三重県中東部、志摩郡(しまぐん)にあった旧町名(大王町(ちょう))。現在は志摩市の南東部を占める一地区。1954年(昭和29)波切(なきり)町と船越(ふなこし)、名田(なた)の2村が合併して成立。1956年畔名(あぜな)村を編入。2004年(平成16)浜島(はまじま)町、志摩町、阿児(あご)町、磯部(いそべ)町と合併、市制施行して志摩市となる。旧町域は、志摩半島南東部に位置し、国道260号が通じる。名称は、大王崎にちなむ。東は荒波砕ける太平洋に、西は波静かな英虞湾(あごわん)に面する漁業と観光の町。古代から中世まで神宮領で海産物を献ずる御厨(みくりや)で、江戸時代は鳥羽(とば)藩に属した。美しい景観で知られる大王埼灯台の基部にある波切が中心集落でカツオ漁業の基地。付近に名田、畔名の漁港があり海女(あま)漁業と磯(いそ)釣りの名所。英虞湾側の船越では真珠など養殖漁業が盛ん。登茂(とも)山(48メートル)は湾を一望に収める伊勢(いせ)志摩国立公園の観光拠点の一つで、キャンプ場、ビジターセンター、展望台などが整備されている。深谷(ふかや)水道は1931年に先志摩(さきしま)半島の基部を幅20メートル、長さ550メートルにわたって掘削した運河で、英虞湾と外洋を結ぶとともに湾内の浄化に貢献している。9月に行われる「わらじ祭り」は海の奇祭として知られ、県の無形文化財に指定されている。
[伊藤達雄]
一般には君主に対する尊称であるが、日本古代では天皇号成立以前の尊称として始まり、「だいおう」とも読む。大君とも書かれた。
大王には大別して3種の内容があり、時期的にも区別しうるようである。第一は、主として5世紀代を中心としたもので、熊本県の江田船山(えたふなやま)古墳出土大刀(たち)銘、埼玉県の稲荷山(いなりやま)古墳出土鉄剣銘、和歌山県の隅田八幡宮(すだはちまんぐう)人物画像鏡銘にみられる。これらの銘文は日本風の発音をすべて字音仮名づかいで記しており、大王は「だいおう」と読むのが妥当。これらの大王は、当時の全国各地に吉備(きび)、毛野(けぬ)などの自立的政治権力が存在し、それぞれに王がいたと考えられることから、それらの王のなかで最高の権威と権力をもつという意味でヤマト政権の王の称号として用いられた。
第二は、主として6世紀代を中心に、大后=おおきさき=皇后、大兄=おおえ=皇太子の称号とともに用いられたもので、この場合は「おおきみ」と読まれたと考えられる。この大王は単なる称号以上の意味をもつ。6世紀中葉ごろからヤマト政権は全国的支配のための原始的な官僚組織や統治機構(伴造(とものみやつこ)、国造(くにのみやつこ)、屯倉(みやけ)、部(べ)制など)を整えつつあり、大王はそうした専制国家の君主の地位を意味し、宮廷内の第一夫人が大后、次期の大王位継承資格をもつものが大兄という地位称呼をもつことと対応する。
第三は、天皇号の成立以後の伝統的意味をこめた尊称としてのもので「大君」(おおきみ)と書かれる場合が多い。天皇号の成立時期については、7世紀初頭の推古(すいこ)朝とするのが通説であるが、天武(てんむ)・持統(じとう)朝とみる説もある。『日本書紀』舒明(じょめい)天皇即位前紀、同元年正月条に群臣の言を記す文章のなかに大王の語がみえる。天皇を大王または大君と記す事例は『万葉集』に数多くみられ、このほか『上宮聖徳法王帝説(じょうぐうしょうとくほうおうていせつ)』『元興寺伽藍縁起并流記資財帳(がんごうじがらんえんぎならびにるきしざいちょう)』にもある。律令(りつりょう)制では2~5世の皇親を王、女王と称するが、『日本書紀』の古訓などでは「おおきみ」と読む例が多い。
[吉田 晶]
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大君とも。天皇号成立以前の君主号。元来は中国皇帝から王に冊封された諸国の君主に対して,支配圏内で用いられた尊称で,国内的に君主号として機能し,朝鮮3国でも使用されていた。日本では漢語の「大王(だいおう)」が「キミ」(君・王など,自己の仕える主人)の尊称としての和語「オオキミ」と結合し君主号として成立した。初見は5世紀後半の雄略朝であり(埼玉県稲荷山古墳鉄剣銘,熊本県江田(えた)船山古墳大刀銘),7世紀初めの推古朝でも倭王は「阿輩雞弥阿毎多利思比孤(おおきみあめたりしひこ)」と称したようで(「隋書」倭国伝),7世紀末の天武~持統朝頃の天皇号採用までは,大王が君主号であった。「万葉集」には「大君」の表記も頻出する。
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…日本古代において,〈王〉あるいは〈大王〉は,はじめは政治的君主の称として用いられた。金印の〈漢委奴国王〉,《魏志倭人伝》の〈女王国〉,隅田八幡人物画像鏡銘の〈大王〉〈男弟王〉,江田船山古墳出土太刀銘や稲荷山古墳出土鉄剣銘の〈大王〉などがその例である。…
…公とも表記され,古くは有力豪族の尊称で首長の意。大和国家の王者が大王(おおきみ)と称するようになると,君は姓としてしだいに位置づけられ,その中で大王は君(公)の中の大なるものとして諸豪族に超越する立場を獲得した。君の姓を持つ地方有力豪族の例としては,上毛野(かみつけぬ)君,筑紫胸肩(むなかた)君などがあり,また応神天皇以後の皇族の後裔と称する皇親氏族も君の姓を有していた。…
…しかし,仏像の銘は後代に刻まれた可能性が強く,《日本書紀》の文は8世紀の編者の潤色が多くて,ともに信用できないうえ,中国ではもと天皇の語は天の最高神の意に用いられ,地上の君主の意に用いるのは唐の674年(上元1)すなわち日本の天武3年以後のことなので,近年では天武朝より天皇の称号が用いられたとする意見が有力である。 天皇の語の使用以前は,〈大王〉の称が用いられた。それは癸未年(443年または503年)の干支をもつ隅田八幡人物画像鏡の銘に〈大王〉,辛亥年(471年または531年)の干支をもつ稲荷山古墳から出土した大刀銘に〈獲加多支鹵(わかたける)大王〉とあることなどからわかる。…
…この期間に国家組織の変革があったことは,学説のひとしく認めるところである。ヤマト王権はおそらく雄略より〈大王〉号を確立する。辛亥年(471)の年紀を記す埼玉県の稲荷山古墳出土の鉄剣銘に,〈獲加多支鹵大王〉,熊本県の江田船山古墳出土の太刀銘に,〈獲□□□鹵大王〉とあり,ワカタケル大王(雄略)をさしている。…
…日本古代において,〈王〉あるいは〈大王〉は,はじめは政治的君主の称として用いられた。金印の〈漢委奴国王〉,《魏志倭人伝》の〈女王国〉,隅田八幡人物画像鏡銘の〈大王〉〈男弟王〉,江田船山古墳出土太刀銘や稲荷山古墳出土鉄剣銘の〈大王〉などがその例である。…
…この期間に国家組織の変革があったことは,学説のひとしく認めるところである。ヤマト王権はおそらく雄略より〈大王〉号を確立する。辛亥年(471)の年紀を記す埼玉県の稲荷山古墳出土の鉄剣銘に,〈獲加多支鹵大王〉,熊本県の江田船山古墳出土の太刀銘に,〈獲□□□鹵大王〉とあり,ワカタケル大王(雄略)をさしている。…
※「大王」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
年齢を問わず、多様なキャリア形成で活躍する働き方。企業には専門人材の育成支援やリスキリング(学び直し)の機会提供、女性活躍推進や従業員と役員の接点拡大などが求められる。人材の確保につながり、従業員を...
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