アルハジ・オマル(読み)あるはじおまる(英語表記)āl-ājjī ‘Umar

日本大百科全書(ニッポニカ) 「アルハジ・オマル」の意味・わかりやすい解説

アルハジ・オマル
あるはじおまる
āl-ājjī ‘Umar
(1794―1864)

19世紀後半、現在のマリ、ギニアの東部で繁栄したトゥコロール帝国の創設者、イスラム改革指導者。セネガルのフータ・トロの厳格なイスラム教徒でカディリヤ派同胞団に属していた家系に生まれ、イスラム学を学んだ。1826年にメッカ巡礼に旅立ち、各地のイスラム教について学識を深め、巡礼中にティジャニー派に転向した。メッカからの帰途、1832年にフラニ王国ソコトに立ち寄り、ムハンマド・ベロの庇護(ひご)のもとに7年間滞在してベロの娘と結婚した。1840年に生地フータ・トロに帰国したが、定着することなく、弟子、支持者とともにフータ・ジャロンに移り、さらに1848年ギニアのディンギレに本拠地を移し、イスラム教の布教活動、通商活動を行うとともに、フランス軍前進基地から武器弾薬を購入し強力な支配者になった。この地域に支配的であったカディリヤ派イスラム教徒を批判し、1852年にはイスラム聖戦(ジハード)を宣言して、以後10年間にディンギレ、ブレ、セグー、カールタ、マシーナの諸王国を征服した。オマルはフランス軍の武器供給を断ち切られたのち、1857年にメデネの要塞(ようさい)を攻撃し敗れたが抵抗を続けた。しかし1864年にはマシーナで反乱軍に包囲され、放火されて焼死した。彼によって建設されたトゥコロール帝国は、息子アフマド・イブン・オマルによって継承され、1893年まで継続した。

[中村弘光]

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