ラヨシュ(読み)らよしゅ(その他表記)Lajos Ⅰ

日本大百科全書(ニッポニカ) 「ラヨシュ」の意味・わかりやすい解説

ラヨシュ(1世)
らよしゅ
Lajos Ⅰ
(1326―1382)

ハンガリー王(在位1342~82)。「大王」とよばれる。治政下にダルマチアへの宗主権を拡大、バルカン諸国を服属させ、ポーランド王位の継承により三つの海に通ずる一大帝国が成立した。だが、これらの版図拡大には、ナポリ遠征の失敗、キリスト教圏拡大の任務リトアニアへの遠征といった犠牲や義務が随伴していた。一連の出兵を支えたのは、父王ローベルト・カーロイRóbert Károey(在位1308~42)時代に大貴族の旗軍を軸に編成された軍隊と、ウィーン支配を受けない貿易路および鉱山権等の国王特権に由来する王室収入の拡充であった。大貴族への軍事的依存は恩賞地授与の形をとって、大貴族領の強化を促した。

 文化的には、治政下にゴシック様式が最盛期を迎え、大王自らこの様式でブダ北東のディオーシュジェールに城をつくった。また、ペーチには大学が創設された。ポーランド王としては、これを直接統治することができなかったため、マグナートの力が伸び、1374年にはポーランド貴族を諸義務から解放するコシツェの特許状を与えた。

[家田 修]

出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例

世界大百科事典(旧版)内のラヨシュの言及

【セイム】より

…たとえば1351年,ハンガリー王ルドビクLudwik(1326‐82。ハンガリー史ではラヨシュLajos大王。カジミエシュ大王の甥)とともにリトアニア遠征の途上にあったカジミエシュ3世がルブリン郊外の戦陣で病に倒れたとき,騎士動員をうけて従軍していたシュラフタは子どものないカジミエシュ3世のあとルドビクがポーランド王位に就くのを認める決議をしている。…

【ピアスト王朝】より

…〈王朝〉の名称は不適切かもしれないが,慣例に従うことにする(図参照)。カジミエシュ3世(大王)の死でポーランド王国の支配者はアンジュー家出身のハンガリー国王ラヨシュ1世Lajos I(ポーランド名はルドビク・ハンガリー王Ludwik Węgierski。カジミエシュ大王の姉エリジュビエタの子)を介してヤギエウォ朝に変わるが,ピアスト侯家は周辺部の侯国の支配者として存続した(最終的な断絶は1675年)。…

【ポーランド】より

…官吏養成用に,ボローニャ大学に範を求めたクラクフ・アカデミー(のちヤギエウォ大学とよばれる)がつくられたのもこのころである。
[ヤギエウォ朝時代]
(1)東欧の大国の成立 嫡子に恵まれなかったカジミエシュ大王の後を1370年,アンジュー家出身のハンガリー王ラヨシュ1世Lajos I(1326‐82,在位1342‐82)が継ぎ,ルドビクLudwik Węgierskiと称した。ところがルドビクも男子に恵まれず,彼は娘のいずれかにポーランド王位を確保すべく,コシツェでシュラフタに最初の特権を約束した(1374)。…

※「ラヨシュ」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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