ツキノエ

改訂新版 世界大百科事典 「ツキノエ」の意味・わかりやすい解説

ツキノエ

国後島トウブイのアイヌ首長。生没年不詳。もとは厚岸の首長であったが,1770年(明和7)ロシア人がウルップ島に到来してアイヌに乱暴を働いた際,厚岸をイコトイに譲って国後に赴いたとする伝えもある。翌年アイヌたちのロシア人襲撃に加わったが,73年(安永2)には和を結びロシア人との交易を行った。74年国後場所請負人飛驒屋久兵衛派遣の交易船を襲ったため76年から81年(天明1)まで松前藩は交易を中止したが,のち藩側と和睦した。89年(寛政1)の国後・目梨地方のアイヌ蜂起には息子が蜂起に加わっていたが,厚岸の首長イコトイ,ノッカマップの首長ションコとともに松前藩側に立ってアイヌに降伏をすすめ,蜂起参加者を取り調べたうえで藩に渡した。この功によって松前藩より国後の惣乙名に任ぜられている。
執筆者:

出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「ツキノエ」の解説

ツキノエ

?-? 18世紀後半のアイヌの首長。
東蝦夷地(えぞち)国後(くなしり)が本拠。1774年(安永3)飛騨屋(ひだや)久兵衛の船を襲撃し松前藩との交易を一時停止させるが,のち藩と和睦。1789年(寛政元)の国後・目梨(めなし)のアイヌ蜂起ではアイヌを説得して事態をおさめ,その功を藩に賞された。

出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例

世界大百科事典(旧版)内のツキノエの言及

【国後・目梨の戦】より

…しかも18世紀以降ロシア人が千島列島を南下しはじめるや,この地域のアイヌ民族はロシア人とも交易するようになったのである。飛驒屋が国後商場の経営を請け負った後も,国後のアイヌ首長ツキノエが交易船を妨害したため,81年まで交易船を派遣できなかったという事実は,この地域のアイヌ民族の自立的な動きと深くかかわるものであった。加えて86年(天明6)幕府が飛驒屋の3商場請負を1年間中止させ,直接経営としたため,飛驒屋の損害は膨大なものとなった。…

※「ツキノエ」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

今日のキーワード

焦土作戦

敵対的買収に対する防衛策のひとつ。買収対象となった企業が、重要な資産や事業部門を手放し、買収者にとっての成果を事前に減じ、魅力を失わせる方法である。侵入してきた外敵に武器や食料を与えないように、事前に...

焦土作戦の用語解説を読む

コトバンク for iPhone

コトバンク for Android