リトアニア(その他表記)Lietuva
Lithuania

共同通信ニュース用語解説 「リトアニア」の解説

リトアニア

ポーランドやロシア、ベラルーシなどに囲まれたバルト3国の1国で人口約270万人。13世紀にバルト海から黒海に至るリトアニア大公国が成立し、16世紀にはポーランドと連合国家を結成、欧州の大国だったこともある。18世紀末にロシア領となり、1918年に独立したが、40年にソ連が併合。90年に独立宣言した。中部カウナスにあった日本領事館の領事代理を務めた杉原千畝すぎはら・ちうねがナチス・ドイツの迫害を恐れるユダヤ人に日本通過ビザを発給したことでも知られる。2004年に北大西洋条約機構(NATO)と欧州連合(EU)に加盟した。(共同)

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精選版 日本国語大辞典 「リトアニア」の意味・読み・例文・類語

リトアニア

  1. ( [英語] Lithuania ) ヨーロッパ北東部の共和国。バルト海沿岸にあり、南はポーランド国境に接する。旧バルト三国の一つで、中世、リトアニア大公国をつくる。一七九五年ロシア領となり、第一次世界大戦後独立。一九四〇年ソ連邦に加入。一九九一年ソ連解体に伴い独立した。首都ビリニュス

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改訂新版 世界大百科事典 「リトアニア」の意味・わかりやすい解説

リトアニア
Lietuva
Lithuania

基本情報
正式名称=リトアニア共和国Lietuvos Respublika, Republic of Lithuania 
面積=6万5300km2 
人口(2010)=329万人 
首都ビルニュスVilnius(ロシア名ビリニュス)(日本との時差=-7時間) 
主要言語リトアニア語(公用語),ロシア語,ポーランド語 
通貨=リタLitas

ヨーロッパ北部にある共和国。首都はビリニュス。中世末に東ヨーロッパの大国(リトアニア大公国)になったが,その後ポーランドに従属し,ロシアに併合された。1920年独立したが,40年ソ連に併合され,91年再び独立。北はラトビア共和国,東と南は白ロシア(ベラルーシ)共和国,南西はロシア共和国の飛地カリーニングラード地区とポーランドに接する。エストニア共和国,ラトビア共和国と合わせて沿バルトPribaltike三国と呼ばれ,そのなかでは面積,人口とも最大であるが,他の2国と歴史的事情を異にし,地理的条件もあって近年まで発展が遅れていた。協和国内でのリトアニア人の人口比は1959年に79.3%,70年80.1%,79年80%と高く,かつその構成比はほとんど変化がない。おもな言語はリトアニア語とロシア語である。

国土の大部分が氷河に削られた低い平地で,湖沼が約3000と多い。モレーンからなる中央部北西寄りのジェマイチア丘陵が標高200m前後で,白ロシアとの国境の丘陵の最高点でも292mにとどまる。ジュマイチア丘陵東方の中央低地が氷成粘土と巨礫の散在するローム層からなり,ところにより水はけもよくないが,概して強いポドゾル性土壌のこの国では比較的農耕に適している。南東部の狭いジェジュマリャイ平地は氷食谷の跡で,砂,砂利,小石の堆積物がとくに多い。国土の1/4を砂地が占めるが,その多くは森林でおおわれ,この国は沿バルト三国中最も緑が多い。とくに南部は松林の連なる砂丘,湿原,大小さまざまの湖沼に恵まれ,一般に変化に乏しい東ヨーロッパ平原のなかでは有数の自然美をなしている。

 コハクが波に運ばれてくることで知られるバルト海岸と,カリーニングラード地区から伸びる長大なクルシ砂州が,この国のもう一つの景勝地で,ここは海岸保養地として利用され,共和国最大のネマン(ネムナス)川もクルシ潟に注いでいる。この国は生物の種類が多く,哺乳動物が60種,鳥類が200種近く,魚類が50種以上にのぼり,国内に多くの自然保護区がある。ユーラシアの大陸性気候とともに湿った大西洋気団の影響を受け,気候には比較的恵まれている。地面は4ヵ月凍り,ネマン川も3ヵ月氷結するが,海は凍らない。平均気温は中央低地で1月に-4.8℃,7月に17.2℃。雨は8月に多く,年平均降水量は750mmである。

この国の民族構成は,リトアニア人80%,ロシア人8.9%,ポーランド人7.3%,白ロシア人1.7%,ウクライナ人0.9%,ユダヤ人0.4%,その他0.8%である(1979)。第2次大戦前の約20万人のユダヤ人はドイツ軍占領下に激減し,現在は1%にもみたない。都市人口は戦前の1939年に約23%であったが,70年に50%をこえた。人口密度は国の南部で高い。

(1)リトアニア大公国時代 のちリトアニア人を構成するバルト系諸族は,前2千年紀に白ロシア方面からネマン川と西ドビナ川の流域に浸透した。この地方は,古代のローマ人に〈コハク海岸〉として知られたが,地中海文明は波及せず,キリスト教化もヨーロッパで最も遅れた。13世紀に北のリボニアと西のプロイセンがドイツ人の騎士団に征服されたが,早くに戦士群をもっていたリトアニア人は1236年の戦いでドイツ人の進出をくい止め,大公ミンダウガス(在位1236ころ-63)が白ロシアの一部も含めて最初の統一を実現した。彼は一時キリスト教を受け入れたが,のち異教に復した。リトアニアは1290年再統一され,ビリニュスを首都とした大公ゲディミナス(在位1316-41)とその子アルギルダス(在位1345-77)が,南・西ロシアの諸公国を次々に勢力下に収め,バルト海から黒海に達する大国をつくりあげた。これに伴いこの国では東方正教徒の東スラブ系住民の比重が高まり,〈ルスカヤ・プラウダ〉の通用,公用語としての白ロシア語の使用など,ロシア化が進んだが,同時にドイツ商人が進出し,のちに大きな問題になるユダヤ人の移住も始まった。

 1386年,アルギルダスの子ヨガイラJogaila(1350ころ-1434)が,カトリックの洗礼を受けてポーランド王(ブワジスワフ2世Władysław。在位1386-1434)を兼ね,リトアニアのカトリック化,ポーランド化のもとを置いたが,彼のもとで大公になったいとこのビータウタス(在位1392-1430)は,ほとんど独立の君主として行動し,1410年のグルンワルトの戦でドイツ騎士修道会の脅威を除く一方,タタールに対する大規模な十字軍,スモレンスク公国の併合,モスクワ公国の内乱への干渉など,積極的な東方政策を展開した。しかしリトアニア大公国はこれが最盛期で,この後は,リトアニア人と東スラブ系,カトリックと東方正教徒という民族的・宗教的対立に加えて,ポーランドの干渉,モスクワ・ロシアの圧力のため急速に衰えた。

 文化的に遅れたこの国には,とくにルネサンス期にポーランドを介して西方文化が入り,宗教改革には多くの貴族が新教徒になったが,1579年ビリニュスにイエズス会の学校(ビルニュス大学の前身)が建てられ,この国でもカトリック反動が成功した。リトアニアと白ロシアの農民は終始伝統的教会に忠実で,また自分たちの言葉を守ったが,ポーランド貴族(シュラフタ)との同権を獲得したこの国の貴族は,ポーランド文化を身につけ,ポーランド語を母語とし,しだいにポーランド化していった。また彼らはポーランド同様,領主直営地経営を発展させ,農民を農奴化していった。ブワジスワフ2世で始まったポーランドとの王朝連合のもとで,国制もポーランド化した大公国は,リボニア戦争中のルブリンの連合(1569)で,形式的には対等ながら事実上ポーランドの従属領となり,またこの時ウクライナをポーランドに譲った。この後も16世紀末の教会合同に対する東部の東方正教徒の反発,17世紀中葉のスウェーデンの侵入の際のリトアニアの名門ラジビウ家Radziwiłłowieによる分離運動などがみられたが,1569年以後大公国はおおむねポーランド王国と運命をともにし,ポーランド分割で解体した。

(2)19~20世紀 大公国領のうちリトアニア本土は,1795年の第3次ポーランド分割で大部分がロシア領,ネマン川以西がプロイセン領となったが,後者はナポレオン戦争後のウィーン会議でロシア主権下のポーランド王国に入った。しかしこのほかに,騎士団進出以来ドイツ人支配下のプロイセン北部にリトアニア人居住地があった。ここでは18世紀にルター派教会ケーニヒスベルク大学(現,カリーニングラード)でリトアニア語・文化の研究が始まっていたが,これは1802年開設のビルニュス大学に受け継がれた。ロシア領リトアニアでは,30年のポーランドの十一月蜂起が,支配階級たるポーランド系地主を中心に波及し,このためロシア語の強制,東方正教の布教などのロシア化政策が強化され,ビルニュス大学も閉じられた。しかしプロイセン領からはリトアニア語文献がもちこまれ,80年代には農民出身のリトアニア人インテリゲンチャによる啓蒙活動が,カトリック教会の支持をも得て広がった。

 リトアニアでは地主も農民もカトリックで,ポーランド文化と大公国の伝統が強く残り,これはロシア化政策への抵抗の支えになったが,リトアニア人自身の民族意識の形成を遅らせる一面をももった。リトアニアの地主は農業経営に熱心で,1861年のロシア帝国の農奴解放でリトアニア3県の地主がまず解放への動きを示した。しかし,63年のポーランドの一月蜂起にも彼らはすぐ反応し,激しいパルチザン戦の鎮圧後,きびしい軍政と関係者多数の処刑,流刑や所領没収が続き,3県には他の西部諸県同様ゼムストボも導入されなかった。西部諸県で政府はまた,地主勢力を牽制するため農民の土地所有を助成する措置をとったが,リトアニアでは農民経営は安定せず,工業の発展も遅れたため,第1次大戦までに住民の1/3が外国,とくに北アメリカに移住した。19世紀末に始まった労働運動と社会運動の中心は都市の白ロシア人とユダヤ人であったが,1905年のロシア革命の際約2000人の代表が会して自治を要求し,一時はリトアニア語による教育も認められた。

 第1次大戦では15年からドイツ軍に占領され,18年には独立を宣言したが,ドイツ軍撤退後に進出した赤軍のもとでソビエト権力が宣言され,この赤軍が撃退されて20年に独立が達成された。しかし同年10月ポーランドがビリニュス地方を占領して自国に編入し,国際連盟も結局これを認めたので,リトアニアは歴史的に関係の深いポーランドと建国早々に敵対関係に入った。カウナスを臨時首都とした政府は22年の土地改革でおもにポーランド系の地主を排除し,また民主憲法を制定し,23年には国際連盟管理下のクライペダを実力で併合したが,対ソ政策などをめぐって政局は安定せず,26年末にボルデマラスAugustinas Woldemaras(1883-1942)がクーデタで権威主義的体制をしいた。彼は,その基盤たる極右団体のユダヤ人虐殺事件で反発を招き,29年に失脚したが,その後も大統領スメートナAntanas Smetona(1874-1944)のもとで独裁政治が続いた。

 第2次大戦前夜の38年,リトアニアはポーランドからの圧力でビリニュス地方への要求を放棄し,39年3月にはドイツにクライペダ地区の放棄を強いられた。同年秋ポーランドをドイツと分割したソ連邦からビルニュス地区を譲られたが,同時にソ連軍の基地を認めさせられ,翌40年8月ソ連邦に加入した。続く独ソ戦では41-44年の間ドイツ軍に占領され,その間に約19万人のユダヤ人を含めて25万~30万人の犠牲者を出した。これに先立つソ連軍の駐留と撤退時にも社会各層の指導者約4万5000人が追放または処刑され,さらにソ連軍による〈解放〉時に約7万人の市民が西方に逃れ,ほかにもドイツ系,ポーランド系住民約25万人の転出があり,人口は終戦時までに激減した。戦後も45-46年と農業集団化が強行された49年にあわせて20万人以上が北ロシアとシベリアに送られたとみられるが,かなりのものは54年に帰郷した。これはリトアニアの森を基地に戦後8年間続いたパルチザン活動の終息後になるが,この反ソ武力活動は公式記録でも約2万人の犠牲者を出し,その規模と期間で西ウクライナのそれに次ぐものであった。リトアニアのソビエト政権は50年代半ばまでに安定したが,その後も民族主義分子の追放が間欠的に行われ,人口中のリトアニア人共産党員の比もかなり低い。

 90年3月リトアニア最高会議は独立を宣言したが,連邦政府はこれを認めず,経済制裁で応えた。しかし,91年8月の連邦政府保守派によるクーデター失敗で情勢は一変し,独立が承認された。

リトアニア経済は戦前低い水準にあったが,戦後,とくに1960年代からの発展が著しく,81年の工業生産高は1940年の60倍をこえる。資源に乏しいため政策的に精密機械工業と金属加工工業に重点がおかれており,これが就業人口の1/3を占める。各種の工作機械・器具,電動機,テレビなどを広く他共和国に供給し,化学工業,建築材料の生産も発展している。エネルギー関係ではネマン水系の水力発電開発のほか,61年天然ガスのパイプラインがウクライナのダシャワからビリニュスに達し,現在は東部に総出力600万kWになる予定の巨大なイグナリナ原子力発電所を建設中である。

 リトアニアの小農経営は戦前は生産性が低く,戦後の農業集団化に伴う混乱でさらに生産が落ちたが,農業の機械化,湿地の干拓による農地の改良・造成とともに生産も伸び,70年代半ばに1940年水準の2倍をこえた。82年末に740のコルホーズと311のソホーズがあり,穀作と工芸作物,野菜類の栽培のほか,とくに牛乳と食肉の生産に重点がおかれ,農業生産高の約7割を酪農部門が占めているが,その伸びは1970年代後半から停滞気味である。

 林業はこの国の伝統的産業で,パルプなどの生産もふえ,水産物加工も,綿,麻,羊毛,ビートなどの加工とともに近代化されつつあるが,これらの分野でこの共和国の占める比重は低い。主として北部が農業地帯,南部が工業地帯であり,バルト海岸には,漁業と海運の基地がある。

独立前に民族語教育がほとんど行われなかったリトアニアでは,ラトビア,エストニアに比べて識字率も低かった。独立後の共和国政府は教師の不足に悩みながら教育に力を入れ,1939年に9歳から49歳までの識字率が76.7%になり,70年に99.7%に達した。共和国予算の約1割が教育・文化関係に支出され,70年代初めからの普通中等教育(10年制)への移行はすでに終わり,後期中等教育と高等教育も整備され,ソ連最古の起源を誇っていたビリニュス大学はじめ,1866年創設のビリニュス美術学院,専門大学としてカウナスの工業大学と医科大学など,全国に12の高等教育機関がある。これらを背景に共和国は高い高等教育の普及率を誇っているが,図書館,博物館もよく組織され,図書館の数と出版物の部数でも人口比ではソ連邦のなかで上位を占めていた。単行本,小冊子,雑誌とも,刊行点数,発行部数でリトアニア語のものが大半を占め,戦前からのラジオ放送にはリトアニア語,ロシア語,ポーランド語が,1957年に始まったテレビ放送ではリトアニア語とロシア語が使われている。ロシア語の学習は学校教育でも義務化されている。

 リトアニアはソ連邦でただひとつカトリック圏に属した国(1940年に住民の80%がカトリック教徒。リトアニア人住民だけでは94%にのぼる)で,この教会が歴史的に民族統合の中心でもあったから,ソ連政府と共産党もとくに気をつかってきたと思われるが,バチカンの資料によれば,1947年まで自由に活動していた1332人の神父のうち約1000人が50年7月までにロシア共和国に送られたとされ,現在の教会の役割はよくわからない。

 産業化・都市化の影響にもかかわらず,ヨーロッパ最古の言語と文化に根ざしたリトアニア人の民謡,民話,伝承,格言,さらに民俗は現在も伝えられ,とくに〈ダイノスdainos〉と呼ばれる民謡が有名である。音楽もこの国で古い伝統をもち,毎年夏に全国の町と村で歌と踊りの祭りが開かれ,5年ごとの全国大会には5万人もの参加者がある。また落ち着いた色調と独特の幾何学模様と花模様を特徴とする民芸品(陶器,皮細工,木彫,織物)も,この国の伝統を伝えるものである。
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「リトアニア」の意味・わかりやすい解説

リトアニア
りとあにあ
Lithuania 英語
Lietuva リトアニア語

ヨーロッパ北東部、バルト海に臨む独立国。リトアニアは帝政ロシアから1918年に独立を達成したが、独ソ間の密約で40年にソ連に編入され、その一共和国として半世紀の時を刻んだ。90年3月ソ連から離脱を宣言し、91年9月ふたたび完全な主権国家となると同時に、9月国連に加盟した。西はバルト海に面し、北をラトビアに、東をベラルーシ(白ロシア)に、南はポーランドとロシア(カリーニングラード州)に接している。正式国名はリトアニア共和国Lietuvos Respubliko。いわゆるバルト三国の一つ。面積6万5200平方キロメートル、人口348万3972(2001)。人口密度は1平方キロメートル当り53人。首都はビリニュス(人口54万2287、2001)。

[山本 茂]

自然

東ヨーロッパ平野のネマン川下流部にあり、約4000の湖沼群をもつ平坦(へいたん)な低地からなる。モレーン(氷堆石(ひょうたいせき))や湿地、泥炭地など氷河性の地形に覆われている。平均気温は1月零下4.8℃、7月17.2℃、年降水量は約600ミリメートル。最大の河川ネマン川はベラルーシに源を発し、北流してバルト海のクルスク潟(がた)に注ぐ。ポドゾル土が多く(45.3%)、森林は全土の25%で南東部に多い。

[山本 茂]

歴史

ヨーロッパのなかでも古い系統のバルト諸族に属し、言語的にも古プロセイン語やラトビア語と同系統の言語をもつリトアニア人が、固有のリトアニア文化を保持するバルト海沿岸部のサモギティア(ジムージ)地方からクライペダ(ドイツ名メーメル)近辺に至る地域を中心にほぼ均質な社会を構成している。一方、首都ビリニュス(ビルノ)を中心とする東部地方および南部にはポーランド人、ロシア人やベラルーシ人を擁し、多民族社会としての側面をもっている。

 地理的にみて、古プロセイン地域を小リトアニアとよび、サモギティア地方を除くそれ以外の地域全体を大リトアニアとよぶ。リトアニア人がバルト諸族の一つとして歴史に登場するのは13世紀である。リトアニアという呼称は、「流れる」という意味のスラブ系のことばに由来し、ラトビアのラトと起源を共有する。このことは太古の昔にはスラブ系とバルト系とは同一民族であったことの論拠とされている。ヨーロッパ最後の異教民族であったために、異教徒討伐を旗印に掲げたドイツ騎士団の侵攻を招き、それに刺激されて部族集団から国家編成の段階へ進んだ。13世紀中葉、ミンダウガスの下で最初の統一国家が形成され、続く14世紀初頭のケディミナス(在位1316~41)の代にリトアニア大公位を称し、キプチャク・ハン国の衰退に乗じてルーシ(現ベラルーシ、ウクライナ方面)への進出を開始した。大公アルギルダス(在位1345~77)の下でルーシの諸侯を服属させるにつれ、東方正教会化が進んだ。ドイツ騎士団との抗争が激しさを増すにつれて、ポーランド王国との連合を進める、アルギルダスの息子ヨガイラ(ポーランド名はヤギェウォ)とリトアニアの独立性を守ろうとする、アルギルダスの弟ケイストゥートとが争い、両派に分かれて対立状態に陥った。1386年にヨガイラ(在位1377~92)はポーランドの王位継承者ヤドビガと結婚して、ここにリトアニアはポーランドとの連合時代を迎え、リトアニアはローマ・カトリックを受け入れた。1410年のタンネンベルク(グルンバルト)の戦いで両国はドイツ騎士団を破ってからヨガイラの権威が確立するが、ケイストゥートの息子ビトルト(ビタウタス)はリトアニアの独立派を率いてヨガイラと対抗した。ビタウタス(在位1392~1430)は東方のモスクワ大公国の伸長を抑え、クリミア・ハン国への大遠征を企て、ルーシのほぼ全域を支配下に治めるなど、リトアニア大公国の全盛期をもたらした。

 ビタウタスの死後、大公位はヨガイラの子供たちウワディスワフとカジミェシュに継承され、リトアニア・ポーランド連合国家体制の下でルネサンスを迎えたリトアニアは栄華を極めた。1572年にジグムント・アウグストが死んでヤギェウォ朝は断絶するが、それに先だって1569年に両国間でルブリンの合同が結ばれ、リトアニアはポーランドにウクライナの大半を譲り、それぞれ別個の議会と軍隊を維持するものの、ポーランド分割に至るまで実質的に一つの国家としての歴史を歩むことになる。ルブリンの合同以後、リトアニアは今日のベラルーシとともに一つの国家単位を構成することになる。1572年に選挙王政に移行してからは、士族身分団体のためにリベルム・ベト(自由拒否権)が公認されて身分制議会の権限が強まり、王権の弱体化にともない国家は衰退し始めた。国家の衰退と並行して社会の上層部のポーランド化が一段と進んだ。

 18世紀末のポーランド分割を経て、リトアニアは帝政ロシアに編入されたがナポレオン戦争期を挟んで、むしろポーランド文化はリトアニアにおいて開花し、ルネッサンス期に設立されて以来の伝統を誇るビルノ大学の学芸は大いに栄えた。歴史家ヨアヒム・レレベルや国民詩人アダム・ミツキェビッチ等のロマン派の知識人を多数輩出した。19世紀の分割時代を通じて、一連のポーランド蜂起(ほうき)の舞台となった。蜂起が敗北すると、蜂起に加担した地主貴族の土地財産は没収され、多くの士族らがシベリアなどへの流刑に処せられた。とくに1863~64年の一月蜂起以後は、総督ミハイル・ムラビヨフの下で徹底した弾圧政策がとられ、しかしその一方で本国ロシアよりも有利な条件で農民解放が実施され、脱ポーランド化が意図的に図られた。とはいえ農民の社会的地位の上昇とともに、リトアニアの農民の政治意識が急速に高まった。これを反映して、1883年に民衆の啓蒙(けいもう)を目的としたリトアニア語の雑誌『黎明(れいめい)Aušra』が、民族主義者ヨナス・バサノビチウスの編集によりプロイセン領ティルジットで創刊され、民族誌的リトアニア(リトアニア人の居住地域のみをさす)の自立を目ざす民族主義運動が勃興(ぼっこう)した。1905年のロシア第一次革命を経てリトアニア語の公用語(ラテン文字の使用)化が認められ、自治政府の設立や議会開設の気運が高まり、独立運動へ弾みがついた。一方、在地の開明派貴族は、リトアニアの民族誌的リトアニアの分離独立傾向に対抗して、ベラルーシとの一体化を主軸とした、すなわち歴史的リトアニア(かつてのリトアニア大公国領、現在のリトアニアとベラルーシを含む地域をさす)の復活を目ざす郷土派ミハウ・レメル(ミコラス・レメリス)を先頭に政界を指導しはじめる。

 第一次世界大戦中、ドイツに支援されてリトアニアの民族主義者は評議会(タリバ)を設け、1918年2月16日に独立を宣言した。しかし、独立にあたっては、連邦化を求めるピウスツキが指導する新興ポーランド国家との軋轢(あつれき)やソビエト政権との関係など、難問を抱えた。1920年10月のポーランド軍によるビリニュス占領によりリトアニア・タリバ政権はカウナスに首都を移すが、以後ポーランドとの関係は決定的に悪化した。諸民族の共存共生を求め、歴史的リトアニアの復活を目ざした郷土派の路線は、これで完全に破綻(はたん)した。1926年12月にタリバ政権を率いるアンタナス・シュメトナスの下で疑似ファシズム体制が成立し、ポーランドと対抗するのみならず、クライペダの領有をめぐってドイツとの対立も深めた。1939年8月23日の独ソ不可侵条約の締結、そして9月1日の第二次世界大戦の勃発(ぼっぱつ)の際にはリトアニアは中立を宣言したが、ソ連の圧力に屈し、1940年6月17日、ユスタス・パレツキスを首班とする社会主義政権が誕生し、8月3日にソ連に編入された。独ソ戦が勃発すると、1941年6月23日からナチス・ドイツの占領下に置かれたが、1944年2月にリトアニアは独立を果たし、翌年ふたたび一社会主義共和国としてソ連に編入された。1947年から49年末にかけて集団農場(コルホーズ)化の実施に伴い、民族主義者や上層階級がシベリアへ強制移住させられるなど、ソビエト化が推進された。ソビエト化に抵抗する民族主義者は、1952年まで森林地帯でパルチザン活動を展開した。第二次世界大戦後には、ビリニュス地方に居住していたポーランド系住民約17万人が追放され、非ポーランド化が強化された。

[早坂真理]

政治

ゴルバチョフ時代に入り、ペレストロイカ(改革)の進展に応じてリトアニアではソ連圏からの分離独立の動きが急速に高まった。1988年10月からビタウタス・ランツベルギスが独立派サユディスを率い、議会において1940年のソビエト編入を無効とする決議を行った。1990年3月11日、リトアニアは独立を宣言するが、これを阻止しようとするソビエト政府は軍隊を派遣してテレビ局などを制圧し、抵抗する市民14名が虐殺された。しかし、国際世論の支援もあって、ソビエト政府は91年9月6日リトアニアの独立を承認し、また国連は9月17日リトアニアの加盟を認めた。その後、最高会議議長であるランツベルギスの急進的で民族主義な政策は財政破綻を招き、旧共産党系改革派を指導していたアルギルダス・ブラザウスカスが93年2月、独立後初の大統領選挙で当選し、大統領として現実路線を歩んだ。98年、元アメリカ移民で環境問題専門家のアダムクスが大統領に選出された。2003年1月の大統領選挙では、現職であったアダムクスを破り、自由民主党党首パクサスが当選、就任した。しかし、パクサスはロシアマフィアと関係のある企業から多額の献金を受けていたために問題となり罷免(ひめん)。04年に行われた大統領選挙ではアダムクスが当選した。独立以来十数回内閣がかわるなど政情不安が続いている。

[早坂真理]

産業

バルト三国のなかでは比較的温和な気候と肥沃(ひよく)な土壌に恵まれ、農業が発達した。酪農と畜産が農業生産の7割を占めているが、小麦、大麦、ライ麦などの穀類、ジャガイモ、テンサイなどの根菜、亜麻(あま)、菜種などの工芸作物(工芸や工業の原料にするために栽培される植物)、野菜などが栽培されている。

 リトアニアは資源に恵まれず、他のエストニアやラトビアに比して工業発展が遅れていた。工業生産の75%が、首都ビリニュスなど五つの主要都市に集中している。カウナスは絹織物、化学工業が、クライペダは漁業、水産加工業、製紙業が盛んである。また、機械・金属加工業も発展し、工作機械、精密機械、エレクトロニクス製品、ラジオ、テレビなどを生産している。化学工業では化学肥料、化繊、硫酸などを、紙パルプ工業は豊富な森林資源を基礎に発展している。古くから発展した軽工業では、毛織物、綿布・縫製、製靴が重要で、食品加工では食肉、酪製品、水産加工に特色がある。

 ソ連解体後、地域分業システムが崩壊したため、工業原料やエネルギーの確保が困難となり、電機・エレクトロニクス製品や農産物の輪出先の大半を失った。そのためインフレが高進し、工業生産は5割、農業生産は3割減と落ち込み、経済危機を迎えた。国営企業の民営化が進められるのに伴って、経済も徐々に好転してきた。インフレ率は1992年の1100%から95年には35%に下がった。1992年にはIMF(国際通貨基金)に加盟し、翌年に新通貨リタスを導入し、NATO(北大西洋条約)加盟など北欧諸国やEU(ヨーロッパ連合)との関係のいっそうの緊密化を積極的に進めた。2004年、EU加盟。

[山本 茂]

住民

インド・ヨーロッパ語族に属するバルト語派の一つ、リトアニア人がつくる独立国である。民族構成は、リトアニア人(81.4%)、ロシア人(8.3%)、ポーランド人(6.9%)、ベラルーシ人(1.5%)、ウクライナ人、ユダヤ人など多民族が居住しているが(2000)、旧ソ連の中では主要民族であるリトアニア人の比重が高いことが特徴である。バルト三国のもっとも南に位置するため、ロシア人の流入が少なく、歴史的にその比率はほとんど変化がなかった。人口や都市は国土に広く分散しており、都市人口の比率は68%(1994)。首都ビリニュスは国の南東部にある最大の都市で、政治、経済、文化の中心地である。リトアニアは歴史的にポーランドと関係が深かったが、少数民族のポーランド人が多く住むのも首都周辺の地域である。そのほかのおもな地方都市では古い歴史的都市であるカウナス(人口37万8943)、バルト海に臨むクライペダ(19万2954)、シャウリャイ(13万3883)、パネベジス(11万9749)などがある(2001)。

[山本 茂]

『早坂真理著『ウクライナ――歴史の復元を模索する』(1994・リブロポート)』


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百科事典マイペディア 「リトアニア」の意味・わかりやすい解説

リトアニア

◎正式名称−リトアニア共和国Lietuvos Respublika/Republic of Lithuania。◎面積−6万5300km2。◎人口−294万人(2014)。◎首都−ビリニュス(ビルニュス)Vil'nyus(54万人,2011)。◎住民−リトアニア人83.4%,ポーランド人6.7%,ロシア人6.3%,ベラルーシ人1.2%。◎宗教−カトリック79%,ロシア正教。◎言語−リトアニア語(公用語),ロシア語,ポーランド語。◎通貨−ユーロEuro。◎元首−大統領,グリボウスカイテDalia Grybauskaite(2009年7月就任,2014年7月再任,任期5年)。◎首相−ブトケビチュウスAlgirdas Butkevicius(2012年12月就任)。◎憲法−1992年10月国民投票で承認。◎国会−一院制(定員141,任期4年)(2012)。◎GDP−473億ドル(2008)。◎1人当りGNP−7870ドル(2006)。◎農林・漁業就業者比率−14%(1997)。◎平均寿命−男65.9歳,女77.7歳(2007)。◎乳児死亡率−5‰(2010)。◎識字率−99.7%(2009)。    *    *ヨーロッパ北部,バルト三国南端の共和国。西部はバルト海に面する。国土の大部分は低い平原(最高点300m以下)で,南西部をネマン川が貫流する。森林が国土の22%を占める。住民の8割はリトアニア語を話すリトアニア人で,第2次大戦後に流入したロシア系住民は1割弱。主要農産物はライ麦,エンバク,小麦,テンサイ,ジャガイモ,アマなどで,豚,牛の畜産もある。泥炭の産が豊富で,機械,造船,セメント,繊維,製紙などの工業が行われる。 リトアニア人は古くからこの地に住んでいたが,13世紀にドイツ騎士修道会などの侵入に抵抗してリトアニア大公国を形成,ヨーロッパにおける強国の一つとなり,15世紀にはドイツ騎士修道会を破った。1569年ポーランドと合体(ルブリン合同)し,一種の連邦国家となった。1795年ポーランド分割によって大部分の領土がロシアに併合された。ロシア革命後,1918年ドイツなどの支持によって親西欧的な共和国の独立が宣言されたが,1940年ソ連占領下で議会はソ連邦への加入を決めた。ペレストロイカ期の1988年民族運動組織〈サユディス〉の活動が始まり,1990年独立を宣言し,ソ連の軍事介入を招いたが,1991年8月モスクワで保守派によるクーデタが失敗すると,翌9月ソ連も独立を承認し,国連にも加盟した。2004年3月他の中東欧6ヵ国とともにNATO(北大西洋条約機構)に加盟し,同年5月エストニア,ラトビアとともにヨーロッパ連合(EU)に加盟した。2015年1月に通貨をそれまで使っていたリタスからユーロに変更した。
→関連項目カウナスクライペダ

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「リトアニア」の意味・わかりやすい解説

リトアニア
Lithuania

正式名称 リトアニア共和国 Lietuvos Respublika。
面積 6万5286km2
人口 278万4000(2021推計)。
首都 ビリニュス

バルト海沿岸にあるバルト3国のうち最南に位置する国。西部と東部に丘陵があるほか国土の大部分は平地で,氷河作用を受け,多くの湖沼,氷堆石堤がある。ニャムナス川 (→ネマン川 ) が主要河川をなす。海洋性気候から大陸性気候への遷移地帯にあり,平均気温は1月-4.8℃,7月 17.2℃。年降水量約 600mmで,混合林地帯に入る。住民の約 80%がリトアニア人で,ほかに少数のロシア人,ポーランド人,ベラルーシ人がいる。公用語はリトアニア語。リトアニアは 13世紀より強国となり,16世紀ポーランドと合体したが,18世紀後半ポーランド分割により大部分がロシア領に入った。 1918年独立したが,1940年ソビエト連邦に編入され,リトアニア=ソビエト社会主義共和国となった。 1990年3月独立を宣言し,1991年9月独立を達成して現国名となり,国際連合に加盟。 2004年にはヨーロッパ連合 EU,北大西洋条約機構 NATOに加盟した。重工業が発達し,機械,造船,鋼管,電気機器,化学 (合成繊維,肥料) ,セメント,食品 (食肉,乳製品,製粉,砂糖,水産物加工) ,木材加工,製紙などが主要工業である。農業部門は畜産と穀物,アマ,テンサイなどの栽培が中心である。また琥珀加工をはじめ手工業も盛んである。水運 (海洋,内陸) が発達し,鉄道・道路網も発達している。 (→リトアニア史 )

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山川 世界史小辞典 改訂新版 「リトアニア」の解説

リトアニア
Lithuania

バルト三国のうち,最南に位置する共和国。バルト系諸民族が居住していたこの地は,13世紀にドイツ騎士団の脅威にさらされたが,13世紀前半にリトアニア公国が形成された。その後,カトリック化,ポーランド化が進み,1386年にリトアニア‐ポーランド王国が成立し,1569年のルブリン連合で,事実上ポーランドの属領となった。しかし,1795年の第3次ポーランド分割で,大公国領の大部分がプロイセン領,ロシア領となった。ロシア領リトアニアでは,19世紀からロシア化政策が強化されたが,それに対する抵抗運動が高まり,1918年には独立を宣言,20年に共和国となった。しかし40年,再びソ連に併合された。80年代後半には,ソ連でのペレストロイカの進行に伴い,独立運動が盛んになり,91年独立回復を果たした。

出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報

知恵蔵 「リトアニア」の解説

リトアニア

1990年から人民戦線サユディス議長のランズベルギスが最高会議議長(元首)になったが、91年の独立後は国内は混乱し、92年に辞任。同年11月の新議会選挙で、元共和国共産党第一書記アルギルダス・ブラザウスカスの民主労働党が勝利し、93年2月に大統領に当選した。しかし95年3月の地方議会選挙や96年11月の議会選挙では、サユディスから新保守主義に脱皮した祖国同盟が圧勝。98年1月の選挙でワルダス・アダムクスが大統領に選ばれ、欧州連合(EU)と北大西洋条約機構(NATO)への早期加盟を政策として掲げた。2002年12月の大統領選挙では、元首相で自由民主党党首のローランダス・パクサスが当選、03年2月に就任した。しかしパクサスはロシア情報機関とのつながりが理由で04年に罷免され、6月の選挙でアダムクスが返り咲いた。首相は01年7月にブラザウスカスが就任したが、06年6月内閣総辞職、7月にゲディミナス・キルキラス新首相の内閣が発足した。リトアニアもロシアとの間に国境問題を抱えていたが、97年10月に両国は国境条約に調印した。

(袴田茂樹 青山学院大学教授 / 2007年)

出典 (株)朝日新聞出版発行「知恵蔵」知恵蔵について 情報

旺文社世界史事典 三訂版 「リトアニア」の解説

リトアニア
Lithuania

バルト海に面した3国のうち南部に位置する共和国。首都ビリニュス
13世紀にドイツ騎士団の侵略に抵抗し,リトアニア大公国を建設。14〜16世紀にはリトアニア−ポーランド王国(ヤゲウォ朝)を結成して栄えた。1569年ポーランド領となったが,1795年の第3次ポーランド分割でロシア領となる。ロシア革命後の1918年,ドイツの占領下で独立を宣言し,20年ソヴィエト−ロシアに独立を承認される。第二次世界大戦開始後の1939年ソ連軍の進駐をうけ,40年ソ連に併合・編入された。1988年に民族組織が結成され,90年の選挙で独立派が圧勝して独立を宣言。1991年1月のソ連軍の侵攻後,9月に独立を達成し,国連に加盟した。

出典 旺文社世界史事典 三訂版旺文社世界史事典 三訂版について 情報

世界大百科事典(旧版)内のリトアニアの言及

【ソビエト文学】より

…これらの文学の主要なものは,(1)東スラブ語系(ウクライナ,白ロシア)文学,(2)バルト3国の文学,(3)カフカス地方(アルメニア,グルジアなど)の文学,(4)チュルク語系・イスラム系諸民族の文学である。
[東スラブ語系文学]
 古代ロシアの首都キエフは1240年モンゴル軍に攻略されて以来衰微し,今日のウクライナ,白ロシア(現ベラルーシ)に当たる地方は14世紀になって,リトアニア・ポーランド連合の支配下に入った。ウクライナはその後17世紀に,白ロシアは18世紀にロシア領となった。…

【ポーランド】より

…たとえば,16世紀に盛んになるライ麦の輸出は,この二つの川を使って行われた。ただし海岸線に平行する形でマズーリ地方とポモジェ地方,さらにその東のリトアニアに湖沼の帯が続いており,これが人の移動と定住を妨げてきた。この地方のキリスト教化が遅れたり,開発が遅れた理由はここにある。…

※「リトアニア」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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