ウルップ島(読み)ウルップトウ

日本歴史地名大系 「ウルップ島」の解説

ウルップ島
うるつぷとう

南千島北端の択捉えとろふ島と幅約四〇キロのエトロフ水道(フリース海峡)を隔てて北東方に隣り合う島。中部千島のなかでは最大の島で、長さ約一二〇キロ・最大幅約二〇キロの細長い火山島である。多数の高山が連なる険しい地形で海岸には断崖が多く、小船舶の仮泊に適した入江としては西岸トコタン(床丹)湾や東岸のアリュートカ湾(小舟湾)などがあるばかりである。この島より以北の植生亜寒帯様相を呈しているので、エトロフ水道は植物地理学上「宮部ライン」とよばれている。

この島を訪れた最初の記録は一六四三年(寛永二〇年)のオランダ人フリース一行の航海である。彼らはエトロフ水道を通過するときこの島の南西端の岬に上陸し、この島をコンパニースランドCompagnies Landと名付けている(フリース船隊航海記)

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改訂新版 世界大百科事典 「ウルップ島」の意味・わかりやすい解説

ウルップ[島]
Urup

千島(クリル)列島南部にあるロシア統治下の火山島。日本では得撫,また古くは得生の字をあてたり,ラッコ島とも呼ばれた。択捉(えとろふ)島の北東に位置し,長さ117km,幅20km,面積約1420km2。島の北寄りに美しい円錐火山である雪光山(1257m)がそびえて船舶のよい目標となる。海岸は海食崖と海食台地が発達し,沿岸浅海には海藻がとりわけ多い。北西岸のナターリー(床丹)湾がほとんど唯一の錨地である。1786年(天明6)に最上徳内が探検,1875年(明治8)にはアレウト人32人の居住が記録されている。78年ころには樺太場所から移住した松前商人栖原(すはら)氏が漁場を経営した。のち根室支庁得撫郡に属したが,村を置かず,1945年まで農林省の管轄下に置かれていた。第2次大戦後日本の領有から離れた。本島択捉島の植物相には際だった相違が見られ,両島の間に宮部線が設定されている。
千島列島
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山川 日本史小辞典 改訂新版 「ウルップ島」の解説

ウルップ島
ウルップとう

千島列島の中央部の島。漢字表記は得撫島。17世紀にオランダ船が発見,18世紀後半にロシア人により開発される。1854年(安政元)の日露通好条約は同島とその南に位置する択捉(えとろふ)島との間に国境を定めたが,75年(明治8)の樺太・千島交換条約で日本はサハリン(樺太)南半を放棄し,ウルップ島以北シュムシュ島までの千島列島18島を獲得した。第2次大戦後の1945年8月ソ連軍が占拠。現在ロシア連邦のサハリン州に属する。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「ウルップ島」の意味・わかりやすい解説

ウルップ島
ウルップとう
ostrov Urup

千島列島中南部の島。ロシア,サハリン州に属する。択捉島の北に位置し,面積 1430km2。細長い火山島で,北部にコロコル山 (1328m) ,南部にブイソカヤ山 (1426m) がそびえる。旧日本領で,第2次世界大戦前の日本領時代には北洋漁業基地の一つであった。日本名得撫 (うるっぷ) 島。オットセイの繁殖地。択捉島との間に植物区系の境界線である宮部線が通る。

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