系左翼のうちの教条的反戦主義者や絶対平和主義者をも包含し,フランスにおける〈宥和(ゆうわ)主義〉の複雑な断面を示していた。
しかしドイツ,イタリアからの介入がやまないのを見て,ソ連はスペイン人民戦線政府側に顧問と武器を送りはじめ,ヨーロッパやアメリカから多くの知識人や労働者が政府防衛のための国際義勇軍に加わった。スペイン内乱は国境を越えた国際的内乱となった。しかし戦局は政府側にとって好転せず,加えてソ連の権威をバックにした共産党とその他の左派グループの内紛が激化し,人民戦線勢力を弱体化した。内乱は1939年2月,政府側の敗北に終わるが,この間,イタリア,ドイツの提携はさらに進み,イタリアは37年11月,1年前に日本とドイツの間で締結された防共協定(実際の目標はソ連)に加入し,翌月には国際連盟から脱退した。なお日本の全面的な中国侵略の開始(1937年7月)に対してF.ローズベルトは10月,有名な〈隔離演説〉で日本の危険性に警告し,その後きわめて慎重ながら,まだ圧倒的な孤立主義的ムードに抗して,極東政策の軌道修正に入った。
1930年代後半の世界は,こうして共産主義,自由主義,ファシズムの三大勢力の角逐の場となっており,イデオロギーと権力政治が複雑なパターンを織り成すようになった。37年11月ヒトラーは秘密会議の席上,オーストリアおよびチェコスロバキアの占領計画を打ち明けていたが,果たせるかな38年3月オーストリアを併合し,次にチェコスロバキアのズデーテン・ドイツ人党を使嗾(しそう)して自治を要求させ,混乱に乗じての介入をねらった。共産主義よりもナチズムを〈より小さな悪〉として選んだイギリス保守党政府はチェコスロバキア政府に圧力をかけて対独譲歩に同意させたが,最後には38年9月,イギリス,フランス,ドイツ,イタリアの4ヵ国会談でズデーテン地方のドイツへの割譲を一方的に決定した(ミュンヘン会談)。この動きからソ連が一貫して排除されたことは宥和政策の反ソ的性格を雄弁に物語るものであり,それまで現状維持陣営にコミットしていたソ連は徹底した現実政策に立ち戻るほかなかった。39年春,チェコスロバキア解体からポーランドに対する要求にいたるドイツの行動は宥和政策の失敗を示すものであり,イギリス,フランスもようやくソ連を引き入れた対独共同戦線の可能性をめぐる交渉に入るが,相互不信の壁はあまりにも高く,やがてデッドロックに乗り上げた。
三国会談の成行きを注視していたドイツは,5月末,対ソ接近を積極化したが,ソ連は容易に動かず,息づまるような外交的駆引きを続けたのち,8月23日,モスクワで独ソ不可侵条約が調印され,あわせて東ヨーロッパにおける両国勢力圏の分割が取り決められた。1939年9月1日,満を持していたドイツ軍はポーランドに侵入,ここに第2次世界大戦が始まった。日中戦争の泥沼に足をとられ,同年5月以降ノモンハンでソ連機械化兵団の威力を見せつけられた日本にとって,不可侵条約締結の報告は政府の交替をもたらすほどの政治的衝撃波でもあった。
眼を戦間期の文化・思想状況に転ずると,そこには大胆な実験と奔放な想像力の乱舞を見ることができる。戦争と革命は政治的・社会的変革を促進しただけではなく,知的・芸術運動にも革命的刺激を与えた。戦争と革命が旧来の価値と権威を破壊した後にはすべてが可能となり,芸術の前衛はしばしば政治の前衛と同化した。革命初期のソ連における芸術家の実践はこのことを立証している。たとえばV.E.タトリンやE.リシツキーによって代表される構成主義がそれであり,彼らは日常的な素材から出発して革命社会にふさわしいオブジェを創造しようとした。なかには,大胆ではあっても実用的機能を欠く公共建築の設計もあったが,印刷やポスター,デザインの分野では永続的な影響を残した。また演出(V.E. メイエルホリド)や映画(S. エイゼンシテイン)などの成果も,革命のもたらした解放感なしには考えられない。しかし革命が第1段階を過ぎ制度化の段階が始まると,それはしばしば創造活動の自由と両立しなくなる。1930年4月,みずから生命を絶ったV.V.マヤコーフスキーの生涯がその例である。彼の悲劇は,文学や芸術に対する官僚的統制の代名詞にまで頽廃しかねない〈社会主義リアリズム〉の危険を予告したかのようにみえる。
戦前からドイツ,オーストリアで表現主義として知られていた文学・芸術運動は,F.カフカの作品が示しているように,現代社会にひそむ不安や恐怖をえぐりだしたが,この流れをくむ知識人の何人かは,戦後のドイツで政治的左翼の立場に身を置き,政治的実践に理想を燃焼させた。また既成芸術の全面否定のうえに新しい美の秩序を打ち立てるべきであると考えたダダイズム(ダダ)も,急進左派の政治運動に支持者を供給した。政治状況と密接に関連したもう一つの芸術運動に,ダダの分流たるシュルレアリスムがあった。ワイマール期の前衛芸術運動で落とすことのできないのは,1919年4月,ワイマールに設立された〈バウハウス〉である。これは建築のほか絵画や工芸を含めた総合的な創造の場であり,〈労働共同体〉というユートピア的社会組織が熱っぽく説かれた。〈バウハウス〉は,W.カンディンスキーやP.クレーのような画家,B.バルトークやI.ストラビンスキーのような作曲家も協力したヨーロッパの芸術運動が交流するセンターでもあった。33年以後,〈バウハウス〉の指導者の多くはナチスによって国外追放され,その影響力はドイツ以外に扶植された。
→ワイマール文化
フランスでは芸術と政治の関連はドイツに比べると薄く,芸術至上主義の伝統は戦後も健在であった。戦後のフランスで多くの作家,芸術家に影響を与えた運動の一つは新古典主義であった。これは単に古典的秩序感覚の再構築に向かっただけでなく,ル・コルビュジエの建築に見られるように直截で数学的なフォルムを追求した。新古典主義と影響力を競ったのがシュルレアリスムである。その目的は,〈精神の純粋な自動作用〉(A. ブルトン)をとらえることにあり,S.フロイトの精神分析によって明らかにされた意識下の世界を透視しようと試みた。日常性の容赦なき破壊という点で,シュルレアリストは革命運動と相通ずるものをもっていたから,彼らの中で共産党に入党し,そこにとどまった者も少なくなかったが(L. アラゴン,P. エリュアールなど),それ以上の数が党の集権的統制に幻滅して,そこから離れた。
同じように,同時代人の思想のうちに刻印を残した哲学的立場として実存主義と論理実証主義をあげることができよう。前者は社会的分裂と政治的崩壊の時代を生きる現代人の不安と孤独をみつめ,そこから真の主体性確立の契機を引き出そうとするもので,M.ハイデッガー,K.ヤスパースがその代表者であった。後者は経験的に立証できる命題のみに意義を認め,宗教,道徳にかかわる心情的陳述をあくまで排除しようとしたもので,L.ウィトゲンシュタインに始まり,B.A.W.ラッセルがさらに発展させた。こうして実存主義と論理実証主義は,違ったやり方で伝統的価値からの人々の解放という共通の課題の解決に寄与している。
戦間期のヨーロッパの大衆文化は,まずジャズ,映画,スポーツであった。戦前からアメリカから入ってきていたジャズは,戦後文字どおりヨーロッパを席巻した。映画も20世紀初めにはアメリカとヨーロッパで都市型大衆娯楽としての地位を確立していたが,戦後はハリウッドの映画産業を中心としてスターが次々に作られ,スクリーンから人々を魅了した。同時に1920年代のソ連やドイツでは,新しい表現手段となった映画を通じての芸術的実験も行われた。最後に,ボクシング,サッカーなどのスポーツ競技が,見る娯楽として多くの場合プロの選手によって争われたのも,20年代のことであった。また,ドイツのキャバレーはベルリンを中心として盛んになり,〈裏世界〉の情緒をキャバレー固有の芸術として作り上げた。
このように1920年代は文化と思想の面では,すさまじいばかりの活力に満ちあふれた時代であったが,30年代に入ると,まず経済恐慌が,ついでファシズムの横行が知的・芸術的創造の源泉を枯渇させ,とくに後者の危険に対して多くの知識人と芸術家が抵抗し,反ファシズム闘争の実践に参加した人たちも少なくなかった。32年8月,アムステルダムで開かれた反戦反ファシズム集会の中心人物となったR.ロランとH.バルビュスなどはその一例にすぎない。
執筆者:平井 友義
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
第一次世界大戦の終了から第二次世界大戦の勃発(ぼっぱつ)に至る20年間をいう。
[藤村瞬一]
この期間には、ロシア革命、総力戦としての第一次世界大戦、ベルサイユ体制などが残したさまざまな問題が、単に政治の世界のみならず、国際社会全般に大きな影響を及ぼしていた。それは地域的にもヨーロッパだけでなく、アメリカ、アジアなどにも及び、また時期的には前期の1920年代と、後期の1930年代では著しい対照をなしていた。このため1920年代の問題、1930年代の問題として別個に論じられることが多い。また第一次世界大戦終了の1919年と、第二次世界大戦勃発の1939年の中間点に、「暗黒の木曜日」といわれた1929年10月24日があり、これを端緒とする世界大恐慌が戦間期後半の政治、経済、社会、文化のすべての分野を大きく変化させた。これも偶然とはいえ、みごとに均等に1920年代と1930年代を区分している。しかしいずれの分野においても、1920年代と1930年代とは、非連続的ではあるが連続的という観点からとらえるべきで、両者を切り離して論じるべきでない。ここに戦間期という独自の時期区分が成立するわけである。
[藤村瞬一]
まず戦間期の政治上の構造的要素について考えると、帝国主義、民族主義、資本主義、社会主義、民主主義、全体主義、国際主義、国家主義などがあり、これらが複雑に結合しつつ、1920年代はやや緩慢に、1930年代は喧騒(けんそう)裏に進展したといえる。より具体的には、ヨーロッパにおけるベルサイユ体制、アジアにおけるワシントン体制の下で資本主義諸国間の、いわゆる「持てる国」と「持たざる国」とが、現状維持と現状打破の二派に分かれて相克し、やがて1930年代に入って力を前面に押し立てて、枢軸陣営と民主主義陣営に二分して抗争、その結末が太平洋戦争を含む第二次世界大戦にほかならなかった。また資本主義国全体としては、発展途上にある植民地、半植民地の諸民族を犠牲にする、いわゆる不均等発展の下で、自国の利益を最優先とした。このため、さまざまな矛盾は、一方的に後進地域に押し付けられるのが常であった。しかし、これは、後進地域である朝鮮、中国、インド、エジプト、トルコなどで民族主義を覚醒(かくせい)させ、逆に先進諸国は民族主義の側からの挑戦で、疲労を蓄積する原因となった。さらにロシア革命を先駆とする各国の階級対立は、それが一国内あるいは多国間を横断する革命・反革命の階級闘争へと発展した。この階級闘争が、労働者階級を中心とする社会主義勢力の一時的高揚をもたらしたことは事実である。しかし戦間期を通じて、人民民主主義勢力の高揚と退潮には著しい起伏があり、これにコミンテルンを中心とする国際共産主義運動がどのような役割を果たしたのか、いまなお評価が定まらない問題の一つである。それはさておき、戦間期の労働者階級の台頭は、同時に、反革命としてのファシズム勢力をも増大させた。それはイタリア、オーストリア、ドイツ、フランスにおいて顕著に現れたが、それ以外にブルガリア、ポーランド、ハンガリーなど東欧の諸国、ポルトガル、スペインなど南欧の諸国においても同質の現象がみられた。
また第一次世界大戦後、国際社会の基本理念として導入されたデモクラシーは、一方で大衆社会状況をつくりだし、ややもすれば政治の不安定につながっていった。同時にそれは政治の腐敗、陳腐化として、大衆の政治不信と無関心を招くこととなった。かくて、こうした状況のなかから、政治の刷新を掲げてファシズムが登場し、疑似革新として大衆の支持を受けるのである。このことは、戦間期のイタリア、フランス、ドイツをはじめ、ほとんどのヨーロッパの国で体験する。このほか国際連盟にみるように、超国家的な国際機関による平和維持活動が期待される一方で、こうしたインターナショナリズムに背を向けるナショナリズムが1930年代には主流となった。このことは、本来インターナショナルであるはずの社会主義においても同様で、一国社会主義、国家社会主義としてナショナリズムに回帰した。
[藤村瞬一]
戦間期の問題は、このような政治の世界だけにあったのではない。むしろ戦間期のもう一つの特徴は、文学、芸術、思想、科学技術などの世界に強く現れていた。たとえば、ワイマール文化とよばれて、1920年代のドイツの音楽、美術、演劇、映画、建築などの世界で、ベルリン、ミュンヘンなどを中心に万華鏡のように花開いたのもこの時期である。作曲における十二音主義、演奏における新即物主義、美術での前衛派、表現主義、ブレヒト、ラインハルトらの舞台演出、ウーファ(正式名称はウニベルズム映画)の映画、建築のバウハウス運動など、満天の星空のような芸術活動が展開された。また学問の世界でもウェーバー、フランクフルト学派の社会学、哲学における現象学、ゲシュタルト心理学、ゲッティンゲン大学を中心とする物理学など、いずれも一時期を画するものであった。しかし1920年代の文化が、コスモポリタニックな性格を強くもっていたため、ややもすれば偏狭な郷土愛主義に陥りがちなドイツの一般大衆になじめず、1930年代に至って反動化し、民族主義的な志向を強めるのである。ワイマール文化を退廃文化ときめつけたのは、ナチスの指導者ヒトラーやゲッベルスであったが、背後にはこれに喝采(かっさい)を送る数千万のドイツ国民がいたのである。
同様な事情はフランスにもみられた。1920年代のフランスでは文学、美術の世界でフォービスム、ダダイズム、シュルレアリスムの運動が光彩を放っており、演劇、音楽、映画、バレエなどの分野でも、花の都パリとして大輪の花を咲かせていた。こうした輝ける1920年代のフランス文化も、1930年代に入ると、一転して政治の激動のなかにほうり出され、1920年代には隠されていた一面を明るみに出す。それは、1920年代に反戦・平和と、思想のインターナショナリズムを掲げた「クラルテ」運動と、権威に戦いを挑んだシュルレアリスムの運動のなかから、のちにコミュニズムに傾斜するアラゴンと、反共・ファシストに変貌(へんぼう)するドリュ・ラ・ロシェルが生まれたことに象徴的である。まさに戦間期のフランス社会、フランス文化のもつ複雑な一面を現しているといえよう。
戦間期に、科学技術の粋を駆使したのは、デトロイトとハリウッドに代表されるアメリカであった。自動車、ラジオ・洗濯機・冷蔵庫などの電化製品、電話、映画などが、豊富な資本力を背景に爆発的なブームをつくりだし、農村の隅々まで機械の時代を浸透させたのである。しかしそれは1929年10月を境として、一挙に暗転するのである。いずれにせよ戦間期のアメリカ社会は、1920年代の保守主義、1930年代のニューディールに代表される革新主義が好対照をなす、とよくいわれる。しかし1920年代にも革新性を、1930年代にも保守性をみいだすことは困難でない。そのことの証左として、1920年代の機械文明と都会文明に懐疑のまなざしを向け、1930年代のアメリカ社会の崩壊を先取りしたヘミングウェイ、スタインベック、コールドウェル、フォークナー、ドライサー、ドス・パソスら一群の作家たち、いわゆる「失われた世代」の諸作品をあげることができよう。
このように、戦間期が示した諸問題は、基本的には19世紀末以来の「危機」に根ざすものであって、1920年代、1930年代では大きく形を変えたものの、本質的には連続性をもつものである。戦間期の政治、経済の分野で出された問題のいくつかは、第二次世界大戦という悲惨な経験と反省のなかから、戦後かなりの改善がなされるようになった。しかし、戦間期の思想、文化が問いかけた問題は、すでに半世紀以上経た今日もなお、十分に受け止められたとはいいがたい。歴史家、研究者の間で、いまだに論議が絶えないのも、そこに理由があるからであろう。
[藤村瞬一]
『S・ノイマン著、曽村保信訳『現代史』上下(1956・岩波書店)』▽『E・H・カー著、衛藤瀋吉ほか訳『両大戦間における国際関係史』(1968・清水弘文堂)』▽『ピーター・ゲイ著、到津十三男訳『ワイマール文化』(1970・みすず書房)』▽『『岩波講座世界歴史26 現代3――1920年代』『岩波講座世界歴史28 現代5――1930年代』(1970、1971・岩波書店)』▽『ウォルター・ラカー著、脇圭平ほか訳『ワイマル文化を生きた人びと』(1980・ミネルヴァ書房)』▽『河野健二編『ヨーロッパ――1930年代』(1980・岩波書店)』▽『生松敬三著『両大戦間のヨーロッパ』(1981・三省堂)』▽『脇圭平著『知識人と政治』(岩波新書)』▽『山口俊章著『フランス1920年代』(中公新書)』▽『斉藤孝著『戦間期国際政治史』(岩波現代文庫)』
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