永福門院(読み)エイフクモンイン

デジタル大辞泉 「永福門院」の意味・読み・例文・類語

えいふく‐もんいん〔‐モンヰン〕【永福門院】

[1271~1342]鎌倉後期の女流歌人伏見天皇中宮西園寺実兼長女。名は鏱子しょうし玉葉集風雅集の代表歌人。

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精選版 日本国語大辞典 「永福門院」の意味・読み・例文・類語

えいふく‐もんいん‥モンヰン【永福門院】

  1. 鎌倉後期の歌人。伏見天皇の中宮。名は鏱子(しょうし)。太政大臣西園寺実兼の娘。京極為兼に師事。「玉葉集」「風雅集」の代表歌人。「永福門院百番御自歌合」がある。文永八~康永元年(一二七一‐一三四二)。

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「永福門院」の意味・わかりやすい解説

永福門院(えいふくもんいん)
えいふくもんいん
(1271―1342)

鎌倉末期の女流歌人。第92代伏見(ふしみ)天皇の中宮。「ようふくもんいん」とも読む。西園寺実兼(さいおんじさねかね)の女(むすめ)、藤原鏱子(しょうし)。京極(きょうごく)派を代表する。1288年(正応1)入内立后(じゅだいりっこう)。天皇の好尚に従い京極為兼(ためかね)の革新的な歌風を学び、歌合(うたあわせ)などに活躍、『玉葉集』に49首、『風雅集』に69首入集(にっしゅう)した。「花の上にしばしうつろふ夕づく日入るともなしにかげ消えにけり」など美しい自然詠に優れ、恋歌にも秀歌がある。実子なく、猶子(ゆうし)後伏見天皇、花園(はなぞの)天皇を鞭撻(べんたつ)して京極派歌風を次代に伝えるとともに、南北朝直前の皇統対立期に持明院統(じみょういんとう)内の融和に力を尽くした。康永(こうえい)元年5月7日没。『永福門院百番御自歌合』をはじめ、勅私撰集(ちょくしせんしゅう)、歌合など、作品総計431首(実数371首)。

[岩佐美代子]

『竹西寛子著『日本詩人選14 式子内親王・永福門院』(1972・筑摩書房)』『岩佐美代子著『永福門院 その生と歌』(1976・笠間書院)』


永福門院(ようふくもんいん)
ようふくもんいん

永福門院

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改訂新版 世界大百科事典 「永福門院」の意味・わかりやすい解説

永福門院 (えいふくもんいん)
生没年:1271-1342(文永8-興国3・康永1)

〈ようふくもんいん〉とも読む。鎌倉末期の女流歌人。父は太政大臣西園寺実兼,母は内大臣源通成女従一位顕子。名を鏱子(しようし)という。伏見天皇中宮となったが,1288年(正応1)入内の日の模様は《増鏡》にくわしい。京極為兼の指導をうけ,伏見院,為子(為兼妹)らとともに,京極派の中心歌人として,諸歌合に参加したりみずからも主催するなど,積極的に活動した。自然現象と恋愛感情を類型にとらわれないでこまやかにとらえようとした叙景歌抒情歌を作り,京極歌風を推進した。《玉葉集》には49首入集。夫君没後は花園天皇を指導し,《風雅集》にも69首入る。晩年自撰とされる《永福門院御自歌合》200首に,〈真萩散る庭の秋風身にしみて夕日の影ぞ壁に消えゆく〉など,門院の和歌の精髄が見られる。
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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「永福門院」の意味・わかりやすい解説

永福門院
えいふくもんいん

[生]文永8(1271)
[没]興国3=康永1(1342).5.7. 京都
鎌倉時代後期の女流歌人。名はしょう子 (しょうし) 。父は太政大臣西園寺実兼。母は内大臣源通成の娘顕子。正応1 (1288) 年伏見天皇の中宮となり,永仁6 (98) 年天皇の退位により,永福門院の院号を贈られた。正和5 (1316) 年出家。法名,真如源。歌人としてすぐれていた父の影響を受け,京極為兼の指導で,早くから作歌活動を開始した。『伏見院三十首』 (03) に参加,『永福門院歌合』 (05) を主催,伏見天皇とともに京極派の重要歌人に数えられた。為兼,伏見天皇没後は同派の指導者的立場にあり,花園天皇などに影響を及ぼした。作風は立体的な自然の把握,心理的な傾向,深い観照性など,典型的な京極風。『永福門院百番御自歌合』 (42) がある。

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百科事典マイペディア 「永福門院」の意味・わかりやすい解説

永福門院【えいふくもんいん】

鎌倉後期の歌人。〈ようふくもんいん〉とも読む。太政大臣西園寺実兼の女(むすめ)【しょう】子,伏見天皇の中宮。天皇譲位後永福門院と称す。天皇とともに京極為兼に和歌を学び,京極派の代表的歌人の一人となった。写実的で繊細な歌が多い。《玉葉和歌集》《風雅和歌集》に多数入集。《永福門院御自歌合》もある。
→関連項目後深草院二条

永福門院【ようふくもんいん】

永福門院(えいふくもんいん)

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「永福門院」の解説

永福門院 えいふくもんいん

1271-1342 鎌倉-南北朝時代,伏見(ふしみ)天皇の中宮(ちゅうぐう)。
文永8年生まれ。西園寺実兼(さねかね)・源顕子(けんし)の長女。正応元年中宮となり,永仁6年院号をうける。正和5年出家。京極為兼(きょうごく-ためかね)にまなび,京極派の代表的歌人として知られた。「玉葉和歌集」以下の勅撰集に約150首がのる。康永元=興国3年5月7日死去。72歳。名は鏱子(しょうし)。法名は真如源。「ようふくもんいん」ともよむ。自撰集に「百番御自歌合」。

永福門院 ようふくもんいん

えいふくもんいん

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世界大百科事典(旧版)内の永福門院の言及

【永福門院】より

…夫君没後は花園天皇を指導し,《風雅集》にも69首入る。晩年の自撰とされる《永福門院御自歌合》200首に,〈真萩散る庭の秋風身にしみて夕日の影ぞ壁に消えゆく〉など,門院の和歌の精髄が見られる。【上条 彰次】。…

※「永福門院」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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