マロリー(読み)まろりー(英語表記)George Herbert Leigh Mallory

日本大百科全書(ニッポニカ) 「マロリー」の意味・わかりやすい解説

マロリー(Sir Thomas Malory)
まろりー
Sir Thomas Malory
(1416ころ―1471)

イギリスの散文作家。ウォーリックシャー出身の騎士。イギリスやフランスに流布するアーサー王伝説集大成して、長編アーサー王の死』全21巻(1485刊)を獄中で著した。その生涯は波瀾(はらん)の連続で、理想主義的傾向のロマンス作家には似ず、窃盗暴行入獄脱獄などを繰り返したといわれる。この点については種々の解釈がなされ、『アーサー王の死』の作者には、別のヨークシャーケンブリッジシャー出身のマロリー説もある。1934年、この作品の古写本が初めて発見され、フランスのビナーバEugène Vinaver(1899―1979)教授による優れた校訂版が出版された(1947、第二版1967)。マロリーはアーサーの誕生から死に至る全一巻の物語を初めから意図したのではなく、翻訳した八編の別々のロマンスをまとめたものにすぎないとする同教授の主張には異論もあり、この論争には決着がついていない。アーサー王とその宮廷に参じた円卓騎士たちが繰り広げる恋と冒険魔法使い妖精(ようせい)、聖杯探求などを主題とするこのロマンスは、イギリス最初の印刷業者カクストンにより出版されて以降、当代散文の一つの模範とみなされ、近代英文学にも多大の影響を与えた。

[高宮利行]

『厨川文夫・圭子編訳『アーサー王の死』(ちくま文庫)』


マロリー(George Herbert Leigh Mallory)
まろりー
George Herbert Leigh Mallory
(1886―1924)

イギリスの登山家。チェシャー州で牧師の家庭に生まれる。ケンブリッジ大学を出てパブリックスクールの教師となる。学生時代にR・L・G・アービングから登山の指導を受け、ケンブリッジではG・W・ヤングとも親交があった。これらのことから学生時代よりアルプスを中心に活発な登山を行い、イギリスがエベレスト登山を始めた1921年には第1回の遠征隊員となり、22年、24年にも登頂アタック隊員として活躍したが、24年6月8日、A・アービンと8170メートルの第6キャンプを出発したまま帰らぬ人となった。なぜ登山するかという問いに対して、「山がそこにあるから」という有名な答えをしたといわれている。

[徳久球雄]

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「マロリー」の意味・わかりやすい解説

マロリー
Mallory,George Herbert Leigh

[生]1886.6.18. イギリス,モバリー
[没]1924.6.8. チベット,エベレスト北壁
イギリスの探検家,登山家。牧師の家に生まれた。ウィンチェスター大学在学中に登山を始め,ケンブリッジ大学を卒業して教職についた。第1次世界大戦中は軍務につき,1919年教職に復帰。 1921年イギリスの名門山岳会「アルペン・クラブ」が派遣した第1次エベレスト遠征隊に参加。調査をおもな目的としたこの遠征でノース・コルを発見し,ルート開拓に成功した。 1922年酸素ボンベの初使用で知られる第2次遠征隊に再び参加。1回目のアタックは 8230m地点まで到達したが再アタックは雪崩によるシェルパの死亡事故により断念。 1924年第3次遠征隊にも参加。出発前「なぜエベレストに登るのか」と聞かれ「そこに山があるから」と答えたことは有名。アンドリュー・アービンとともに 8170m地点の最終キャンプから山頂を目指したが,再びキャンプに戻ることはなかった。その後,隊員の一人の目撃証言もあるが,2人が初登頂を果たしたのか否かをめぐる論争が繰り広げられた。 1999年に 8155m付近でマロリーの遺体が発見された。

マロリー
Malory, Sir Thomas

[生]1408頃.ウォリックシャー,ニューボールドレブル
[没]1471.3.14. ロンドン
イギリスの作家,騎士。 15世紀最大の散文家で,アーサー王伝説の集大成『アーサーの死』 Morte Darthurの作者。ウォリック伯リチャード・ビーチャムに仕えてフランスに出征,ナイトに叙せられたが,数々の重罪や軽罪を犯したかどでしばしば投獄された。この大作は獄中で完成され,作者の死後 1485年にイギリス最初の印刷業者 W.カクストンによって出版された。

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