日本大百科全書(ニッポニカ) 「アビニョン教皇庁」の意味・わかりやすい解説
アビニョン教皇庁
あびにょんきょうこうちょう
1309年から1377年まで7代の間、南フランスのアビニョンに設置されていたローマ教皇庁。教皇遷座の原因は、ボニファティウス8世の死(1303)後に枢機卿(すうきけい)団が分裂し教皇選挙が困難になったことと、アナーニ事件の事後処理に絡んでフランス王が干渉してきたことに求められるが、さらにイタリアの教皇領に生じた無政府状態がこれを助長した。
ローマ・フランス対抗関係の中立派として教皇に選出されたボルドー司教クレメンス5世(在位1305~1314)は、フランス王フィリップ4世の干渉下でのローマ入りを断念し、プロバンス伯領内のアビニョンに教皇庁を仮設した(1309)。続くヨハネス22世(在位1316~1334)、ベネディクトゥス12世Benedictus Ⅻ(?―1342、在位1334~1342)、クレメンス6世Clemens Ⅵ(1291―1352、在位1342~1352)3代の間に城砦(じょうさい)風大宮殿と市城壁が建造され、1348年にプロバンス女伯(ナポリ・シチリア女王)より金貨8万フローリンで全市が購入され、次のインノケンティウス6世Innocentius Ⅵ(?―1362、在位1352~1362)時代までに難攻不落の教皇領都市が完成した。司法、行政、財政の三大改革による内部機構の整備拡充も進められ、南フランスの商業、金融活動と結び付いて、百年戦争中のフランスの窮乏と対照的な物的繁栄を極めた。学芸の保護者であったウルバヌス5世Urbanus V(1310ころ―1370、在位1362~1370)とグレゴリウス11世Gregorius Ⅺ(1329ころ―1378、在位1370~1378)の治世には、クレメンス6世以来導入されたパリ宮廷風の優雅な趣味とヒューマニズムが発達し、西欧文化の一大中心地となった。
他方ローマ帰還の可能性は全期間を通じてつねに高まり、詩人ペトラルカ、聖女カタリナらの強い要請もあり、財力、軍事力の蓄積によって一時的に復帰し(1367~1370)、その試行後1377年に至ってようやく実現をみた。しかし、帰還後ふたたび枢機卿団の分裂により、フランス人教皇がローマと対立して、1378~1394年のクレメンス7世から、1394~1423年のベネディクトゥス13世Benedictus ⅩⅢ(1342ころ―1423)までの第二次アビニョン時代を招いた。イタリア側から教皇の「バビロン捕囚」(古代ユダヤ人がバビロンに強制移住させられた故事にちなむ)と批判され、また一般に「アビニョンの幽囚」として知られるこの時代は、教皇権の衰退期とされるが、最近、中央集権的、近代的教会の創始期として再評価されている。
[橋口倫介]