アメリカの学生がサッカーやラグビーをもとに考案したチーム競技。楕円形のボールを相手陣にもち込むとか,キックで相手ゴールのバーを越すとかして,その得点を争う。アメリカでは単にフットボールといい,野球と並ぶ国技である。世界的な広がりには乏しく,アジアでは日本,韓国で行われている程度。カナダにこれと類似したカナディアン・フットボールCanadian footballがある。
大学の対抗競技として生まれ発達した。1869年11月6日,ニュージャージー州ニューブランズウィックのラトガーズ大学がプリンストン大学を招いて行った試合が,この競技の始まりとされている。25人ずつの選手が丸いゴムのボールをけり合うサッカーと変りのない競技で,先に6ゴールした側を勝ちとしたが,この試合をきっかけにして東部の大学の間に普及。対校戦のための組織化が進んだからである。73年にイェール,プリンストン,コロンビア,ラトガーズの4大学が連盟を結成。次いでコーネル,ペンシルベニア両大学がチームを作った。このころハーバード大学ではボストン・ゲームと呼ばれるラグビーに似た競技を行っており,74年にカナダのマッギル大学を迎え,マサチューセッツ州ケンブリッジで初のラグビー試合を行った。足だけでボールを運ぶそれまでのフットボールと違って,手を使い相手に体当りするおもしろさ,激しさに魅力を見いだした東部の諸校は,次々とラグビースタイルに切り替え,それを基にアメリカン・フットボール独自のルールを編み出した。この改革に際して,今日〈アメリカン・フットボールの父〉といわれるウォルター・キャンプWalter Chauncey Camp(1859-1925)が大きな役割を果たした。イェール大学の主将を務めたキャンプは,卒業後も組織にとどまりルール委員として,より合理的な規則の作成に参画。現行の競技の基礎を作り上げるうえで功績を残した。80年にはチームの人数を11人に定め,スクリメージラインの概念を考え出して攻撃側と守備側を明確に分けた。プレーは攻撃側のセンターがボールをスナップすることで始まり,それを受け取るクオーターバックや,プレーを効果的に展開するためのシグナルコールを創案した。82年には攻守交代のルールであるダウンと必須前進距離を考案。つまりスナップで始まりボールの前進が停止するまでのプレーの1区切りをダウンと呼び,連続3度(現在は4度)のダウンのうちに5ヤード(現在は10ヤード。1ヤードは約0.9m)前進できないときは相手に攻撃権を譲る,というこの競技を特徴づける画期的なルールだった。競技は19世紀末から20世紀初めにかけてアメリカ全土の大学に急速に普及した。同時に激しい体当りによる危険が増大し,毎年のように死者が出るに及んで,競技の中止を求める声が起きた。そのプレーの激化を緩和する一策として,1906年には前パスがとり入れられ,やがてこの競技の特色となった。また12年には競技場の広さ,得点の比重などが現在の形に整えられた。選手の交代はしだいに許容範囲が広がり,やがてプレーとプレーの間に自由に交代できるようになった。現在では攻守交代に際して,どちらのチームも攻守のメンバーをそっくり入れ替える2プラトーン制が常識となっている。この自由交代制のために他の競技とは比較にならないほど選手の分業化が進み,各ポジションに専門化した選手を配してチームを編成するようになった。これに伴い攻守のシステムは複雑化し,今日では単なる球技というよりも,総合スポーツとまでいわれるようになった。
アメリカではこの競技に母校の名誉と誇りをかけるといった面が強く,スタンドでは華やかな応援合戦が繰り広げられることでも知られている。有名な対校戦としては,最多の対戦回数をもつイェール,ハーバード両大学の試合(第1回は1875年),陸・海軍両士官学校の対校戦(第1回は1890年)があるが,ほかにそれぞれの地域に数多くの伝統のカードがある。9月から11月の3ヵ月がシーズンで試合は週1度。対校戦やリーグ戦が終わったあと,12月から新年にかけて,優秀な成績をあげたチームが温暖な南の各地でボウル・ゲームを行う。ボウルとはスタジアムの観客席がすり鉢形になっているのになぞらえた言葉で,スタジアムそのものと,そこで行われるゲームを指す。20ほどのボウル・ゲームにはそれぞれ開催地の名産や由来にちなんだ名がつけられている。バラ祭で知られるロサンゼルス郊外パサデナの〈ローズ・ボウル〉はもっとも歴史が古い。大学の有力チーム間には,チャンピオンを決めるトーナメント方式の選手権大会がなく,ボウル・ゲームはそれに似た役割を担ってきた。しかし1995年度にはボウル・ゲームの組織化がスタート。選手権大会実現の方向を探る協定allianceのもとに,マイアミの〈オレンジ・ボウル〉,ニューオーリンズの〈シュガー・ボウル〉,アリゾナ州テンピの〈フィエスタ・ボウル〉が持ち回りで,ランキングの1,2位校の対戦を実施。98年からはローズ・ボウルもこれに加わることとなった。高校でも大学同様に盛んである。大学での普及発展に伴って19世紀末にはプロもでき,1920年にはそれが組織化されてナショナル・フットボール・リーグ(NFL)の名称で今日に至っている。対抗組織もいくつか生まれたが,そのつど吸収合併するなど,順調に発展。選手養成機関はなく,36年にドラフト制を考案。大学の名選手を補強している。ナショナル,アメリカンの二つのコンファレンスがあり,チーム数は野球の大リーグを上回る。1月にはワールド・シリーズに倣って両コンファレンスの代表が〈スーパー・ボウル〉で王座を争う。
NFL繁栄の要素の一つはアメリカの三大放送網(CBS,NBC,ABC)と緊密な関係を構築してきたことだが,新たにCATVがスタートすると,1987年にはESPN,90年にはTNTと相次いで契約。CATV以外でも94年からはCBSに代えてFOXと契約を結んだ。こうした収益の分け前と身分の自由化とを求めた選手は,82年に史上初のストライキを行った。
日本では1919年にアメリカ留学から帰った東京高師の岡部平太の指導で,同付属中学などで行われたが,普及には至らなかった。34年立教大学のポール・ラッシュPaul Rausch,ジョージ・マーシャルGeorge Marshall,ファウラーJ.E.Fowlerらが同大学の学生を指導,早稲田,明治両大学を加えて東京学生米式蹴球連盟を結成した。同年11月29日に明治神宮外苑競技場でこの3大学選抜軍と横浜〈外人クラブ〉との間で日本初の試合が行われ,同12月には3大学のリーグ戦が催された。翌35年3月には南カリフォルニア大学など太平洋岸の各大学の選手を中心としたアメリカ選抜チームが来日,紅,青2チームに分かれて日本の各地で7試合を行うとともに,全日本と2試合,南カリフォルニア大学と明治大学の試合が行われた。37年には日本米式蹴球協会が設立され,浅野良蔵が初代会長に就任。43年戦争で中断したが戦後復活し,現在は日本アメリカンフットボール協会が大学,高校,中学,社会人の各チームを統括している。戦後,東西大学王座決定戦の〈甲子園ボウル〉,東西学生選抜対抗の〈ライス・ボウル〉(84年から学生と社会人の1位が対抗する全日本選手権となる)が相次いで生まれ,その後,全関東対全関西の〈西宮ボウル〉ができた。アメリカとの交流は71年12月にチャック・ミルズChuck Millsが率いるユタ州立大学が来日して,国立競技場と甲子園球場で全日本と2試合を行い,これをきっかけに活発化した。76年1月18日には全米学生選抜東西対抗戦の〈ジャパン・ボウル〉が国立競技場で開かれ,満員の観衆を集めた。またアメリカの大学のレギュラーシーズンの試合を招いたボウル・ゲームを開催したり,アイビー・リーグの選抜チームなどを呼ぶこともたびたび行われた。NFLとのタイアップでは,開幕前のプロの試合が〈アメリカン・ボウル〉として開催された。チームは首都圏と京阪神地区を中心として年々増加し,今日では全国的規模の広がりをもつようになった。大学の発展と並行して社会人チームも増加を続け,選手の技術面では大学をしのぐ水準に到達。社会人選手権のしくみも整えられた。同好会的なチームも多く,女子のチームまで生まれている。ルールは,全米大学体育協会のものをそのまま採用している。
1チームは11人ずつで,交代はほぼ自由。楕円形のボールを相手のエンドゾーンにもち込み,あるいはプレースキックでゴールのバーを越したりして得点する。相手陣にボールを運び込むタッチダウンが6点。このあとトライフォアポイントといってタッチダウンした側にもう1度ゴール前3ヤード(プロは2ヤード)から攻撃の機会が与えられ,再びボールをもち込めば2点,キックでバーを越せば1点が加算される。通常の攻撃でゴールポストをキックでねらうフィールドゴールは3点。自陣内でタックルされたりして相手に与える得点をセーフティといい,2点である。野球と同様に,つねに一方が攻め,他方が守る。ボールを正当に所有している側が攻撃チームである。ポジションの名称は多種多様だが,攻撃側は7人のラインと4人のバックスに大別できる。ラインは7人の中央をセンター(略称C),その両側をガード(G),その外をタックル(T),ライン両端をエンド(E)といい,ガード,タックルには左右の区別がある。エンドもかつては左右の区別をしたが,現在はタックルに接して位置するエンドをタイトエンド(TE),遠くに離れて位置するのをスプリットエンド(SE),またはワイドレシーバー(WR)と呼ぶ。ラインはスクリメージラインに横1列に並び,ブロックで相手を押しのけてバックスの走路を切り開いたりするのが役割である。両エンドは前パスを受けに走ったりする。バックスはフォーメーションによって名称が変わることが多いが,通常のTフォーメーションの古典的な呼び方として,センターからのスナップを受けてプレーを展開させるクオーターバック(QB)と,左右のハーフバック(LH,RH),フルバック(FB)がある。ハーフバック,フルバックはボールをもち運びすることが多く,現在では一括してランニングバック(RB)と呼ばれる。またIフォーメーションなどで最後尾に位置するバックをテールバック(TB)と呼ぶ。守備側は大別してスクリメージラインで相手と相対するライン,その後ろに位置するラインバッカー(LB),最深部を守るディフェンスバック(DB)がある。
試合はキックオフで始まる。1度ボールを所有すると続けて4プレー攻撃することができる。この4度の攻撃の間に10ヤード以上前進すると,再び4度攻める権利が生ずる。これをダウン更新といい,何度でも繰り返すことができる。しかし10ヤードを進めなかったときは,四つ目のプレーが終わった地点で相手の攻撃となる。プレーはボールがスナップされてからボールキャリアが倒されたり,前パスが失敗したりするまでが1区切りとなり,これをダウンという。サイドラインではボールの位置やダウンの数を明確にするため,ダウン標示器と10ヤードのチェーンが用いられる。ダウンごとに試合はとぎれ,そのつどハドルを組んで作戦を立てる。プレーの種類は非常に多いが,大きく分けるとバックスがボールをもって突進するランニングプレーと,前パスを使うパスプレーとがある。前パスはこの競技を特徴づけるプレーで,スクリメージラインの後ろから,そのダウンで1度だけ投げることができる。パスを受けることができるのは,4人のバックスと,ライン両端の選手に限られている。このほかゴールポストをねらうフィールドゴール,地域を挽回(ばんかい)するためのパントといったキックのプレーがある。競技時間は正味60分(高校は40分)。各15分の節(ピリオド,またはクオーター)に分け,第1節と第2節が終わるとフィールドを入れ替わる。前半(第1,2節)と後半(第3,4節)の間には原則として15分のハーフタイム(休憩時間)を置く。試合は1プレーごとに攻撃側と守備側が激しくぶつかり合ってきわめて勇壮。選手の危険防止のためにヘルメット,ショルダーパット,ひざ当てなどの防具をユニフォームの下に着用することが義務づけられている。審判は最大7人が判定に当たり,ダウン標示器やチェーンをもつ補助員を使う。
執筆者:丹生 恭治
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
アメリカでは単にフットボールという。アメリカ大陸発見後、イギリスからの移住者が持ち込んだサッカー、ラグビーをもとにして、アメリカで独自につくられたフットボール競技である。
[服部慎吾]
1869年、ニュー・ブランズウィック(ニュー・ジャージー州)でプリンストン大学とラトガース大学がアメリカ最初のフットボールの対抗試合を行っている。ただし、この試合はイギリス蹴球(しゅうきゅう)協会のサッカーのルールによるものである。一方、1872年にイングランド・ラグビー協会がイギリスで発足、いち早くそのルールを取り入れたカナダのマックギル大学と学内にボストンゲーム(ラグビーに似たフットボールの一種)の伝統をもつハーバード大学との間で、1874年5月14日にボストンゲーム、その翌日にラグビーの試合が行われた。この経験からハーバード大学チームによって両者とサッカーをあわせたルールが考え出された。この新ルールはアメリカ人気質(かたぎ)にもよくあい、1876年にはコロンビア、ハーバード、プリンストン、エール、ラトガースの5大学により全米フットボール連盟が創立されるに至った。1880年フットボールの父といわれるウォルター・キャンプ(エール大学の主将。その後長くフットボールの規則委員を務めた)によって競技人数が現行の11人となり、4回連続攻撃の採用、必須(ひっす)前進距離(10ヤード=約9.1メートル)の制定など画期的なルール改正がなされ、現在のアメリカンフットボールの基礎がつくられた。その後、規則の改正、用具の改良、競技法の進歩などにより、アメリカの国民性に適したアメリカ最大のスポーツに成長した。
アメリカにおけるフットボールのシーズンは、大学の場合9月から11月までで、この間に優秀な成績を収めたチームは年末から年始に各地で行われる招待試合に出場の資格を得る。この試合は競技場がボウルbowl(椀(わん))の形に似ていることからボウルゲームとよばれ、開催地の特産物の名がつけられた。そしてパサディナのローズボウル、ニュー・オーリンズのシュガーボウル、マイアミのオレンジボウル、ダラスのコットンボウルが四大ボウルゲームとよばれた。その後、コットンボウルにかわって、ニュー・オーリンズのフィエスタボウルが四大ボウルの一角を占めることとなった。伝統的対抗試合にはエール大学対ハーバード大学、陸軍士官学校対海軍兵学校があり、いずれも1890年以来の歴史がある。フットボールには、はでな応援合戦がつきもので、これも大きな見ものの一つになっている。なお、プロチームが結成されたのは1920年で、ナショナルフットボールリーグの下に2007年現在は32チームがあり、9月から12月まで各地で試合を行い、2月上旬に行われるスーパーボウルで選手権を争い、大学の試合を凌駕(りょうが)する人気を集めている。
日本では1934年(昭和9)立教大学教授ポール・ラッシュ、同大学体育主事ジョージ・マーシャル、同大学教授小川徳治、明治大学教授松本滝蔵らの尽力で、この競技に興味をもつ早稲田(わせだ)、明治、立教の学生(アメリカ日系二世が主力)がチームを編成したことに始まる。同年11月29日アメリカの感謝祭当日、明治神宮外苑(がいえん)競技場(現、国立競技場)において、前記3大学選抜選手と横浜外国人クラブとの間で日本における最初の試合が行われた。翌月、前記3大学を中心に東京学生米式蹴球連盟が設立され、初代理事長にポール・ラッシュが就任し、第1回リーグ戦が行われ、明治大学が優勝した。1935年3月南カリフォルニア大学を中心とした選抜軍が来日し、本格的なプレーを紹介した。この年、慶応、法政の2大学が東京学生米式蹴球連盟に加入し、関西では関西大学がチームを編成した。翌1936年には東京学生米式蹴球連盟選抜チームがアメリカに遠征、新技術を習得して帰国し、これにより日本のフットボールは目覚ましい技術向上を遂げた。
1938年には日本米式蹴球協会が設立された。その後戦時体制に入り国策から名称を「鎧球(がいきゅう)」と変えたが、1943年には中止になった。第二次世界大戦後ただちに復活し、タッチフットボール(防具を使わず、タックルのかわりに両手でタッチする)を中学校、高等学校に普及させたことにより、現在では社会人、大学、高校で合計約450のチームが協会加盟し、全国各地で試合が行われている。毎年12月に行われる学生王座決定戦の甲子園ボウルと、正月に行われるライスボウル(日本選手権、1983年までは東西学生選抜戦)は、日本フットボール界の最大行事である。なおシーズンもルールもアメリカの大学とほぼ同じである。
[服部慎吾]
競技場は縦360フィート、横160フィートの長方形で、その両端におのおの30フィートのエンドゾーンを含む地域からなる。ゴールポストはエンドラインの中央に立てられ、その幅は18フィート6インチ、2本のポールの高さは30フィート以上で地上10フィートに水平のバーが取り付けられている。サイドライン上は10ヤード・チェーンとダウン標示器が移動して試合の進行を標示する。5~7人の審判員が試合を管理する(1ヤード=91.44センチメートル、1フィート=30.48センチメートル、1インチ=2.54センチメートル)。
激しい競技なので危害防止のため、選手はすべて頭にはヘルメットをかぶり、頸(くび)、肩、胸の保護にショルダーパッド、腰にはヒップパッドなどの防具をユニフォームの下に着用する。ユニフォームは敵・味方が対照的な色彩のもので、胸と背に、バックは1から49まで、エンドを除くラインは50から79、エンドは80から99の番号をつける。ボールは4枚の皮でつくられ、長軸10と8分の7インチから11と16分の7インチ、短軸外周20.75インチから21.25インチの楕円(だえん)形で10~13.5ポンド/平方インチの空気圧を充満したものを用いる。
[服部慎吾]
1チーム11人ずつが、ボールを持って相手のゴールを陥れる。野球と同様に、攻撃側と防御側が明白に区分されており、攻撃側はボールを保持し、与えられた4回の連続攻撃権の間に10ヤード以上前進した場合には、その地点から新たに4回の攻撃権が与えられる。4回の攻撃で10ヤード前進できなかった場合は、相手側に攻撃権を譲らなければならない。これを繰り返し、相手のエンドゾーンにボールを持ち込むとタッチダウンとなる。得点はタッチダウンが6点、その後相手側の3ヤードの地点で一度だけトライの権利が与えられ、これでタッチダウンをした場合は2点、フィールド・ゴールの場合には1点が追加される。そのほかフィールド・プレーからのフィールド・ゴールは3点、セーフティは2点である。競技時間は正味60分で、15分ごとの4節に分けられ、第1、第2節を前半、第3、第4節を後半とし、前半と後半の間には通常15分のハーフタイムがある。選手交代はボールがデッドになっている間に行い、制限はない。両チームに前半・後半各3回、1回につき1分30秒のタイムアウトが与えられる。
試合は開始3分前にコインを投げ、それに勝ったほうにキックかレシーブかの選択権が与えられる。キックは自陣35ヤードから相手側に蹴(け)り込む。これによって試合が開始される。このボールを捕球したレシーブチームの選手はタックルされるまで前進し、タックルされた地点から4回の連続攻撃権が与えられる。この各回の攻撃はセンターによるスナップにより開始される。スナップの際は、両軍のラインがボールをなかに挟んで横一列に向きあう。この場合攻撃側は7人以上の選手をスクリメージラインに置かなければならない。両軍とも、ボールの長軸の両先端を通るゴールラインと平行の線の空間(ニュートラルゾーン)に攻撃側のセンターを除く選手の身体のどの部分も侵入させてはいけない。攻撃側はボールがスナップされる前最低1秒間は静止しなくてはならない。
このスクリメージとは、スナップで開始される両チームの攻防の行為を意味し、ボールを受け取ってプレーが開始される。このボールを受け取ったバックは突進するか、前方にいる味方の選手にフォワード・パスするか、キックするかによって地域的前進を図る。この場合ラン、パス、キックのいずれを選ぶかは、その位置、ダウンの数、敵の状態、天候などを総合的に判断して、スクリメージ前のハドルでクォーターバックが指示する。キックを除くプレーは、ランナーがタックルされるか、場外に出た場合はボールはデッドとなり、その地点から次のスクリメージを行う。フォワード・パスが不成功に終わったときは、前の地点で次のスクリメージとなる。フィールド・ゴール以外のスクリメージキックは、4回の攻撃で必須前進距離が不可能と判断したとき、敵に攻撃権を譲るかわりに、ボールを敵陣深く蹴り込み、敵の攻撃距離を長くするために行う。このようにスクリメージを繰り返し、臨機応変のプレーを駆使してボールを前進させ、防御側はこれを阻止する。ここに激しい肉弾戦が展開される。
反則に対する罰則は距離で科せられる。すなわち、反則を犯したチームには、その反則の種類によって、5~15ヤードを、自陣のゴールラインの方向に後退させられ、その地点から次のスクリメージが開始される。選手交代は自由であるが、最近は攻撃と防御の2チームを用意し、攻防が移動するたびに全員が交代するツープラトン・システムの採用が多くなっている。
一つのチームが1試合に使うフォーメーションは平均20~30で、フォーメーションごとにひとりひとりの動き方が違うので、選手はこれを完全に覚え込まねばならない。
[服部慎吾]
NFLでは、タッチダウン後のトライを行うのは2ヤード地点、キックオフは自陣30ヤードからとなっている。また、ポジションによる背番号規定に例外がある。
[編集部]
『野崎和夫他著『アメリカン・フットボール』(1980・成美堂出版)』▽『『70年の歩み 日本アメリカンフットボール審判協会関東審判部創部50周年記念』(2004・日本アメリカンフットボール審判協会関東審判部)』▽『『アメリカンフットボール公式規則・公式規則解説書』各年版(日本アメリカンフットボール協会)』
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
出典 株式会社平凡社百科事典マイペディアについて 情報
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