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永福門院 えいふくもんいん

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

永福門院
えいふくもんいん

[生]文永8(1271)
[没]興国3=康永1(1342).5.7. 京都
鎌倉時代後期の女流歌人。名はしょう子 (しょうし) 。父は太政大臣西園寺実兼。母は内大臣源通成の娘顕子。正応1 (1288) 年伏見天皇の中宮となり,永仁6 (98) 年天皇の退位により,永福門院の院号を贈られた。正和5 (1316) 年出家。法名,真如源。歌人としてすぐれていた父の影響を受け,京極為兼の指導で,早くから作歌活動を開始した。『伏見院三十首』 (03) に参加,『永福門院歌合』 (05) を主催,伏見天皇とともに京極派の重要歌人に数えられた。為兼,伏見天皇没後は同派の指導者的立場にあり,花園天皇などに影響を及ぼした。作風は立体的な自然の把握,心理的な傾向,深い観照性など,典型的な京極風。『永福門院百番御自歌合』 (42) がある。

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デジタル大辞泉の解説

えいふく‐もんいん〔‐モンヰン〕【永福門院】

[1271~1342]鎌倉後期の女流歌人。伏見天皇の中宮。西園寺実兼の長女。名は鏱子(しょうし)。玉葉集風雅集の代表歌人。

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百科事典マイペディアの解説

永福門院【えいふくもんいん】

鎌倉後期の歌人。〈ようふくもんいん〉とも読む。太政大臣西園寺実兼の女(むすめ)【しょう】子,伏見天皇の中宮。天皇譲位後永福門院と称す。天皇とともに京極為兼に和歌を学び,京極派の代表的歌人の一人となった。
→関連項目後深草院二条

永福門院【ようふくもんいん】

永福門院(えいふくもんいん)

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デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説

永福門院 ようふくもんいん

えいふくもんいん

永福門院 えいふくもんいん

1271-1342 鎌倉-南北朝時代,伏見(ふしみ)天皇の中宮(ちゅうぐう)。
文永8年生まれ。西園寺実兼(さねかね)・源顕子(けんし)の長女。正応元年中宮となり,永仁6年院号をうける。正和5年出家。京極為兼(きょうごく-ためかね)にまなび,京極派の代表的歌人として知られた。「玉葉和歌集」以下の勅撰集に約150首がのる。康永元=興国3年5月7日死去。72歳。名は鏱子(しょうし)。法名は真如源。「ようふくもんいん」ともよむ。自撰集に「百番御自歌合」。

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世界大百科事典 第2版の解説

えいふくもんいん【永福門院】

1271‐1342(文永8‐興国3∥康永1)
〈ようふくもんいん〉とも読む。鎌倉末期の女流歌人。父は太政大臣西園寺実兼,母は内大臣源通成女従一位顕子。名を子(しようし)という。伏見天皇中宮となったが,1288年(正応1)入内の日の模様は《増鏡》にくわしい。京極為兼の指導をうけ,伏見院,為子(為兼妹)らとともに,京極派の中心歌人として,諸歌合に参加したりみずからも主催するなど,積極的に活動した。自然現象と恋愛感情を類型にとらわれないでこまやかにとらえようとした叙景歌や抒情歌を作り,京極歌風を推進した。

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大辞林 第三版の解説

えいふくもんいん【永福門院】

1271~1342) 伏見天皇の中宮。名は鏱子しようし。西園寺実兼の女むすめ。「玉葉集」「風雅集」の代表的歌人。

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世界大百科事典内の永福門院の言及

【永福門院】より

…夫君没後は花園天皇を指導し,《風雅集》にも69首入る。晩年の自撰とされる《永福門院御自歌合》200首に,〈真萩散る庭の秋風身にしみて夕日の影ぞ壁に消えゆく〉など,門院の和歌の精髄が見られる。【上条 彰次】。…

※「永福門院」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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