日本歴史地名大系 「シマコマキ場所」の解説
シマコマキ場所
しまこまきばしよ
のちの島牧郡域にほぼ相当する一帯に設定された場所。シマコマキ持場ともいう。その範囲は「東ツワセよりスツツ境タテイワ迄凡七り程」で(西蝦夷地日記)、西のスッキ場所とはポンカリハ川とホロカリハ川の間であるが、西部境は時代により変動があった。所属する小名はトヲカヨセ、ヲウラ、カイシン、ヲシラカ、「シヱシヤモ」、セヱケン(松前随商録)、ヱトロップ、チワセ、トマリ、ツコタン、ヘロカルイシ、ヲリカタなどで(西蝦夷地場所地名等控)、天保郷帳では西蝦夷地蝦夷人居所之分の「シマコマキ持場」のうちとしてトマリ、トコタン、サクモヱがみえる。
支配所持名前帳(元禄一三年)に「島古満幾鳥屋一ケ所」とあり、並川宇左衛門の支配であった。「蝦夷商賈聞書」では「御預リ並川忠右衛門殿、場所大ニ而出物不足」で、「荷積高ハ鯡数子七百石ハカリ之船壱艘、運上金下直、壱ケ年ニ壱度通江申候、湊も御座候ヘ共悪シ」という。一七五八年(宝暦八年)当時は近藤権九の支配で、スッキ場所と領境をめぐって相論、双方から提訴が行われ、論地のトコマヘ・
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報