現代外国人名録2016 「ラインホルトメスナー」の解説
ラインホルト メスナー
Reinhold Messner
- 職業・肩書
- 登山家,作家
- 国籍
- イタリア
- 生年月日
- 1944年9月17日
- 出生地
- オーストリア・ブリクセン
- 経歴
- イタリアのドイツ語圏、南チロルに9人兄弟の二男として生まれる。教師だった父親の手ほどきで山歩きを覚え、5歳で3000メートル級の山に登ったという。1969年アルプスのドロワット北壁に単独登攀。’70年パキスタンのナンガ・パルバート(8126メートル)の難攻不落といわれた未踏ルパール壁を目指す遠征隊に弟ギュンターと共に参加。この時南南東リッペに18時間の苦闘を強いられたものの二人で初登攀に成功。しかしギュンターは高山病で動けなくなり、さまよいながら下山中に雪崩に遭い亡くなった。自身も重い凍傷を負って生還、足の指7本を失う。弟の無念を思いながら、以後はプロの登山家として、’71年マナスル南壁、’75年ヒドゥン・ピーク北西壁などの登攀を続けた。’78年弟を亡くしたナンガ・パルバートに酸素ボンベなしで登頂。同年エベレスト(チョモランマ,8848メートル)にも酸素ボンベなしで登り、人類初の無酸素登頂を成功させた。’86年にはネパールのローツェ(8516メートル)の登頂に成功。この登頂で、世界で14座ある8000メートル峰をすべて無酸素で登頂するという快挙を達成した。’90年2月ドイツ人のアルブド・フックスと二人で徒歩で南極点に到達。’95年3月弟フーベルトと二人で無補給の北極海徒歩横断に挑戦。南チロルのコバル村にある城館に住み、自然保護と講演活動で世界中をまわる。著書に「生きた、還った―8000m峰14座完登」「ラインホルト・メスナー自伝 自由なる魂を求めて」「ナンガ・パルバート単独行」「マロリーは二度死んだ」「裸の山ナンガ・パルバート」など。2011年、14座最初の山ナンガ・パルバートでの経験を描いた山岳映画「ヒマラヤ 運命の山」が日本で公開されるのに伴い、来日。
出典 日外アソシエーツ「現代外国人名録2016」現代外国人名録2016について 情報