アイヌ(英語表記)Ainu
Aynu

デジタル大辞泉 「アイヌ」の意味・読み・例文・類語

アイヌ

《アイヌ語で人の意》北海道を中心に日本列島北部、樺太からふと(サハリン)・千島(クリル)列島などに居住する民族。伝統的に狩猟・漁労・採集を主とする自然と一体の生活様式をもち、吟誦形式の叙事詩ユーカラが伝わる。室町時代から和人との交渉が生じ、江戸時代には松前藩や商人などに従属を余儀なくされ、明治以後は、同化政策のもとで言語など固有の慣習や文化の多くが破壊され、人口も激減した。
[補説]平成9年(1997)北海道旧土人保護法を廃止してアイヌ文化振興法が成立。平成19年(2007)先住民族の権利に関する国際連合宣言を採択。平成20年(2008)6月、政府にアイヌの人々を先住民族として認めることを求めた国会決議が衆参両院で採択される。

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精選版 日本国語大辞典 「アイヌ」の意味・読み・例文・類語

アイヌ

  1. 〘 名詞 〙 ( [アイヌ語] aynu 「人」の意 ) 昔、北海道・樺太(サハリン)・千島列島(クリール)・カムチャツカ半島・本州の北端部に広く先住していた民族。現在は主として樺太・北海道に居住する。人種の系統は諸説があり、明らかでない。古くはコタンと呼ばれる集落を作り、狩猟や漁を基本とする生活を営んでいた。近世以降は松前藩の支配と搾取を受け、明治以降は政府の同化政策によって混血がすすみ、固有の風俗・習慣や伝統の文化の多くが失われ、人口も激減した。アイノ。

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改訂新版 世界大百科事典 「アイヌ」の意味・わかりやすい解説

アイヌ
Ainu
Aynu

日本の先住民族。アイヌとは,アイヌ語で神に対する人間・男を意味し,男性への敬称にもなる言葉である。16世紀末に来日したポルトガル人宣教師の記録をはじめ,その後の日本人による文献にも,自らをアイノと呼び,居住地をアイノモショリ(アイヌモシリ)といっていたことが書かれているが,民族名称になったといえるのは近代以降のことである。しかし,近現代の日本社会においてはアイヌと呼ばれて差別を受ける状況があったため,アイヌという名称を避け,自称他称ともにウタリ(同胞の意)という名称が使われることがあった。現在ではアイヌという名称に誇りがもたれるようになってきている。

 古代・中世にエミシ,エビス,エゾ(漢字では毛人,蝦夷,夷,狄など)と呼ばれていた人々は北日本の住民であってもアイヌであるとはかならずしもいえないが,江戸時代にエゾと呼ばれた蝦夷地の住民はアイヌであって,その存在はYezoなどとして西欧にも知られていた。居住地は北海道,南サハリン,クリル列島に広がっており,北海道アイヌ,樺太アイヌ(サハリンアイヌ),千島アイヌ(クリルアイヌ)と呼ばれ,言語や文化の違いがあったが,樺太アイヌと千島アイヌは近代の日露関係と第2次世界大戦の結果,北海道に移住を余儀なくされた。そのため現在では,樺太や千島のアイヌのことが忘れられがちである。母語はアイヌ語であったが,19世紀後半からの同化政策により,急激に日本語を母語とするようになった。北海道に2万3767人が居住し(1999年北海道〈北海道ウタリ生活実態調査報告書〉),東京都に推定2700人(1989年東京都〈東京在住ウタリ実態調査報告書〉)が居住するとされている。日本に統合されてから3,4世代経過した現在,誰がアイヌであるかを定義することは困難となっているが,この数字に含まれる人々の周辺にも,アイヌとしてのアイデンティティをもつ人々が存在している。なお,本項においてアイヌ語の片仮名表記は,北海道ウタリ協会《アコ イタ》(1994)に準拠した。
執筆者:

古来アイヌの起源に関しては,コーカソイド説,モンゴロイド説,オーストラリア先住民説,さらには人種の孤島説などさまざまな仮説が提唱されてきた。しかし1960年代になると,まず骨格の詳細な比較研究によりオーストラリア先住民説が否定され,次いで国際生物学事業の一環として行われたアイヌの総合的調査では,歯の形態的特徴や血清タンパク質などの遺伝標識の分析結果からアイヌがコーカソイドであることも否定された。この調査に携わった研究者たちは,本州・四国・九州の日本人と同様,アイヌもモンゴロイドの一員であると結論したが,彫りの深い顔立ち,豊富な体毛,四肢骨のプロポーションなどは近隣のモンゴロイド集団とは大きく異なるので,現代のモンゴロイド成立以前のモンゴロイド,すなわち原モンゴロイドなる仮想集団を想定し,それにアイヌを帰属させた。しかし一方,頭骨の形態小変異などに基づく分析では,アイヌは縄文人とともに世界のいかなる現生人類集団からもかけ離れてしまう。これは彼らがホモ・サピエンスの初源的形態に加えてかなり特殊化した形質をも保持しているからにほかならず,したがってアイヌを特定の人種集団に分類する必要はないと考える研究者もいる。

 国内に目を向けてみると,アイヌの骨格と著しい類似を示すのは日本各地から発掘される縄文人骨をおいてほかはない。このことはすでに明治時代から知られており,1960年代から盛んになったアイヌと縄文人の比較研究から,彼らが子孫祖先関係にあることがしだいに明らかにされてきた。最近では,北海道の続縄文時代人骨や擦文(さつもん)時代人骨の形態学的研究も進み,北海道のアイヌが縄文人や続縄文人を母体にして成立した人たちであることは,今や学界の定説となっている。

 しかし定説といってもそれは,これまでに蓄積されてきたデータを最も合理的に説明する仮説にすぎず,必ずしも真実を反映しているわけではない。最近では,古人骨からDNAを抽出する技術など新しい研究方法が開発され,たとえば,北海道のオホーツク海沿岸を中心に栄えたオホーツク文化を担った人々とアイヌの祖先と考えられる擦文時代人や続縄文時代人が頻繁に遺伝子の交流を行っていた可能性を示す証拠が蓄積され始めている。また北海道の縄文人と続縄文人のミトコンドリアDNAのタイプは必ずしも北海道のアイヌのそれと一致するわけではないという,今日の定説とは一見相容れない研究結果も公表されている。

 おそらく近い将来,縄文人→続縄文人→擦文人→北海道アイヌといった単純な図式では説明しきれない幾多のデータが集積してくると思われる。したがって,アイヌや縄文人骨についての総合的な研究は,今後も継続して行っていかなければならないであろう。
執筆者:

北海道,樺太,千島のアイヌは,それぞれの地域のなかでも言語・文化に地方差があり,歴史の上でも地域集団ごとに独自性がある。ここでは北海道アイヌの歴史について概説し,樺太アイヌ,千島アイヌについてつけ加える。なお,本州北端の津軽には18世紀半ばに230人余のエゾが居住し,津軽藩の政治支配を受けていたが,1756年(宝暦6)ころにエゾとして処遇する政策は廃止された。また下北半島にも居住していたが,彼らと北海道アイヌとの歴史的関係は不明である。アイヌ史の時代区分はいくつかの試みがあるが,定説はない。

紀元前後,本州では弥生文化の時代に,稲作が不可能な北方地域では本州文化の影響を受けながら縄文文化を受け継いで続縄文文化が始まった。6~8世紀に続縄文文化は擦文文化に移行した。擦文時代には農耕を盛んに行っており,交易も盛んであった。交易によって得た鉄製品が普及するのがこの時期であるといわれている。方形の竪穴住居にはカマドを備えていた。13~15世紀ころ,現在知られているアイヌ伝統文化の祖形が見られるようになり,このころからの時期をアイヌ文化期と呼んでいる。平地式の住居に炉があり,自製の土器の代りに本州からの移入品である漆器が出土する。擦文時代の終末期に内耳土鍋(炉鉤にかけた鍋の弦が燃えないように,鍋の内側に弦をとりつける)が作られるようになったが,15世紀には鉄製の内耳鍋が普及した。しかし,さまざまな木製品の製作や豊かな文様をつける文化は,縄文時代以降続いたといえる。

 擦文文化と同時期の7,8世紀に北海道のオホーツク海沿岸,サハリン島,クリル列島にはオホーツク式土器をもつ海洋民の文化が見られた。このオホーツク文化にはクマの崇拝など,擦文文化にはないアイヌ文化と共通する要素があったが,10~12世紀ころに擦文文化に吸収されたとみなされている。アイヌ文化期はクマやシカをはじめとする狩猟やサケの漁労に特化した生業を選んだ時期といえるようだが,道東はオホーツク文化の影響が残り,道南は本州の影響を強く受けていて,地域差のある多様なアイヌ文化が営まれた。

 13世紀以降,和人(アイヌに対する,日本人の民族構成として多数派である人々の自称。アイヌからの呼称はシサムなど)の文献に東北地方北部の情報が書かれるようになると,アイヌの姿が現れてくる。14世紀半ばの《諏訪大明神絵詞》には,エゾにヒノモト,唐子,渡党の3集団があると書かれている。松前藩の正史《新羅之記録》によれば,15世紀半ばに渡島(おしま)半島で首長コシャマインがアイヌ集団を率いて和人と戦い(コシャマインの戦),その後も蜂起が続いた。しかし,15世紀後半に構築された松前藩主の祖蠣崎(かきざき)氏の勝山館跡(現,上ノ国町)には,そのころアイヌと和人が共住していた痕跡がある。《新羅之記録》によれば,蠣崎氏は諸国の商船に対してアイヌ交易を統制しようとしたが,アイヌ側の交易活動は盛んで,自由に行われていたらしい。

17世紀初めに松前藩が成立すると,分割された〈場所〉ごとにその地のアイヌが〈場所〉の知行主と交易を行うこととされ(商場知行制),交易相手を自由に選ぶことはできなくなった。しかし獣皮やサケ,海産物といった産物は定期的に交易され,対価の和産品である鉄製品や漆器,米,衣類などが生活文化に欠かせなくなって,ますます交易品の生産が重要な生業となった。小地域の首長層は交易によって入手した品をアイヌ社会の富として所有した。砦としてチャシが築造されるようになるが,その背景には富をめぐる地域集団間の紛争があったと考えられる。1669年(寛文9),現在の静内に拠点となるチャシを築いた首長シャクシャインが近隣の集団との抗争を対松前藩に転換し,大規模な戦いを起こした(シャクシャインの戦)。蜂起鎮圧後,首長層は藩主への謁見を強制され,乙名(おとな)・小使(こづかい)・土産取(みやげとり)などの役蝦夷に任命されて和人権力との接点になった。

 17世紀末から18世紀初めにかけて〈場所〉の経営を商人が請け負う体制になり(場所請負制),請負商人による漁場開発が進むにつれ,アイヌは交易相手としてだけではなく,漁場の労働者として編成されるようになった。労働力の対価の不足や漁場への拘束などにより,和人支配による圧迫感が強まっていった。1789年(寛政1),道東のクナシリ・メナシ地方の若手アイヌ130人が蜂起したが(クナシリ・メナシの戦),松前藩との関係を重視する親の世代の首長たちに説得され降伏した。チャシの築造はこの時期が最後となった。このころまでに,いわゆる伝統的アイヌ文化はニブヒなど北方少数民族と共通する文化や和人文化を融合させて,熊送り(イオマンテ)や種々の儀礼の様式を完成させ,樹皮衣であるアットゥアツシ)やそれに施す切伏せ,刺繡など独特の服飾工芸を発展させ,口承文芸を育んでいた。

 19世紀前半,アイヌ交易は地域により順次幕府の直轄となったが,まもなく松前藩の支配に戻された。アイヌは蝦夷地の交通や運輸,開発にかかわる種々の雑役に従事し,漁場稼ぎの給金は出稼ぎ和人の4分の1程度(女性や子供はさらに少ない)で,働き手が居住地を離れた遠くの漁場に強制的に連れて行かれることもあったので,留守家族の生活は困窮した。いっぽう,地域によっては漁場雇用に加えて,自家用食料の魚を獲ったり自分の舟で獲った魚を交易する行為(自分稼)も行われた。アイヌの地域集団による川筋の漁猟権は〈場所〉での生産に組み入れられたため,アイヌどうしで漁業権をめぐる争いも起きた。これらは当時のアイヌ社会が自律性を保持していたことを示すと考えられている。アイヌは幕府の和風化政策にも強く抵抗していた。しかし,日本海側の地域はサケやニシン漁のため和人の進出が激しく,本州以南で流行していた痘瘡などが持ち込まれて伝染し,人口は激減した。

1869年(明治2)に蝦夷地が北海道と命名されて日本に組み込まれると,まず,死者が出た家の焼却,女子の入墨,男子の耳輪など〈日本人〉とは異なる民族的慣習を禁止され,やがて戸籍作成のために名字が付けられた。その後,イオマンテの禁止や狩猟規則の制定,河川のサケ漁禁止など,アイヌの生業や文化に対する公的な締付けが次々と行われた。北海道のアイヌ人口は幕末以来約1万7000人前後で推移し,和人移住者の激増(1898年の全道人口85万人余)はアイヌを追い詰めていった。居住地に和人によって町が形成されると強制的に移住させられたり,殖民地区画設定の影響で広範囲の地域のアイヌが各地に決められた保護地に集住させられることも起きた。日本人への同化を強制されるいっぽうで,公的に〈旧土人〉として差別され,先住権は無視され土地私有の権利もなかった。

 99年,北海道旧土人保護法が制定されたが,給与地での農業を強いるものであり,保護という名目で次々と経済上の管理・監督,日常生活の監視が行われた。社会的な地位を向上させるために,おとなは子供たちにアイヌ語やアイヌの慣習を教えることをあきらめ,和人に劣らない教育を求めた。農業に成功した人もあったが,北海道旧土人保護法では大部分が救済にはならず,和人社会の圧迫のなかで生活に困窮し誇りを失い,健康を害する人も少なくなかった。各地で生活改善を強く望んだ人々は制度的な差別を廃させようとアイヌの組織化を模索し,1931年,札幌で全道アイヌ青年大会を開催,アイヌ政策改善の要望書をまとめて道庁に陳情した。聖公会宣教師J.バチェラーの活動でキリスト教信者となった青年たちは雑誌《ウタリグス》《ウタリ之友》を発行し,1920,30年代の言論活動を行った。知里幸恵,バチェラー八重子,違星北斗(いぼしほくと)らの文学作品が生まれたのはこのころである。

敗戦直後の1946年に社団法人北海道アイヌ協会を設立,60年に再建総会が開かれ,翌年北海道ウタリ協会と改称して現在に至っている。人々は,よりよい就労や進学をめざしながら,70年代には,身辺から消えかかっていたアイヌ伝統文化の継承を通じてアイヌ民族としての自己を認識し,日本のなかの少数民族としての存在をアピールするようになっていった。80年代以降は先住民としての国際的な活動とともに新法制定運動を行い,97年〈アイヌ文化振興法〉が公布,施行され,北海道旧土人保護法と旭川市旧土人保護地処分法は廃止された。新法成立に先立ち,2人のアイヌが国と争っていた二風谷(にぶたに)ダム裁判の判決が出され,日本政府が批准した国連の国際人権規約B規約によってアイヌ民族は自己の文化を享有する権利が保障されているとされた。さらに判決文はアイヌが〈先住民族〉に該当するとしたが,先住権(土地,資源及び政治等についての自決権)については保留している。

サハリン(樺太)のアイヌは,18世紀末から19世紀にかけてはアムール川下流の清朝の仮役所に朝貢品としてクロテンの毛皮を持ってゆき,その地で他の民族と交易したり,サハリンに来たウリチ人やニブヒ人と交易を行っていた。大陸から交易によってもたらされたものには,蝦夷錦と呼ばれた中国製の絹織物や山丹服と呼ばれた清朝の官服,青玉というガラス玉などがある。この山丹交易で樺太アイヌは負債がかさみ,そのためアムール川下流地方に連行されることがあった。江戸幕府はサハリンを北蝦夷地として直轄地にすると,負債を清算し交易を管理したが,山丹交易は幕末に終焉した。場所請負制下,漁業に従事していた二千数百人のうちアニワ湾一帯の108戸841人は,1875年の樺太・千島交換条約締結後まもなく,北海道の対雁(ついしかり)(現,江別市)に移住させられた。〈保護〉の名目下,苦しい生活のなか努力を重ねたにもかかわらず,コレラや天然痘の流行時に約400人が死亡した結果,1906年,日本領となった南樺太に395人が帰った。第2次世界大戦後にはほぼ全員が北海道に引き揚げたが,少数の人々の消息が知られるだけである。近年はこの人々が伝えた弦楽器トンコリがアイヌの芸能として広まっている。

 クリル列島のアイヌ(千島アイヌ)はウルップ島以北の北千島の人々をさし,海獣狩猟を生業としたが,文化や歴史についてはわからないことが多い。ロシア正教を信仰し,服装や名前もロシア化していた人々は,樺太・千島交換条約締結によって,一部はロシア人となり,残りの北千島アイヌ97人が色丹島に移住させられた。第2次大戦終了間近に北海道に渡ったが,言葉や文化を継承している人は知られていない。
蝦夷 →蝦夷地
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アイヌの世界観といっても一様ではない。以下に述べることは主として19世紀後半から20世紀の調査に基づいた伝統的なアイヌの世界観であり,現代のアイヌの世界観はこれとはかなり異なることもある。

世界は,いくつかの領域に分かれて把握される。人間界と,それより上方に精霊たちの暮らす神界があるとされることが多い。神界には複数の層があるとされ,最上層に,天界を統べる最高神が存在する。他界も複数の層に分かれ,下層のほうに罪を犯した者の霊魂が向かうという。方位は東と西の区分がよく言及される。東方に再生のイメージ,西方に滅びのイメージを重ねていることもある。方位とは別に,相対的な空間の区分として上と下(奥と手前)の対立がある。河川流域でいえば,水源の方向が上手,河口の方向が下手で,上手の方角が神聖とされることが多い。

霊魂は,動植物ばかりでなく,山,川,天体などの無生物,火や風,病気などの自然現象にも存在すると考えられている。さらに,船や道具などの人間が作ったものにも霊魂が宿っているという。こうした霊的存在を仮に精霊と呼ぶ。精霊は,創世神が地上と同時に創造した,あるいは神界から降りたともいわれる。

 精霊は,必要に応じて人間界と神界を行き来する。精霊が人間界に降りる際,それぞれの性質に応じた衣をまとって(動植物などに姿を変えて)顕現する。精霊は,もってきた衣(動物であれば皮や肉,植物であれば果実,樹皮,木質など)を脱ぐことで,再び霊的な存在になり,神界へ戻る。精霊が衣から抜け出ることは,人間の目には肉体の死として映る。しかし,精霊そのものは滅びることなく神界と人間界を循環する。

 精霊は,さまざまな性質をもっている。それらのうち霊力の強いもの,人間の暮しにおいてとくに重要な働きをするものをとくに敬ってカムイと呼ぶが,何をカムイとするかは個人の価値観によっても異なる。シカやサケは重要な食料であっても各個体への拝礼はごく簡単である。これらの精霊は,ユランケカムイ(シカを降ろす神),チェランケカムイ(魚を降ろす神)などと呼ばれる神に管理されており,こうした神がシカやサケの入った袋を人間界に降ろすという。クマやキツネ,タヌキなどの陸獣,あるいはシャチ,オットセイ,アザラシなどの海獣は,それぞれの個体をカムイと呼ぶが,種全体を統括するカムイが存在することもある。そのような精霊は,多くの場合,年老いた,あるいは高位にある個体であり,彼らの眷族(つまり個々のクマなど)の挙動や人間界と神界の行き来を管理している。鳥類のなかでは,シマフクロウやワシ,タカなど大型の猛禽が高位の存在とされるが,セキレイやミソサザイなどの小鳥類のなかにも,丁重に扱われる鳥がいる。シャチやサメなどの海生動物を海の神と呼ぶ。ほかに,アザラシやトド,魚類ではカジキマグロが重視される。クジラは多くの恵みをもたらすが,シャチによって人間のもとに送り届けられるものとみなされており,受動的な存在である。

 動物を人間が捕らえることは,その霊魂を賓客として招く行為として考えられ,動物を解体する作業は,精霊の荷と衣装を解く行為である。このようにして縁を持った精霊に,儀礼にかなった手順で土産を持たせ,神界へと送り出す神事を霊送りと呼ぶ。霊送りの中核をなすのは,精霊の座している頭骨を,もろもろの供物とともに祭壇に納めて旅立たせるまでの過程である。この神事によって,精霊が神界で復活を遂げ,再び人間界を訪れると考えられている。霊送り後に残った皮や肉,骨は精霊の置き土産であり,人間への恵みとなる。

 霊送りは,狩猟時に行うばかりでなく,クマなどの動物を一定期間飼養してから行うこともある。飼った仔グマの霊送りは,飼育によってクマの胆囊や肉,毛皮といった資源を増大させることに主眼があるとする見解もある。しかし,カラスやカケスなどのような食糧とも交易資源ともなりがたい生物までを大切に飼養して送ることを考えれば,霊送りの目的は,神事を通して精霊たちとの間に深い関係を結ぶことが主眼であると考えるべきだろう。一部の動物では,頭骨を守護神として屋内に祭ることがある。この場合は霊送りの手順をふまず,それらの精霊は,頭骨に宿り続けていると考えられる。これらの神も,ながくとどめておくと疲弊するとされ,ころあいを見て役を解き,霊送りをする。

 山林の立ち木は,それぞれカムイと呼ばれる。北海道の西部では,植物全体を統率する神が祭られる。動物神と比べ,種を越えてまとめられている点が特徴的である。北海道東部では,このような神はあまりなく,樺太・千島に関しては不明な点が多い。伐採や樹皮採取の前に祈りを捧げるが,樹木の霊魂はさまざまな器具に加工された後も宿りつづけているとされ,それらの器物が使用に耐えなくなったときに,霊送りを行う。草花の精霊では,オオウバユリトリカブトギョウジャニンニクなどが重視されており,また草花の由来についての伝承も多いが,それらを統括する精霊についての伝承は見られない。また,一般に霊送りも行わない。穀物は,糠をまとめて祭壇に納める,あるいはエゾノリュウキンカの採取時に根の一部を埋め戻す,オオウバユリの採取時に切り落とした根や葉を撒いて再生を願うといった事例がある。

 自然神の中では火や水の精霊が重視されている。日神を祭祀の対象にする地域もある。火神の役割は,人間を暖め食物を加熱するほか,家の中全般を見守ることである。また,もろもろの神々と人間の仲立ちをし,人間が神々に祈願する際には言づてを添え,神々が祈願を聞き入れるようにいろいろと取り計らう。水にまつわる精霊は数多く,湖沼や河川,湧き水には,そこに住まう精霊がいる。また,一つの川筋の中にも,難所などにはそれぞれカムイが座していると考えられ,その下にさらに無数の眷族がいて,水面に波紋をなしているのだという。海の場合,河川と違って海水そのものに神性を認めることはない。山岳にも神性を認めていることがある。道南の八雲では山の精霊を女性とみなし,山全体がこの神の着物の裾にあたるという。道東では,山同士が争ったという伝承が多い。疱瘡や天然痘,インフルエンザなどの病気も,病気を広める精霊によって流行するとされる。

 なお,家系によっては,先祖が何らかの精霊と縁を持っていることもあり,その精霊は,その家系にとっての特別な祭祀神となる。人間が生まれると何らかの精霊が付き添って一生見守るといい,どの精霊が憑いたかによって,その人の性格やクセにも影響するという。

人間は,精霊が創造し,体を土で,髪をハコベ,背骨をヤナギで作ったという。シラカバとハルニレが夫婦になって,間に人間が生まれたという伝承もある。人間の霊魂も,精霊と同様に消滅することなく循環する。人間界での死を経た霊魂は,他界で生前と同じように暮らし,やがて一定の期間を経て人間界へ生まれ変わるという。葬儀の際は,他界での暮しに備えて生活用具一式を持たせる。釧路,北見地方では家長が死亡すると,家や仮小屋に火をつけて道具類と一緒に燃やす。他の地方では,とくに女性が死亡した場合に燃やすことが多い。こうすることで,家が死後の世界へ届くという。先祖供養も定期的に行われ,他界に暮らす自分の先祖や亡くなった家族に対して,食べ物や酒,イナウ(木幣)を送る。

 人間と精霊は別々に循環するが,精霊は気に入った人間を仲間に引き入れることがある。たとえば千歳では,溺死者は川の神の眷族に,クマに殺されたものはクマの眷族になる。こうした場合,その霊魂は,数年の間,あるいは永遠に人間の霊魂の循環から外れることになる。

精霊に対し,神事を行って感謝の祈りと品物を贈ることが人間の義務とされ,神事を通じて精霊たちに援助を求めることもある。神事は,家庭内で行うものから近隣の人々が集う大規模なものまである。大規模な神事は,年に数回,魚類が川を溯上する時期の前後やヒシなどの植物の収穫期など生業の節目に行われ,このほか前述した霊送り神事が随時行われる。神事の骨子は,祈りと供物を捧げることである。最も簡素な祈りは何も準備せずに行うが,何か食べ物を捧げるのが普通で,規模が大きくなれば特別な衣装を着,模様入りのござで室内を飾り,供物も宝器類に盛る。供物はイナウと神酒,タバコなどが一般的で,そのほか人間が好むもの,珍しいものが選ばれる。反対に,人間が嫌うものは精霊も嫌うと考えられ,病気や事故を起こす好ましくない精霊には,悪臭のあるもの,トゲのあるもの,粗末な食物を捧げる。

 神事に専従する神職のようなものはとくになく,男性であれば誰でも神事を行う。女性は,男性に比べ制限されているものの,やはり神事を行う。また,通常の神事とは別に,トゥスと呼ばれる巫術を用いて占い,病気治療などを行う霊能者が存在する。
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伝統的なアイヌ社会において,コタンと呼ばれる集落は,飲料水が容易に得やすく,水害に遭わないような河川沿いや海岸線の河口付近に分布した。これは河川がサケやマスなどの食料資源をもたらすとともに,丸木舟で各コタン間を結ぶ交通路としての役割をも担っていたことによる。一つのコタンは主に数戸から十数戸で構成されるが,一戸でもコタンであり,江戸期の場所請負制下においては,強制移住のために数十戸にまでなる場合もあった。

 一つのコタンは主に血縁集団で成り立ち,コタンコと呼ばれる村長を中心に生活共同体を形成していた。このコタンコはコタンを支配するのではなく,統率するいわゆる代表者で,コタン内部の調整や他のコタンとの渉外や紛争時の交渉などの役割があった。コタン内の血縁による系譜は,男性と女性の系統がそれぞれ存在し,男性はイトパと呼ばれる祖先印を同じくする父方の系統を受け継ぎ,女性はポンクッやウと呼ばれる女性用守り紐の形態や付け方を同じくする母方の系統を受け継いだ。この血縁系統により,男女ともさまざまな儀式や儀礼において,それを司り,関係できる人々は主催者と同一の血縁関係に限定された。

 コタンを構成する人々は,漁猟や植物採集,家の建築,葬儀など日常生活全般において相互扶助の関係にあり,独居老人や孤児についてもコタン内で生活の面倒がみられた。また,コタン内には,病気や変事などの際に占術を行い治療や助言をする,トゥスクと呼ばれる人がいた。トゥスクは占術の専業者ではなく,個人的な依頼に応じて占術を行った。このコタンの構成者が生業である漁猟や採集を行う場はイオと呼ばれ,複数あるいは単一コタンごとに占有され,さらに家ごとに特定の領域が決められていた。また,これらのコタンは,言葉や文化的な特徴から,いくつかの文化圏が形成されていたことが知られている。

子供が生まれるとすぐには名前を付けず,個性が出てきたころを見計らい,名前が付けられた。成長に伴い,男児は漁猟や儀式などについて経験を積むなかで,しだいに成人として認められるようになる。女児は刺繡や料理など日常生活に必要な技術を学びながら,ある年齢に達するとポンクッを付け,口の周囲や腕などに入墨を入れた。これらにより,成人女性として結婚や儀式への参加が認められた。

 結婚は,当人同士による場合や親が許嫁を決める場合などさまざまであるが,近親間やポンクッによる母系集団に関わる婚姻規制がみられた。また,結婚形態には嫁入婚や婿入婚などがあった。結婚後,夫婦は親から独立し,別にチセを建てて暮らすか,あるいは親が別に家を建てて移り住んだ。このように一つのチセに暮らすのは夫婦と未婚の子供の一世帯で,いわゆる核家族が一般的であった。

 死は肉体から魂が離れることであり,その魂は死者の国へと向かう。通常の死者の国はこの世と同じような世界であると考えられており,魂はそこで暮らすことになる。しかし,悪さをした者はテイネポナシという暗い湿地のような場所へ行き,また,カムイに魅入られた者はカムイの国へ連れて行かれると考えられていた。

 葬儀は古老が中心となって営まれ,死装束や墓標などが用意された。死者の魂は因果を含めてあの世へ送られ,遺体は副葬品とともにコタンからやや離れた墓地へと埋葬された。また,葬儀に伴い,死者に家を持たせるため,住んでいた家,あるいは仮小屋を建ててこれを焼却するカソマンテと呼ばれる儀礼が行われた。葬儀後に墓参をすることはないが,家でシヌラッパやイチャパなどと呼ばれる祖霊祭が営まれた。

(1)春 春になると川での漁を始め,芽吹き始めた多くの植物を採集し,保存する作業が始まった。この時期,コタンの周囲ではギョウジャニンニク,ニリンソウ,ユキザサ,フキ,ヒメザゼンソウ,アマニュウなどの葉茎,エゾエンゴサク,エゾノリュウキンカ,カタクリなどの根茎など,さまざまな植物が採集された。川では春先にイトウの漁が行われ,マス類やウグイも捕獲した。また,十勝川では晩春ころチョウザメの漁も行われていた。この時期は,アイヌの伝統的な衣服,アットゥアツシ)の材料となるオヒョウの靱皮や紐,編み袋などの材料となるシナノキの靱皮を採集する季節でもあった。採集した樹皮は,川や沼などに浸けて内皮を薄く剝ぎ分けた後,干して細く裂いて糸を作った。このほか,簡単な農業も各地で行われ,コタン近くに畑を作ってヒエやアワ,イナキビなどの播種が行われた。

(2)夏 川では丸木舟を用いた網漁や〈どう〉による漁,杭を打ち込んで川をせき止め,溜まった魚を網やマレ(突き鉤)と呼ばれる漁具で捕獲する〈とめ漁〉などさまざまな漁が行われ,マスやカジカ,ウグイなどを捕獲した。こうして捕獲した魚は,焼干しにしたり,家の炉の上で干して薫製にしたりして保存した。海ではカレイやカジカなどの小型魚をはじめ,道南の海岸地域などではイタオマチ(外洋舟)で沖へ出てキテ(回転離頭銛)を用いたメカジキやマンボウなどの大型魚,それにクジラの漁も行われていた。また,海藻や貝類などの採集も行われた。初夏,オオウバユリの花が咲くころ,その鱗茎の採集時期になる。オオウバユリの鱗茎は重要な食料資源の一つで,多くの地域で鱗茎からデンプンを採取し,保存食として大量に蓄えた。

(3)秋 秋には各地の河川にサケが遡上する。各コタンではサケの捕獲のため,マレやカンキ(引き鉤)による漁をはじめ,前述の丸木舟による網漁やとめ漁などが行われた。捕獲したサケは身や魚卵を調理して食卓に並べたほか,多くはある程度乾燥させてから炉の上に吊るし,薫製にして保存した。この季節は,コクワ,ブドウ,クリ,クルミ,キハダ,ヒシ,ヤブマメ,イチゴ類などのさまざまな果実類をはじめ,タモギタケやマイタケなどのキノコ類も採集された。これらは,季節の味として調理され食卓に並べられたほか,保存食や薬用として乾燥して蓄えられた。また,ござの材料となるガマやフトイ,葺き材となるアシやススキなどもこの時期に大量に採集し,乾燥して保存した。

(4)冬 獣類や鳥類の捕獲は主に冬に行われた。捕獲対象となったのはエゾシカ,ヒグマ,キタキツネ,エゾタヌキ,エゾユキウサギエゾクロテン,エゾリス,カワウソなどの陸獣類,アザラシやオットセイなどの海獣類,カモ類やカケス,エゾライチョウなどの鳥類である。なかでもエゾシカは数多く捕獲され,毛皮や肉,それに角や骨,腱などさまざまな部位が利用された。このほか,湖沼では氷を割り,氷下の魚を釣る漁も行われていた。陸獣類の猟はトリカブトの毒を用いた弓矢猟をはじめ,仕掛け弓や縄を輪状にして動物の通り道に仕掛ける罠などさまざまな罠による猟も行われた。また,陸獣の中で数多く捕獲されたエゾシカは,崖での追落し猟や逃げ場のないところへの追込み猟も行われていた。晩冬には,冬眠中のヒグマをねらった猟が行われた。仔グマがいた場合はコタンに連れ帰り,1~2年ほど飼育した後,イオマンテ(クマの霊送り)を行った(熊祭)。また,海獣類はキテを使った猟が行われていた。狩猟で得られた肉は食料となるが,毛皮は自己消費のほかに和人などとの交易品として利用され,鉄製品や漆器類,布などと交換された。

 このようなアイヌの伝統的な社会生活は,和人の進出や明治以降の開拓,および同化政策によって衰退し,時代の変遷のなかで姿を消していった。しかし,現在,アイヌ文化の伝承活動が盛んに行われ,振興が図られるようになるなかで,各地で伝統的な生活の知恵を伝えていくための事業も展開されている。
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アイヌの生活を支えてきたものには,身近な素材を使った自製品,交易などによる移入品,移入された素材を使って加工するものなどがある。近隣諸民族との文化的な接触や気候風土の違いなどから地域的にもさまざまな特徴を持つこれらの〈もの〉は,アイヌの文化や歴史を知る上での重要な資料として〈アイヌ資料〉〈アイヌ民具〉〈アイヌ工芸品〉〈アイヌの物質文化〉〈アイヌ文化財〉などと呼ばれる。国内の博物館や資料館,研究機関等に収蔵,展示されている資料数は4万点とも5万点ともいわれているが,所在も含め詳細は明らかではない。一方,国外におけるアイヌ文化財に関しては1980年代から所在調査が行われており,欧米各地の博物館に約1万3500点が所蔵されていることが判明している。その多くは19世紀から20世紀初頭にかけて収集されたもので,収集の経緯や来歴を示すデータが付随しているものが多く,民族学的にも価値の高いものといえる。

 かつて,アイヌの生活におけるものづくりは,誰もが身に付けなければならない必須条件で,彫る,刳る,削るといった木製の道具作りは男性の役割,縫う,織る,編むといった手工芸は女性の役割であった。

アイヌ衣服は,自製衣と外来衣に大別され,素材や文様の有無などによりさまざまに分類される。外来衣には絹の小袖や紋付,陣羽織などや蝦夷錦と呼ばれる清朝時代の役人の官服などがあり,主に男性の晴れ着として用いられたほか,日常着として木綿の古着も着用された。自製するものの多くは日常着として用いられ,獣皮,魚皮,鳥皮,靱皮など身近な素材が使われた。獣皮衣の材としてはシカ,クマ,テン,ウサギ,タヌキ,キツネ,イヌなどの陸獣,アザラシ,オットセイ,トドなどの海獣,魚皮衣はサケやイトウ,マスなどが使われ,形態的には筒袖のワンピース状のものが多く,腰の部分に切替えがあり,裾が大きく広がるように何枚もの皮を接いで仕立てられるものが多い。文様は,皮の部位による色合いの変化を利用したものや,鰭を切除した穴にさまざまな型の端皮を当てるなどして施した。鳥皮衣はエトピリカやウトウ,コアホウドリなどの海鳥の皮を羽が表側になるよう仕立てられるもので,千島アイヌの衣服として知られる。

 靱皮繊維を材とするものに,アットゥ,アと呼ばれる樹皮衣があり,オヒョウやシナノキ,ハルニレなどの内皮が使われる。約400本の経糸を専用の地機(じばた)に掛けて織るもので,形態的には和服に似ているが衽はない。置布や刺繡などで文様が施されたものも多く,晴れ着としたほか,日常着として老若男女を問わず着られ,漁場などでは和人の労働着としても着用された。同じような形態のものにイラクサの草皮を使ったテタラペがあり,樺太アイヌの衣服として知られる。

 木綿衣は移入された木綿の反物や古裂,古着などを素材に作られる。アットゥと同様に形態による男女の別はなく,文様が施されたものは晴れ着,文様のないものは作業着などの日常着とした。木綿衣に施される文様は,刺繡や置布の形や色などにより四つのタイプに大別される。肌着は女性用としてワンピース状のモウがあり,古くは皮製のものが使用されたが,現存するのは木綿製のものである。男性用はテパと呼ばれる褌が使用された。そのほか笠や頭巾,帽子,手袋,手甲,脚絆,鉢巻,帯,前掛け,靴などは作業に応じて着用し,儀礼の際には幣冠や太刀,真鍮製の耳飾りやブレスレット,ガラス玉を連ねた玉飾り,飾り金具付首飾りや帯などを身につけた。

食にかかわる道具類には身近な素材を使って自製するもの,移入された鉄製品や漆器などさまざまなものがある。

 猟には弓矢や銛,槍,習性を考慮して仕掛けられる罠などの道具が使われた。川漁にはマレと呼ばれる突き鉤が使われ,簗,笯なども仕掛けられた。カジキマグロやマンボウ,アザラシ,オットセイなどの海漁には,鉄や鹿角製のキテと呼ばれる独特な銛が使われた。穀類の栽培には踏鋤や鍬が使われ,採集にはピパと呼ばれるカワシンジュガイ製の穂摘具や鎌が使われた。木鉢や木皿などは総称してニマと呼ばれ,筋子を潰す専用の鉢,団子用の粉をこねる大きな鉢,酒を醸す際に粥や麴を混ぜ合わせる大きな船形の鉢などの実用的なものから,料理を盛る木皿や盆には渦巻文や組紐文,ウロコ文や花弁文などの彫り文様が施されたものも多く,古くからアイヌ細工物の一つとして売買されてきたものもある。杓子には木製のもののほかホタテやホッキなどの貝製,樺皮製のものもあり,柄の部分に彫り文様が施されたものも多い。食椀には移入された大小の漆器椀が主として使われたほか,自製する器として把手が付いた舟形のものや深みのある丸形の薄い刳りものの木製椀が使われ,彫り文様が施されるもの,ガラス球が象嵌されるものも多い。箸や匙なども飾りや彫り文様が施されるものなどさまざまな形態のものがある。

 こういった狩猟,漁労,調理,木彫など生活のあらゆる場面で幅広く使われた利器としてマキリがある。マキリは小刀の総称で用途や刃の形状などにより分けて呼ばれることもあるが,全長20~30cm前後で,全体に弧線を描くようにゆるくカーブした形のものが多いほか,鞘尻が扇形に広がったものがあり,柄や鞘の材にはクルミやイタヤカエデ,鹿角などが多く使用され,表面には渦巻文,組紐文線刻,透彫(すかしぼり)などの文様が施される。

アイヌの住まいチセは,地域により違いはあるが,一般に間取りは長方形のワンルーム形式で中央に炉が切られ,多くは家の入口部分に玄関兼物置となる小屋が付けられた。屋根や壁を葺く材には入手しやすいものが使われ,茅,葦,笹,樹皮で葺かれるほか,樺太や千島では冬用の家として地面を掘り下げた半地下式で,屋根に土を被せ使用されるトイチセも見られた。現在では博物館などの屋外展示や,技術継承のために各地に建てられた葦や笹で葺いた復元家屋を見ることができる。博物館での家屋の収蔵資料には模型が多く,柱や桁,梁,屋根組みなどがわかりやすいよう骨組みだけの模型がみられる。内装として,床は土間の上に干し草などを敷き,その上からすだれや,ガマやスゲなどを素材として編まれたござが敷かれるほか,冬には毛皮も利用された。寝床として壁際に少し高いベッド状の台を設けることもあった。内壁にも床と同様にすだれやござが張られ,とくに上座や漆器などの宝物置場の壁にはキナ,チタペなどと呼ばれる文様入りのござが張られることもあった。炉には炉棚が設けられて食材を乾燥させる場としても使われ,調理の際には高さを調節できる自在鉤が掛けられる。炉辺の道具としては火箸や灰をならす炉せん,灯明としてホタテガイの火皿を用いた灯明台も使われた。家の周辺には高床式の食料庫,祭壇,クマ檻,便所などが設けられた。

儀礼に使われる祭具として,ヤナギやミズキを材としてマキリをもって削りだされるイナウと呼ばれる木幣がある。削りだされる形状はさまざまで,神への捧げものとしたり,悪神を祓う際などに使用される。イナウと同様に祭具として欠くことのできないものに,イクパスイ,イクニと呼ばれる,神に酒を捧げる際に使用する箆がある。これは,トゥキと呼ばれる天目台と椀からなる漆塗りの器と対で使われるもので,表面には彫り文様が施され,人間の言葉を神へ伝える役目ももつ。行器(ほかい),角盥,耳盥,片口,湯桶,膳,矢筒など,移入された漆器類のほとんどが祭具として儀礼の際に使われるもので,日常的には宝物として家の上座に飾り置かれる。祭具を置く場合の敷物として前述の文様入りのござが使われる。菱文や花菱文,波状文など幾何学的な文様が,オヒョウやシナノキの内皮を赤や茶,黒などに染めたもので編み込まれる。

 その他,交通の手段として舟が使われたほか,樺太では冬に犬橇が用いられ,アザラシ皮を張ったスキーやかんじきなども使われた。土産品として手技を生かした工芸品も多く作られた。一木を鎖状に彫り込んだ手ぬぐい掛けやアイヌ文様を彫り込んだ筆軸,筆立,印籠,盆,茶托,菓子入,香合,煙草入れなどがある。
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伝統的なアイヌ文学は,語り手の口から聞き手の耳へと伝えられてきた文芸であり,アイヌ口承文芸あるいはアイヌ口頭文芸と呼ばれる。文字で書かれた文芸と違い,語り手がその時々の口演の場や聴衆の反応をみながら口調や表現することばを即興的に変えることができる。アイヌ民族の言語活動の中で従来から口承文芸の対象とされてきたものは,韻文や散文で語る数々の物語や伝説のほか,歌謡,なぞなぞ,まじないの唱えごと,改まった場における挨拶言葉などと幅広い視野で捉えられている。アイヌ口承文芸のジャンル分類のうち物語的な内容を持つものは,口演の形態や内容の違いなどを基準にして,神謡,英雄叙事詩,散文説話の三つに大別されることが多い。一般に有名な〈ユーカラ〉という名称は,特定の地域における英雄叙事詩の呼び名にすぎない。

 神謡は地域によって,カムイユカ,トゥイタ,オイナなどと呼ばれる。ほかに〈女のユカ〉を意味するメノコユカと呼ぶ地域もあり,伝統的には女性が語るものとされる。動物や植物,あるいは自然現象などの神(カムイ)が神々の世界での出来事や人間世界を来訪して体験したことを神(自然の側から)の視点で物語るという形式を持つ。句を一定の音節数にまとめながら物語に固有のメロディにのせて語るもので,物語ごとに固有の折節(折返し句)を句の前か後,あるいは不定に挿入するのが大きな特徴である。この折節はアイヌ語でサケヘやサハと呼ばれ,主人公であるカムイ(動物や鳥など)の鳴き声や動きなどを表しているものもあるが,意味のわからなくなった語句も多い。また物語の展開によって語句が変化する場合もある。

 英雄叙事詩は地域によってユカ(俗称ユーカラ),ヤイラ,サコベ,ハウキなどと呼ばれる。超人的な能力を持った少年(あるいは少女)を主人公として,千里眼を駆使したり空を飛んだりして敵と戦い,たとえ殺されても生き返ることができるなど,他のジャンルに比較して娯楽性の高い冒険物語が多い。語り手それぞれが持つ固有のメロディにのせて語るが,神謡とは異なり折節がついていない。語り手と聞き手が拍子をとるための棒(レニ)を持って炉ぶちや床を打ち,物語の展開に応じて聞き手が掛け声(ヘッチェ)をかける。

 散文説話は地域によって,ウウェペケ,イソイタッキ,トゥイタなどと呼ばれる。神謡や英雄叙事詩に比較してストーリーや主人公がバラエティに富んでおり,主人公の人間(アイヌ)がさまざまな苦難をどのように乗り越えてきたのかを自ら物語る形式が基本である。舞台設定は現実の社会生活におかれ,通常は人間として生きていく上での心構えや戒めのことばを最後に述べて語り終える。アイヌ民族の倫理観や歴史などを読み取る上で重要なジャンルといわれている。その一方で散文で語られるものには,パナンペ(川下の者)とペナンペ(川上の者)という登場人物の間で成功者を真似したほうが失敗してしまう子供向けの滑稽話や和人に伝承されている昔話を取り入れたものもある。

 一般にアイヌは文字を持たないといわれていたが,大正時代ころからアイヌ人自身の手によってアイヌ口承文芸が片仮名やローマ字表記で筆録されている。その最初の作品である知里幸恵の《アイヌ神謡集》や,金成(かんなり)マツ筆録の英雄叙事詩を金田一京助が原文対訳した《アイヌ叙事詩ユーカラ集》などが有名。アイヌ口承文芸はアイヌ語の衰退とともに消滅の危機が叫ばれていたが,近年はアイヌ語復興の気運が高まり,その学習用の教材として口承文芸が用いられている。現在の語り手たちは録音資料を聴きながらテキストを読んで暗誦することが多く,口承文芸の特徴である柔軟な即興性は失われつつある。しかしこの問題はアイヌ語に習熟することで解消することが可能である。アイヌ文学を総括的に捉えるならば,伝統的な生活の中で育まれた口承文芸のほか,アイヌ人自身が日本語で記述してきた文学作品や,今後はアイヌ語で創作されるであろうSFや恋愛などをテーマとした現代小説もアイヌ文学の対象とすべきである。なお,北海道各地で伝承されたアイヌ口承文芸は2005年に北海道遺産に登録された。
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アイヌの伝統的な音楽・舞踊として現在行われている演目の多くは北海道各地に伝承されてきた。歌詞(アイヌ語各方言)や旋律,曲種や演目,上演形態などには明確に地域差が見られる。近年は樺太(サハリン)アイヌの演目や楽器の復興も行われている。

 音楽は声楽が主要な位置を占め,手拍子が付随するほかは基本的に無伴奏である。旋律は2~4拍を単位とする短い動機をいくつか組み合わせ繰り返す構造を持つ。1オクターブ未満の,半音のない5音音階や分散和音風の音列による2~3音を用いた旋律が多い。一方で1オクターブ以上の音階もあるが,これは日本民謡からの影響ともいわれる。演唱形式には,独唱,斉唱,先唱者に続き一同が繰り返すもの,ウコウ(一つの旋律を1~数人で1~数拍ずつずらし次々と歌い継ぐもの)などがある。伝統的な歌唱では地声と裏声,喉の奥からの強い摩擦音や呼吸音,舌先の顫音(せんおん)など,多彩な音色を用いる。

 舞踊は必ず歌とともに行われ,歌いながら踊る場合も少なくない。改まった場では男女とも伝統的なアイヌの正装で踊る。特定の演目用の衣装を作成・着用することは通常行わない。動物のしぐさや鳴き声を模倣した動きや声が多用されていることが舞踊の特徴の一つである。以下は,主なジャンルのいくつかである(順不同)。

(1)歌と踊り (a)座り歌 数名が漆塗りの行器(ほかい)の蓋の周りに円座し,蓋を叩きながら歌う。ウコウの形式が多い。(b)子守歌 舌先の顫音を歌詞の合間に挿入しながら〈泣かないで眠れ眠れ〉などの常套的な歌詞を歌うものが多い。(c)抒情歌 各人の持つ旋律にのせ,それぞれの体験や感情を即興的に歌っていくもの。〈ヤイサマネナ〉〈アヨロロペ〉などの言葉や特有の常套句がしばしば用いられる。歌詞は即興的に作られるほか,人々の記憶に残った歌詞が固定的に伝承されてきたものもある。(d)輪踊り 一同が中心を向いて輪になり,手拍子を打ち時計回りに動いて踊る。歌は〈ホイヤ〉などの言葉で短い旋律を繰り返すものが多い。(e)動物の踊り ツル,アマツバメ,シギ,スズメ,バッタ,キツネ,ネズミなどの踊りがある。動物それぞれの特徴的なしぐさなどを短く具体的写実的に模倣した動きや,鳴き声などを模した音や言葉を織り込む。(f)踏舞 比較的年長の男性が舞う儀礼的な性格の強いもの。ゆっくりと床を踏みしめ両腕を上下させながら倍音を多く含む低い唸り声で吟唱しながら舞う。(g)労働に関わる踊り 杵つき,酒造り,農耕,植物採集,舟こぎなどの踊りがある。実際の労働で用いられるリズムや掛け声などをそのまま用いるものは割合少なく,豊猟(漁)豊作の予祝や魔よけの祈願の意を反映したと思われる内容が多い。(h)競技的な踊り 上半身を激しく揺さぶったり跳躍を繰り返したりするものや,向かい合った2人ないし2組で先に踊り疲れたほうが負けとなるものなどが伝わっている。

(2)口承文芸 神謡と英雄叙事詩は旋律にのせて語る。神謡は物語ごとにほぼ固有の旋律を持つが,英雄叙事詩は語り手それぞれの旋律で語るといわれる。

(3)祈り,まじないなどの言葉 正式のカムイノミ(神々への祈り)や挨拶は旋律にのせて語るものとされる。日常生活に関わる各種のまじないも旋律にのせて唱えられる。

(4)喉鳴らし遊び 樺太で行われていた遊びの一種で,向かいあった2人が口の前に手でメガホンを作り,そこへ声を交互に掛合いで響かせて全体の音響を形作っていく。

(5)楽器 (a)口琴 金属製の口琴は樺太に伝わっていたものが残っている。今日演奏されるのは竹製の口琴(一般には〈ムックリ〉などの名で知られる)で,約15cmの竹片に切り出した弁の根元に紐がついたもの。紐を引いて弁を振動させ,音を口腔内に共鳴させ音色を変化させる。(b)五弦琴 樺太と北海道北端に伝わっていたチター型の弦鳴楽器。一般には〈トンコリ〉などの名で知られる。3弦や6弦のものもある。義甲は用いず開放弦のみを両手指で弾いて演奏する。(c)太鼓 樺太では巫者の祭具として枠付き一面太鼓が用いられていた。
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北海道開拓を進める明治政府は先住民族であるアイヌの土地を奪い,さらに同化政策によってその民族性と伝統文化を否定した。一方で北海道を訪れる和人にとってアイヌは異民族であることに変わりなく,それはやがて発展していく観光産業の対象となった。

 明治以降,皇族や役人をはじめとする北海道開拓の視察が頻繁に行われ,その視察対象としてアイヌ居住地が組み込まれた。鉄道が開通し交通の便が良くなると一般の旅行者も多く訪れるようになった。

 大正時代には,アイヌの居住地として知られていた白老市街に観光用のアイヌコタン(アイヌ村)が誕生した。本来儀礼の際に用いられる民族衣装に身を包んだアイヌがつねに待機し,舞踊の公演後には決まって記念写真に収まった。アイヌの家の周りには観光客目当ての店舗が建ち並び,絵葉書や木彫品などアイヌ文化を商品化した土産物の生産販売も開始された。白老のほか旭川などでも同様な観光活動が盛んになった。アイヌ民族とその文化は,本質的にはアイヌを異民族とみなす政府や和人等の外部からの目を通し,北海道に欠かせない観光資源となった。

 1950年代には観光旅行が大衆化し,北海道の観光地化がさらに進んだ。アイヌコタンには多くの観光客が訪れ,代表的な土産物として木彫り熊が人気を呼んだ。しかし観光に携わるアイヌはごく一部であり,観光による利益の多くは和人の土産品店や旅行業者が独占した。地元のアイヌの間でも観光地で働くアイヌや業者に対して反発が強まり,非難の目は地域行政にも向けられた。行政はアイヌ文化を見世物として利用する観光産業を促進する一方,急増した観光客への対応が遅れ,環境面で地域住民の生活に悪影響を及ぼす事態が生じた。

 70年代に入るとアイヌ民族の権利を求める運動が盛んになった。白老では行政が観光施設経営から撤退し,代わってアイヌを中心とした組織が運営に当たった。アイヌの間では観光活動と文化伝承を両立させようという意識が強まったが,観光客や旅行業者の意識は旧態依然のままだった。観光地では〈日本語が上手ですね〉などの滑稽な質問が飛び交った。80年代には国際的な少数・先住民の権利や文化復興の機運が高まり,日本国内でのアイヌ新法制定を求める運動に影響を与えた。観光地でもアイヌの歴史や文化をきちんと伝えようと博物館や資料館が作られ,アイヌ文化の再評価へとつながっていく。97年には〈アイヌ文化振興法〉が制定され,文化の復興や人々の理解促進のための事業が展開された。そこには皮肉なことに観光地で受け継がれた伝統文化の知識や技術も生かされているが,同法で定義されるアイヌ文化が根本的に和人の目を通して見た〈伝統文化〉であり,現在のアイヌの生活とはかけ離れたものであるという問題点も含む。北海道内の観光地には今もアイヌコタンが存在し,創作劇や工芸作品など,伝統を踏まえて生み出される新たなアイヌ文化を見ることができる。
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第2次世界大戦後の1946年2月,北海道静内町(現,新ひだか町)において全道アイヌ大会(社団法人北海道アイヌ協会設立総会)が開催され,同年3月,社団法人北海道アイヌ協会(1961年,社団法人北海道ウタリ協会と改称)が設立される。その目的は〈アイヌ民族の向上発展,福利厚生を図る〉ことであり,戦後の混乱期にあって生活基盤の安定を図ることにあった。以後,今日に至るまでこの協会の設立に呼応して,北海道内の市町村に支部が結成され,アイヌ民族の尊厳の確立,社会的地位の向上,文化の伝承・保存を図ることを目的としてさまざまな活動を行っている。

 この北海道ウタリ協会の活動と相俟って,70年代になると,個人および少数の集団を単位としたアイヌ民族としての〈復権〉を求める活動が活発となる。すなわち,70年の鳩沢佐美夫の〈対談・アイヌ〉の発表,73年の砂澤ビッキらの呼びかけによる〈全国アイヌの語る会〉の開催並びに〈ヤイユーカラアイヌ民族学会〉〈東京アイヌウタリ会〉の設立,新聞《アヌタリアイヌ》の創刊,74年の結城庄司,山本多助らによる〈ノッカマップのイチャパ〉の開催,さらには,85年のチカップ美恵子による〈肖像権裁判〉,87年の〈第2回アイヌの語る会〉の開催などであるが,これらは行政と関わりを持たないアイヌ独自の活動である。90年代以降になると,〈民族の復権〉を求める活動とともに,文化を伝承・保存する活動も活発化を呈するようになる。

北海道の調査(北海道ウタリ生活実態調査報告書)では,1999年で人口は2万3767(男性1万1637,女性1万2130),7755世帯で,73市町村に居住となっている。産業別就業者をみると,第1次産業就業者が3978名,第2次産業就業者が3748名,第3次産業就業者が4782名,分類不能の産業就業者が985名となっている。この調査は,1972年から実施されているもので,これまで実施された調査の人口をみると,72年1万8298,79年2万4160,86年2万4381,93年2万3830とある。ただしこの調査は,対象とするアイヌを〈地域社会でアイヌの血を受け継いでいると思われる方,また,婚姻・養子縁組等によりそれらの方と同一の生計を営んでいる方〉とし,さらに〈アイヌの血を受け継いでいると思われる方であっても,アイヌであることを否定している場合は調査の対象とはしていない〉とあることから,先の人口数は実数ではなく,概数ととらえるべきである。

 北海道内には,アイヌが比較的多く居住している市町村があるが,昭和の初期ころまでにいくつかの地域でみられた伝統家屋チセを住居とする集住は,今日ではまったく見られない。戦前まで樺太(サハリン)に居住していたアイヌは,戦後,日本に移り住み,現在,サハリンには1名のアイヌが居住しているといわれる。北海道外においては,本州・四国・九州・沖縄に居住し,とくに関東周辺に多く居住しているが,その多くは,戦後,北海道から移り住んだ人たちである。

戦後,観光あるいは興行を一つの手段として文化伝承が行われたが,1970年代になると,文化伝承・保存活動が民族文化の復興を目的として組織をもって行われるようになり,伝統儀礼の多くが復興し,実践されるようになった。白老,平取,旭川などでイオマンテ(クマの霊送り)が実施され(熊祭),82年には,札幌市の豊平川で新しいサケを迎える儀礼,83年には屈斜路湖畔でシマフクロウの霊送りがそれぞれ実施されている。近年では,かつてアイヌの年中行事であったシシャモを迎える儀礼,予祝・豊作儀礼であるコタンノミ,新年を祝うアシパノミ,新しく舟を降ろす際の儀礼であるチサンケ,さらにはイチャパあるいはシヌラッパ,イヤレと呼ばれる先祖供養などが実施されている。また,83年には,萱野茂(1926-2006)が平取町二風谷(にぶたに)に〈二風谷アイヌ語塾〉を開講している。これは,集団でアイヌ語を学習する場としては初めての試みであり,現在,公費補助のもとに北海道内14地域で実施されている〈アイヌ語教室〉の嚆矢となるものである。さらに,84年および97年には,17地域で伝承・保存されている古式舞踊が国の重要無形民俗文化財の指定を受けている。民具・工芸品をみると,販売を目的とした工芸品の製作に加えて,文化伝承として民具の製作が盛んになっている。とくに顕著なのは,女性の手による着物の復元・製作である。これは,先の舞踊の伝承・保存活動や儀礼の復興と関連づけられる。伝統的な着物の復元に加えて,糸の使用や文様が多彩になるとともに,その製作・着用が広域的なものとなり,伝統性および地域的な特徴が失われつつある。文様は着物だけでなく,タペストリー(綴織)などにも施されるようになり,多様化がみられる。工芸品としての木彫は,これまでの動物意匠を中心としたものから,創造性豊かな抽象的なものや個性を表現したものも作られるようになるなど芸術性が高められ,砂澤ビッキ,藤戸竹喜,床ヌブリといった作家が輩出している。なお,1976年に設立された財団法人白老民族文化伝承保存財団(現,財団法人アイヌ民族博物館)は,〈観光〉としてアイヌ文化を見せつつも,アイヌ文化全般にわたって調査・研究および伝承・保存を実施してきており,また,川村カ子ト(かねと)アイヌ記念館,阿寒湖畔アイヌコタン,平取町二風谷地域といった組織・地域も同様であり,これらの組織・地域が文化伝承・保存に果たしてきた役割は大きい。

 97年の〈アイヌ文化振興法〉の制定により,文化伝承・保存活動に公的な助成金が交付されることもあって,活動の機会も多くなり,青少年層を中心として文化伝承の担い手が増加した。しかし,その反面,こうした文化伝承・保存活動を支えてきた伝承者の高齢化と後継者の育成が将来に向けての課題としてある。
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出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報

日本大百科全書(ニッポニカ) 「アイヌ」の意味・わかりやすい解説

アイヌ
あいぬ
Ainu

アイヌは、日本列島北部に先住してきた独自の言語と文化をもつ民族である。

 アイヌ語でアイヌとは人間を意味し、自らの居住する領域を陸と海を含めてモシリとよんでいた。アイヌの占有的に生活する領域はアイヌモシ、すなわち人間の大地、人間の世界を意味する。近代の日本とロシアの国家体制に組み込まれるまでアイヌは、現在の北海道島を中心にサハリン(樺太(からふと))南半部や千島(クリール)列島、さらに本州の北端を含む広大な地域を活動の舞台にしていた。

 現在、アイヌは日本国内に大部分が居住し、北海道に約2万4000人、関東に約3000人を数える。日本全体では少なくとも3万人以上が生活していると推定される。また、ロシアのサハリン州に自らがアイヌとして民族名の登録をする者がごくわずかながら存在する。日本領有時代の1939年(昭和14)の統計によれば、サハリン島の南半部のアイヌは1263人であった。また色丹(しこたん)島には北千島から強制的に移住させられたアイヌがわずかながら居住していた。この地域は、近世末までアイヌが歴史的に居住してきた地域、すなわちアイヌモシの歴史的伝統をふまえている。アイヌモシは大きく三つの集団に分けられ、その差異は、言語学的にも認められる。北海道方言の集団は北海道島と国後(くなしり)・択捉(えとろふ)両島を含む地域、千島方言はウルップ島以北の千島列島の地域、樺太方言はサハリン島の南半部の地域であり、この方言の差は文化的な諸要素にも及んでいる。

 アイヌは基本的に自然物に依存した生活形態を日常としてきた。つまり食料はもとより日常生活に必要な素材の大部分を漁労、狩猟、植物採集という手段で自らの手によって得てきた。しかし、アイヌ社会は、自給自足の採集経済のみという閉ざされたものではなく、活発な交易活動を展開し、これに対応し得る大量の商品生産を組織的に行っていたことが、近年明らかになってきている。ことにラッコやオットセイ、テンなどの毛皮や、コンブやアワビなどの海産物を商品化していた。自然物のみに依存する脆弱なアイヌ社会のイメージは、見直しを迫られている。

 北海道島でみるかぎり、13~14世紀ごろには、隣接する日本(本州以南の和人社会)や中国との直接的間接的な商品経済活動圏に組み込まれて、アイヌ社会はこれに対応できる商品生産を可能にする大きな川筋などを単位とする地域集団としての強い結束をもった社会へと転換したと考えられる。このことは、最近の考古学的な発掘調査の目覚ましい成果によって明らかにされつつあるのである。たとえば、少なくとも15世紀以前に用いられたとみられる大型の板綴船が北海道各地から出土しているばかりか、交易によってもたらされたとみられる大陸製や日本製の金属器や漆器、織物やガラスなどが出土している。イタオマチッとよばれる積載量の大きい板綴船を用いて盛んに行われたアイヌの自立的交易活動による文化交流や技術移転は、アイヌ社会と文化に大きな刺激を与えた。

 この交易を通して、アイヌ自らの言語と他者との言語の違いをはじめ、風俗・習慣という文化の相違を強烈に意識したとき、文化や利害を共有する仲間意識で結ばれた集団結合が強固に形成されていったと推定される。この時期をもって、今日でいう民族としてのアイヌとその文化の大枠が形成されたとみたい。他者が外見ですぐさまアイヌであることを識別できるアイヌ文様で飾られた衣服は、まさにこの所産である。

 アイヌは19世紀初頭に幕府によって大陸との往来を禁止されるまで、自由に交易や中国への朝貢を行っていた。これ以後、アイヌが介在していた交易活動は幕府が直轄経営するいわゆる山丹交易として、アイヌを排除して幕府の崩壊まで存続した。

 1868年の明治政府の成立とともに、蝦夷(えぞ)地は北海道と改称され、翌年、開拓使が設置された。先住民であるアイヌの土地は「無主地」として国有化され、本州からの多数の日本人移住者が送り込まれて、急速にしかも大規模に農業、鉱業、林業、漁業などを経営する「開拓」が行われた。とうぜん道路、港湾、鉄道などの整備も一体化して進行した。そのため豊かに限りない自然の恵みをアイヌにあたえてくれた環境は、またたくまに破壊されていった。原野も焼き払われて耕牧地にされ、狩猟や漁労の権利も奪われてしまった。このように伝統的な居住地での生活を追われ、アイヌはいやでも開拓に伴う賃労働で生活するしか方法がなくなっていった。採集民文化としてはもっとも成熟した段階に到達していたとみてよいアイヌは、明治政府による先住民としての権利の無視にくわえて、日本文化への同化を強いられ、目に見える範囲ではその文化の独自性を急速に失っていった。ことに、母語であるアイヌ語が公教育の場で禁止され、日常会話においても民族語を用いる機会は失われていった。

 しかし、1970年代後半より、国際的な先住民運動の高まりのなかでアイヌも世界の先住民と交流を深め、自らの民族的権利獲得と伝統的な文化再生の必要性を自覚していった。アイヌの民族的権利獲得の運動は、アイヌ最大の組織である北海道ウタリ協会を中心に多くの同族の支持によって進められた。その結果、アイヌを民族として否定する同化政策法ともいえる1899年(明治32)に制定された「北海道旧土人保護法」の廃止と、新たな民族の尊厳と権利を保証する法律の制定を求める声は、全国的に展開され、国や北海道などの関係機関も具体化に向けて動き出した。そして1997年(平成9)5月8日に、アイヌ新法が国会で可決成立し、7月1日に施行された。

 しかし、公教育の場をはじめさまざまなメディアを通して誤ったアイヌ像が植え付けられており、民族的な差別と偏見が払拭されない現状にあると言わざるを得ない。アイヌ新法では、これらの誤った認識を正すための事業を行うが、その主体は財団法人アイヌ文化振興・研究推進機構である。これからの事業活動の成果が新法の将来に影響する重要な組織である。まだ、事業も緒についたばかりであり、今後に期待したい。

 なお、新法が制定される以前から取り組まれていたアイヌ語学習の場は、1998年現在、北海道内に14か所が設置され、また、アイヌの伝統的な歌舞も古式舞踊として文化庁より17団体が無形民俗文化財に指定されて次世代への継承が図られつつある。工芸技術の分野も機動訓練などの形で学習の場が設けられている。

[大塚和義]

アイヌ民族の歴史

アイヌ文化の成立

考古学からみたアイヌ文化を北海道の擦文(さつもん)文化消滅以降と考えると、その成立年代は13世紀末ごろとすることができる。アイヌ文化の成立の基盤となったのは擦文文化であり、その担い手もアイヌであるといえる。そしてその存続年代と文化圏などから考えて、それは「エゾ」(蝦夷)とよばれる人々と結び付けることができる。

 アイヌ文化の成立期を13世紀以降から15世紀ころと考えると、その時期になんらかの「アイヌ文化の基本形態の形成」があったとしなければならない。考古学の成果をみると、住居構造の転換に伴う内耳(ないじ)土器そして内耳鉄鍋(てつなべ)の使用がその時期にみられる。それは、壁際に設けられたかまどによる生活から、屋内中央に設けた炉を囲む生活への転換を意味する。火に対する信仰・儀礼形態が確立しつつある時期であり、火と火の神への祈りを生活の中心に置いたアイヌの精神的な変換期でもある。それを推進させた外的要因として、内耳鉄鍋で代表させうる各種の本州産品の北海道への流入がある。外的物質文化による変換である。そしてこのような和産物の流入は、平等、互恵的な交易ではなく、アイヌ地への武力を背景にした和人の侵略を伴うことになる。その結果、アイヌは自己の手になるチャシ(砦(とりで)、柵(さく))を構築し、和人と相対することとなる。ここにアイヌ文化の重要要素の一つであるチャシが登場し、それは16世紀以降にきわめて軍事的色彩を濃くしていき、1789年のクナシリ・メナシの戦いまで続く。

 一方、炉と火の神を中心とした精神的変換を契機に諸儀礼の確立がみられる。考古学的には「物送り場」の調査によって証明される。食用動物や日常生活具、祭具などの霊的存在を天上の神々のもとに送り返す儀礼の最終的な場である。その対象がすべてにわたり、かつ送り場の数も増加するということは、擦文文化以降の精神的変革を意味している。この送り儀礼の最高の姿が仔熊(こぐま)飼育型のイオマンテである。また死者に対しては伸展葬の墓制が確立してくる。このように擦文文化を基盤として、一部に骨塚儀礼や動物信仰などのオホーツク文化の精神文化的影響を受けて、アイヌ文化が成立してくるわけである。考古学的には18世紀末までの「原アイヌ文化」とそのあと現代までつながる「新アイヌ文化」に分けられる。

[宇田川洋]

和人の進出

1457年(長禄1)蝦夷(えぞ)地南部で起こったコシャマイン(?―1457)らの一大蜂起(ほうき)は、アイヌ勢有利のうちに戦いを進めながらも、結果的にはアイヌ側の敗北に終わる。こののち、およそ1世紀にわたってアイヌ、和人間の闘争が続けられる。そのおもなものには、1515年(永正12)のショヤコウシ兄弟の蜂起、1529年(享禄2)タナサカシ(?―1529)の蜂起、1536年(天文5)タリコナ(?―1536)の蜂起などがあるが、そのいずれもが謀略をもってアイヌの指導者を殺すことで収拾が図られている。こうしたアイヌ・和人闘争の過程で和人勢力の再編が進み、安東氏一派から蠣崎(かきざき)氏(後の松前氏)への勢力の交代があり、蠣崎氏によって蝦夷地の和人が統一される。1550年(天文19)には、蠣崎氏とセタナイのハシタイン(生没年不詳)、シリウチのチコモタイン(生没年不詳)との間に一種の和平協定(蝦夷商船往還の制)が結ばれ、アイヌ・和人の協調の時代となった。

 こののち、松前氏が豊臣(とよとみ)秀吉、徳川家康によって蝦夷地の支配権を認められ、松前藩が成立する。米のとれない蝦夷地では、要所要所に商場(あきないば)(場所)という交易所を設け、そこでの対アイヌ交易権を家臣に知行として与えた。商場は複数のコタン(集落)を含んだり、従来のアイヌの勢力範囲を越えて設けられたり、さらに交易に不正が伴うなど、アイヌの側の不満が高じていき、ついに1669年(寛文9)に大規模なアイヌの蜂起となる。有名な「シャクシャインの蜂起」である。和人がシャクシャイン(?―1669)らを謀殺することで戦いは鎮められるが、この戦争を収拾することで、松前藩は実質的な蝦夷地全域の支配権を確立する。この前後から知行地である商場の経営を、運上金を収めることで商人にゆだねるようになる。「場所請負制」である。これによってアイヌは、和人による蝦夷地支配という枠のなかに組み込まれ、従属を余儀なくされる。商人は利潤をあげるためにアイヌを酷使し、また、梅毒などの伝染病を持ち込むなどの無理無体を重ねた。そうした不満が高じて、1789年(寛政1)にはクナシリ、メナシなど東部のアイヌが蜂起した。このクナシリ・メナシの戦いでは松前藩の正規兵は直接戦闘を行わず、むしろ、和人の意向をくんだイコトイ(?―1820)、ツキノエ(生没年不詳)らの同胞の説得によって蜂起を収拾した。この蜂起を最後として、大規模なアイヌ・和人闘争は終わりを告げる。アイヌは完全に和人の支配下に入るのである。

 この間のアイヌと和人の勢力関係は、1550年の協定までをアイヌ和人拮抗(きっこう)期、シャクシャインの蜂起前後までを和人優位期、それ以後を和人支配期とそれぞれ性格づけることができよう。

[佐々木利和]

開拓以後

明治維新以降のアイヌは、幕末以来急速に進められていた内民化政策をいっそう受けることとなった。まず、それまで「異域」を意味した呼称方式「蝦夷地」が、古代以来の国家領域の理念といえる北海道と改称され、明治国家の行政区画割が導入されるに至り事実上消滅する。それとともに、もともとその土地に居住していたアイヌは、戸籍法の施行に基づき平民籍に編入され、日本式姓名をもって戸籍簿に登載される一方、「旧土人」といった新式呼称方式の創出によって「新平民」同様、別の差別を受けることとなる。

 こうして外面的に明治国家の構成員に加えられたアイヌは、明治政府によって一貫して「内地人民と同一」になること、すなわち「同化」政策(勧農と教育をセットにした統合)を受けることとなる。具体的には、男子の耳環(みみわ)、女子のいれずみの禁止などをはじめ、アイヌ固有の生産様式である狩猟、漁労法の禁止などが、アイヌ側の抵抗にもかかわらず強引に実行され、あわせて勧農や日本語、日本文字使用が奨励された。またアイヌの子弟多数が東京の開拓使仮学校に送られ、そこで日本式教育を受けたのをはじめ、樺太(からふと)(サハリン)と千島の領土の交換(1875)によって両地方から強制移住させられたアイヌへも勧農と日本式教育が実行された。それらは急激な生活環境の変化をもたらし、アイヌをいっそう衰微させるのみであった。

 1899年(明治32)「北海道旧土人保護法」が制定され、アイヌの農耕民化と日本式教育の徹底を通して「皇国臣民」化の完成が意図された。施行後17年を経過した1916年(大正5)では、アイヌのうち農業従事者は52%に達したが、年間の収入は一般農家の4分の1程度にすぎず、格差は歴然としていた。教育においても、アイヌの子弟のみを教育する「旧土人学校」が1901年(明治34)から1916年(大正5)までに21校(うち2校はすでに廃校)開校され、アイヌの子弟の就学率も1901年に45%弱(全道平均77%)であったものが、15年後の1916年には94%弱(同99%)と著しく高まった。しかしこの数字の裏には、アイヌの統合に対するとまどいや不信感を読み取らねばならない。

 そういう過程でアイヌの自発性を引き出し、主体性をある程度認める小組織集団づくりが官主導のもとに進められた。すなわち青年団、処女会などの名称をもって、知徳の啓発、生活改善、貯蓄奨励、飲酒矯正など、いわば「臣民」としての要素の修養を等しく掲げた「地方改良運動」の展開である。

 やがて昭和初期に入ると、これらの運動が発火剤となってアイヌ自身による二つの動向を生み出した。一つは、近代におけるアイヌの苦悩はまさしく北海道開拓にあると糾弾する個性の形成と、一つは、自主的に自民族の生活改善と「同化」を高めようとする運動の出現である。前者が違星北斗(いぼしほくと)による短歌運動(同人誌『コタン』)であり、後者が北海道アイヌ協会の運動(機関誌『蝦夷の光』)である。満州事変が契機となった「国民自力更生運動」は、アイヌの居住する村々へも浸透し、チン青年団(『ウタリ之光り』)や北海小群更生団(『アイヌの同化と先蹤(せんしょう)』)などの運動となって現れた。そしてアジア太平洋戦争ではアイヌも出征兵士として多数戦場に送られ、中国や沖縄で「皇軍アイヌ兵」として戦った事実が明らかにされている。

 敗戦後、民主化の動きとともにアイヌ問題への新たな取組みが活発化し、『アイヌ新聞』(アイヌ問題研究所)や『北の光』(北海道アイヌ協会)などが発刊された。

 その後1970年代以降、民族問題としてアイヌ民族をはじめ民族を超えた幅広い層の人々によって民族差別、教育、民族文化保存の問題など、民族の誇りと人権の復権を目ざした粘り強い闘いが展開されるに至った。そのような活動とともに1980年代にははじめて『アイヌ資料集』全15巻(1980~1985年)が刊行され、アイヌ史研究の基本文献が復刻されたり、北海道ウタリ協会アイヌ史編集委員会による『アイヌ史』資料編1~4、活動編(1988~1994年)が刊行されるなど、アイヌ民族独自の歴史編纂(へんさん)活動が活発化した。

 これらを受けて1994年(平成6)6月に北海道立アイヌ民族文化研究センターが札幌に開設され、全国初のアイヌ民族文化の総合的な研究機関が誕生した。それとともに同年7月には萱野茂(かやのしげる)(1926―2006)参議院議員が繰上げ当選を果たし、アイヌ民族では初の国会議員の誕生となった。そして懸案だったところの「北海道旧土人保護法」の廃止と「アイヌ新法」の立法化を積極的に働きかけ、1997年5月「アイヌ文化の振興並びにアイヌの伝統等に関する知識の普及及び啓発に関する法律」(アイヌ文化法)を公布、同年7月施行となった。これに伴い、「北海道旧土人保護法」「旭川市旧土人保護地処分法」は廃止された。また、アイヌ文化法に基づき同年7月、財団法人「アイヌ文化振興・研究推進機構」が設立され、アイヌ民族の誇りが尊重される社会を目ざして大きな第一歩を踏み出した。しかし、いまなおアイヌ民族問題はさまざまな面で多くの課題を残している。

[海保洋子]

アイヌの形質

和人をはじめとする周囲のモンゴロイド人種と比較した場合、北海道のアイヌは次のような身体的特徴をもっている。

(1)皮膚の色が、黄色みの乏しい明褐色である。

(2)新生児の仙骨部の皮膚の色素斑(はん)(児斑)がまれにしかみられない(11%)。

(3)体毛が比較的太く、かつ長い。

(4)頭毛が波状を呈し、断面形が扁平(へんぺい)である。

(5)脳頭蓋(とうがい)の前後径が大きく、頭長幅示数が長頭に近い中頭型(76.6%)である。

(6)顔高が低く、頬骨弓(きょうこつきゅう)幅が広い。

(7)眉稜(びりょう)、鼻骨の隆起が強く、目はくぼみ、上瞼(まぶた)は二重(ふたえ)瞼が多く、内眼角ひだ(蒙古ひだ)は少ない(5%)。

(8)耳垂が発達し、癒着型は少なく、遊離型がほとんどである(95%)。

(9)耳垢(じこう)は湿型が非常に多い(87%)。

(10)歯の咬合(こうごう)型式は鉗子(かんし)状が多い。

(11)身長は、1890年代の小金井良精(よしきよ)による調査では男性平均156.6センチメートル、1950年代の小浜基次(こはまもとつぐ)(1904―1970)らの調査では同じく160.1センチメートルと報告されており、同時代の和人の平均と大きな差はないが、体の比例についてみると上肢長、下肢長が相対的に長く、胴の長さが比較的短い。

(12)手の指紋には渦状紋が比較的少なく蹄(てい)状紋が多い。以上の特徴は、北海道アイヌばかりでなく、樺太アイヌ、千島アイヌにもほぼ共通して認められるが、樺太アイヌは北海道アイヌに比べてやや顔高が大きく、千島アイヌはやや低身で短頭という傾向をもっている。

 現生人類の人種分類体系のなかでのアイヌの位置づけについては、古くから多くの説があって、いまだに意見の一致がみられていない。皮膚の色、頭毛の形状、体毛の発達、瞼の形態、指紋型や湿型耳垢の頻度などでは、コーカソイド人種の一部やオーストラロイド人種などとの共通性が認められるが、血液型や血清タンパクの遺伝的多型の研究によれば、アイヌはやはり東アジアのモンゴロイドにもっとも近いという。

 近年、北海道における古人骨の研究が進み、北海道縄文時代人が、一方において本州の縄文時代人ときわめて近縁な関係にあり、しかも他方において、続縄文時代以降の連続的な変化を通して歴史時代のアイヌにもつながることが、しだいに明らかになってきている。おそらくアイヌの主たる起源は、モンゴロイドの特殊化のあまり進んでいなかった、旧石器時代から縄文時代にかけての日本列島の先史人類集団のなかに求められるのであろう。

[山口 敏]

アイヌの伝統文化

アイヌの伝統文化とその技術は、狭義の意味では経験豊かな古老たちが少なくなり、社会的条件も重なって、学習し次世代に継承していくことの困難な状況にあるといえよう。しかし、近年、若い世代を中心に、自分たちの民族的なアイデンティティを確かめ、父祖伝来の文化の継承可能な部分を現在に生かしながら、新たな伝統を構築し裾野を広げていこうとする大きな動きがあることは注目される。ことに1997年7月施行の「アイヌ新法」に基づく文化振興のための「機構」の設置による事業展開が新しい状況をつくりだしている。つぎに記述するアイヌの伝統文化は、17~19世紀半ばごろまでに展開されたもので、アイヌ自身の体験や見聞、口誦伝承、和人の記録などによって再構成されたものである。これらの伝統文化のなかから、現代に再生し、持続させていく試みや実現したものも少なくない。そうした意味で、伝統文化のかなりの部分は時代の状況に応じて変容しながら継承されつつある。

[大塚和義]

生業

アイヌは、自らの生活に必要な素材の大部分を自然から得ていた。つまり、食糧はもとより、衣服の素材から建築材料に至るまで、ほとんど自給自足していたのである。しかし、これらを加工する工具や利器となる鉄製品や漆器、木綿やガラス玉などは、大陸や日本との活発な交易活動によって入手していた。したがって、アイヌの生活基盤は、基本的に狩猟、漁労、植物採集という三つの組合せによって成り立っていた。これらの自然の恵みは、年ごとの生態、気候条件などによって獲得できる量の異なることがしばしばおこった。ことに、3年ないし4年ごとに不漁にみまわれるサケ漁の事例はよく知られている。また、内陸のコタン(集落)と海浜のコタンでは、当然のことながら生産対象に相違がみられた。基本的生業である狩猟、漁労、植物採集のほかに、動物飼育と原初的農耕が行われたが、あくまでも副次的な役割しか果たさなかった。イヌに対する去勢、クマの牙(きば)切りなど獣類の管理技術は一定の進展がみられたが、隣接する民族ウイルタのトナカイ飼養のように、牧畜に適した獣類をアイヌの居住地域では飼えなかったことに、その限界が求められよう。

(1)狩猟 陸獣のなかでもっとも重要な位置を占めたのはシカである。数多く棲息(せいそく)していたうえに捕獲が容易であり、しかも毛皮は上等で、肉も美味であった。シカ肉は安定した食糧として主食的役割を、サケと並んで果たした。このほか陸獣ではウサギ、キツネ、テンなどが毛皮や食肉にされた。海獣では小形のハクジラ類、イルカ、オットセイ、アザラシなどであり、ときたま浜に打ち上げられる「寄りクジラ」も利用された。オットセイは精力剤などとして和人に珍重され、その捕獲を奨励された。鳥類ではワシ、タカ類が矢羽根として高価な交易品になるため捕獲された。またツル、カモ、ヤマドリも捕獲された。狩猟具は、陸獣には弓矢や槍(やり)だけでなく、さまざまな罠(わな)を用いた。また、アマッポ(仕掛け弓)も使われた。海獣狩りや大形魚類の捕獲にはキテ(離頭銛(もり))が効果的であった。鏃(やじり)や銛先に毒性の強いトリカブトを塗って捕獲を容易にした。イヌを慣らして猟犬に使うこともした。

(2)漁労 丸木舟を自由に操って、河川や湖沼ばかりでなく、かなり沖に出て海漁も行った。漁ではサケ・マス漁が生産性も高く、もっとも重要な位置を占めた。また河口での網によるシシャモ漁、沖漁ではメカジキ漁が好んで行われた。サケ漁には、マレとよぶ回転鉤(かぎ)がよく使用された。貝類ではシジミ、ホッキガイ、カキなどをとって食用にした。やす、釣り針などの漁具のほか筌(うけ)や簗(やな)も用いられた。結氷した水面を割って魚をとることもされた。サケ漁は産卵場が捕獲しやすいため、それぞれのコタンごとに専有の場所をもっていた。

(3)植物採集 各種の植物が採集されて食用や薬用、あるいは衣服を織るための繊維として利用された。ことに、ウバユリの球根から得られる良質なデンプンは、食糧生産全体からみても重要な役割を担った。このデンプンを、団子や粥(かゆ)にして食した。デンプンをとった残りかすは、中央に穴をあけた円盤状のものにして乾燥し、保存して、食糧が欠乏したり、飢饉(ききん)にみまわれたときに用いた。クロユリ、ヒシ、カタクリなどのデンプンも食用にされた。果実ではコクワ、ヤマブドウ、野イチゴなど、海藻ではコンブ、フノリなどである。植物採集は主として女の仕事であり、ユリ根などを土中から掘り出す長いへら状の掘り具や手鍬(てぐわ)を道具にした。

[大塚和義]

社会

社会組織についての調査は、1951年(昭和26)に日高の沙流(さる)川流域において比較的詳細なものが行われたにすぎず、これをもってアイヌ社会全体を論ずることはできない。あくまでも日高地方の事例としてみるべきものである。

(1)家族 アイヌには家族を表すことばがないが、1軒の家に生活する単位を家族とすれば、それは一般に父母と未婚の子女である。これに配偶者を亡くした祖父母が同居することもあった。結婚した子女は新しく別に家を建てて住み、1軒の家に2組の夫婦が同居することは通常ではなかった。一般に夫方同居であり、結婚と決まれば親族や友人などが集まって新居を建ててやる習わしであったといわれる。

(2)親族 親族に近い内容のことばには、ウタリとかイルなどがあるが、いずれもかなり広い範囲をさし、非血縁者も含まれる。アイヌの親族組織を特徴づけるものは、エカシイキリ(男系)とフチイキリ(女系)という、性に基づいて血縁集団を認識する体系の存在であろう。同じエカシイキリに属する男は、共通のエカシイトパ(祖印)をもち、パセオンカミ(特別に重い神への礼拝)の儀礼をともに行う。また同じエカシイキリの者は、狩猟などの集団労働の単位でもあったといわれるが、詳細は不明である。このエカシイトパは父から息子へと伝えられる。

 同じフチイキリの女は、同じ編み方でつくった下紐(ひも)(ラウンクッ)を同じ巻き方で腰に巻くものとされている。下紐は、ツルウメモドキの繊維を編んだ細紐を数条巻いたもので、母から娘へと同一の形とその編み方が継承された。出産の手伝いとか病人の世話、ことに葬儀においての手伝いは死者と同一のフチイキリの者でなければならないとされた。

(3)結婚 婚姻年齢は、男は19~20歳、女は16~17歳であった。ことに女は、適齢に達するまで口や前腕や手甲にいれずみを施し、結婚と同時に完成させる習慣もかつてあった。婚約は、娘からは、自分の針仕事の腕を振るった刺しゅう入りの着物、男からは、心を込めて彫刻を施した小刀などが贈られる。このほか、男から娘の父親に宝刀や漆器類などイコとよばれる財貨的品物が贈られる。アイヌは一夫一婦を原則としているが、寡婦が亡夫の兄弟に養われることは社会的に認められていた。婚姻規制としては、近親婚の禁止のほかに、男は母親と同じ下紐の女とは結婚できなかった。

(4)集落 いくつかの家が近くに散在して一かたまりになっているところを、コタン(集落もしくは村)とよんでいた。自然物にのみ依存するアイヌ社会では、コタンの規模も5~6軒から大きくて10軒前後であり、生産性が低いため、あまり集中することができなかった。コタンでは、これを統率するコタンコとよばれる首長が選ばれたが、これは絶対的な権力者ではなく、指導的役割を果たすものであった。

(5)イウオロ これは、コタンによって占有されている特定の猟場、漁場、植物採集の場を含んだもので、いわばこれ自体がアイヌの小世界を形成していた。イオルのなかでは、さらに仕掛け弓をかける場所や冬眠用の熊穴の場所などが、特定の家の専有とされていることもあった。イウオロという小世界から外にほとんど出ることもなく生涯を終える者も少なくなかったといわれる。

[大塚和義]

住居

ずっと昔はアイヌが住居を構える場合いちばん重要なことは、近くで食糧を入手できること、次はチセ(家)の近くに寒中でも凍らない湧水(わきみず)があることであった。家はたいていの場合一部屋で仕切りがなく、夫婦の寝床は蒲(がま)草で編んだ茣蓙(ござ)を垂らしてあった。建て方は、大地に穴を掘り直接柱を立て、柱は腐食しにくいドスナラかエンジュを使った。旭川(あさひかわ)地方は屋根や囲いは笹(ささ)だが、沙流川地方は萱(かや)が主で、その場で手に入れやすい材料を用いる。屋外にはルカリウシ(男女別々の便所)があり、ほかにクマの檻(おり)がある場合もあるが、仔熊(こぐま)を生け捕ったときのみのもので、かならずあるというものではなかった。プ(倉)は干肉や干魚を貯蔵し、ときにはヒエやアワなどを穂のままトッタという大袋に詰めて入れて置き、必要のない場合は梯子(はしご)を外し、ネズミが倉へ入ることを防いだ。仮小屋は、山猟や川漁に行き野宿あるいは数日滞在するときに、フキの葉、青草、松葉などその場で手に入るものを材料にしてつくる。

[萱野 茂]

服飾

衣服として一般によく知られているのはアツシ(近年はアットゥと表記されることが多い)である。これはハルニレ、オヒョウなどの内皮からとった繊維を用いて織った木皮布の一種である。色は自然の褐色で無地が多いが、黒や紺、白などの木綿糸を経糸(たていと)に入れた縞(しま)地などもある。衽(おくみ)はなく、もじり袖(そで)が主。肩や袖口、裾(すそ)などに切伏せ文が入る。

 樺太ではイラクサを用いるためやや白っぽいものとなり、レタペ(白いもの)の名でよばれる。

(1)木綿衣 和人との交易や労働の報酬によって得た古着に、アイヌ文様を施したもので、形状はアツシに似るが、色裂(いろぎれ)を多用するために非常に華やかなものとなる。チカペ(われらがつくったものの意)とよばれる衣服で代表される。このほか、絹や木綿の端裂(はぎれ)を縫い合わせたパッチワークのような衣服も伝えられている。

(2)その他の衣服 アイヌはアツシを発明する以前には、獣皮や魚皮など自然に得られる素材を用いて衣服をつくっていた。そのなかにはアザラシなどの海獣の皮によったウ(獣皮衣)、サケやイトウなどの皮でつくったチェプル(魚皮衣)、エトピリカなどの羽によるラプル(鳥皮衣)、草を編んでつくったケラ(草衣)などがある。

 交易で得たものでは、日本文化から陣羽織や木綿、絹などの古着類。前述のチカペのようにアイヌ風に改める場合と、小袖などをそのまま用いる場合とがある。また沿海州(ロシア)からは俗に山旦服(さんたんふく)、韃靼裂(だったんぎれ)などとよばれる清(しん)朝の朝服などがもたらされている。これらの交易品は、アイヌのなかでも「役蝦夷(やくえぞ)」とよばれる富裕な指導者層の晴れ着として用いられた。

(3)下着 男は褌(ふんどし)の上に直接着物を着たが、女はモウルというワンピース状の肌着を用いていた。女が人前で肌をさらすことは強く戒められていたため、授乳などの際にも気を配っていたという。また下着とはいえないが、腰には女系を示す下紐を巻いており、これは夫にも見せることのできないものとされていた。

(4)冠物(かむりもの) コンチ(頭巾(ずきん))は冬の山猟の際に男がかぶる防寒用のもののほか、喪礼用のチコンチ(涙頭巾)などがある。またマタンプあるいはチェパヌッなどという鉢巻類。さらに男が信仰儀礼の際にかぶるサパンペ(イナウルともいう)という礼冠がある。

(5)手甲・脚絆(きゃはん) テクンペ(手甲)、ホシ(脚絆)といい、労働用と礼装用との別がある。手袋は樺太(からふと)アイヌが用いていた。ライクテクンペ、ライクホシ(死者の手甲、脚絆)は葬儀の際に死者の身につけるもので、普段から用意しておくのがたしなみとされた。

(6)履き物 冬季や山猟のときなどにはケリ(靴)を履いた。靴は、サケなどの魚皮を用いたものや、アザラシの皮でつくったもの、またブドウづるなどで編んだものなどがあった。

(7)装飾品 男女ともニンカリ(耳飾り)をするほか、女はタマサイ(シトキともいう。首飾り)やレクトゥンペというチョーカーに似た首飾りを用いた。まれに腕輪をすることもあったが、髪飾りや指輪は用いなかった。また護身の意を込めてマキリ(小刀)を帯に下げた。男は日常、たばこ入れを離さなかった。

 衣服や服飾品につける文様はアイウ(括弧(かっこ)状)文やモレウ(渦状)文が主体となることは、ほかのアイヌ工芸と同じである。しかし、衣服にはことのほか大胆に文様を展開したものがみられるほか、古くから伝わる衣服類には文様構成や色裂の配置に優れた感覚をもつものが多い。

[佐々木利和]

工芸

ユーカラ(アイヌ語ではユカと表記)の冒頭には、ヒーローならば彫刻に余念がないさまが、ヒロインならば刺しゅうにいそしんでいるさまが、かならず描写されている。この二つはアイヌ工芸の双璧(そうへき)をなすものであった。

(1)彫刻 木彫りは平彫りが主体であり、現在北海道の観光地でみられる立体的な熊彫りのようなものはごく新しいもので、アイヌの伝統的な彫刻とは異なる。

 マキリ(小刀)1本で、盆、たばこ入れ、小刀鞘(さや)などを彫り出すが、彼らは木の性質を熟知しており、盆にはクルミ、カツラ、たばこ入れにはイタヤを用いるなど、用途によって材料を使い分けている。木彫りのなかでも重要なものはイクパスイ(捧酒箸(ほうしゅばし))である。これは人と神とを仲介する祭具で、アイヌの信仰生活上欠かすことのできないものである。長さ30センチメートル、幅3センチメートルほどの小さなものであるが、このなかにはアイヌ彫刻のあらゆる技巧が用いられている。

 彫刻に限らずアイヌ文様は、彼らの信仰に根ざしており、木片に彫刻を施すことは、それに魂を吹き込むことであり、持ち主の守護神となることである。したがってその一刀一刀に精魂を傾けた。木彫りにみられる文様はモレウ(渦状)文やアイウ(括弧(かっこ)状)文を展開したものや、組紐文、青海波文などのほか、クマやシャチなどの動物文、家や什器(じゅうき)などを器物をかたどって彫り出したものなどがある。なお、アイヌは漆器を好んだが、その多くは和人との交易品であった。

(2)刺しゅう 女の工芸の代表的なもの。アツシ(アットゥ)などの衣服の袖、肩口、背、裾などに黒裂地(きれじ)を切り伏せて刺しゅうをしたものにその典型をみる。この切伏せと刺しゅうとは衣服や服飾品(手甲、脚絆、前掛け、袋物、鉢巻など)にかならず施されるものである。フランス刺しゅうと共通する技法もみられる。

(3)織物・編物 織物にはアツシがある。アツシはアットゥシカペという戸外機を用いて織るが、織機の各部には美しい彫刻が施されており、婚約者や夫によりつくられたものという。

 編物ではエムアッ(刀綬(とうじゅ))や花茣蓙(はなござ)が知られている。このうち、エムアッは礼装の際、太刀(たち)(エム)を肩から下げるための綬で、アツシと同じく樹木の内皮からとった繊維が用いられる。文様は緯糸(よこいと)を使っての編み込みで、非常に複雑な技法がとられている。

 刺しゅうや織物・編物の文様も彫刻と同様にモレウ文やアイウ文を変形、展開させたものが多いが、エムアッには亀甲(きっこう)文や菱形(ひしがた)文、花茣蓙には市松文が多くみられる。

 文様は彫刻、衣服などの用途によらず魔除け的な性格をもつとされる。また、その展開は左右対称によく似たものとなる。彼らはこうした文様を施すにあたって下絵を描くようなことはしない。美しい文様の型は幼児のころから両親や祖父母のつくるそれを体で覚えているのである。

[佐々木利和]

神話・伝説

アイヌには「ユカラ(ユーカラ)」とよばれる吟誦(ぎんしょう)形式の叙事詩がある。このユカラには鳥獣などの自然のカムイ(神)が自らの身上を叙する「カムイ・ユカラ」(神謡)、アイヌの始祖神の功業を内容とする(日高地方の)「オイナ」(聖伝)、さらに人間の英雄を主人公とし、その武勲、遍歴を物語る狭義の「ユカラ」(英雄詞曲)などがある。そのうち、重要な神話的内容をもっているのは「カムイ・ユカラ」と「オイナ」であるが、その他にも各地の伝説などに断片的ながら神話的説話や観念がみられる。

 この世の初め大地の創造にあたった神はコタンカルカムイ(国造神(くにつくりがみ))とよばれているが、この神は妹神とともに大海の中に陸地を築き、草木のない荒涼たる国土に山や川、島をつくり、そこに住む人間、動物、植物などを創造した。この国造神は鯨を串(くし)刺しにしてあぶったり、湖に入っても膝(ひざ)までしかぬれないというほどの巨人の神である。地上世界の創造が終わると、この神は妹神とともに天上の世界に帰ったが、その際、妹神が脱ぎ捨てたものが蛸(たこ)や亀(かめ)に、妹神の涙や洟(はな)が萱(かや)や他の雑草になったと伝えられている。

 天上世界にはカントコルカムイ(天をつかさどる神)があり、その命によって地上世界の造化がなされたことになっている。カントコルカムイをカンナカムイ(雷神)と同一視する伝承もある。天上世界は多数の神々の世界であり、アイヌの主要な食糧であった鹿や魚を地上の山野や川に下す神々も天上にいる。

 コタンカルカムイによって国土がつくられたが、その人間世界(アイヌモシリ)に降下してアイヌに生活の知恵を授けた、いわゆる文化英雄は、アイヌラックルもしくは、オキクルミであるが、またの名をアエオイナカムイ、オイナカムイなどといい、アイヌ始祖神として尊崇され、その功績は「オイナ」に語り伝えらている。一説ではアイヌラックルは大雪山に美しく立っていたハルニレの木を母神とし、父神は天神とも、雷神とも伝えられ、地上と天上世界を縦横に駆け巡って地上の魔神を征伐して、地下世界へ撃退する。ついで、生活の基盤となる狩猟、漁労、耕作の方法、食用・薬用の植物のこと、彫り物や機織り、刺しゅうなどの男女の手仕事、家や舟のつくり方、着物を仕立てることなどを教えた。さらに、イナウ(木幣)や酒を捧(ささ)げてカムイを敬い祀(まつ)ること、祈り詞(ことば)、さまざまな信仰儀礼の由来ややり方、争いの解決や調停の仕方、男女が各々に伝えるべき伝承に至るまですべての生活習慣がアイヌラックルもしくはオキクルミによって創始されたと語り伝えられている。また、天下る際に自分の脛(すね)のなかにヒエの種を隠し持ち、人間に穀物をもたらしたのはオキクルミである。オキクルミの説話にはサマイクルという兄弟が登場し、愚者、滑稽(こっけい)者の役を演ずることも、文化英雄の性格を知るうえでは留意すべきである。

 以上は創世神話であるが、日常、イナウや酒を捧げて祀られるのはアイヌの生活に直接かかわりのある自然――太陽、月、風、雨、雪や山、川、湖、そこにすむ鳥、獣、魚、昆虫、草や木――のカムイ、さらには火や船、疱瘡(ほうそう)などのカムイである。このような自然のカムイの素性、尊崇し祀られるべきゆえんを明らかにしているのが「カムイ・ユカラ」である。この「カムイ・ユカラ」の特徴は「サケヘ」という繰り返しの句をつけて、一人称形式で謡われることにある。その内容はカムイと人間との相互関係、すなわち、動物や自然そのものと人間とがお互いにどのようにかかわるべきであるかという行動や倫理的規範のわかりやすい説明である。この「カムイ・ユカラ」は、アイヌの口承文芸のもっとも大きな特徴であり、近隣の諸民族に類例のない特異なジャンルといえよう。

 アイヌの伝承では天上と地上の世界のほかに、地下世界が語られているが、この死後の世界については異なる二つの観念がみられる。「オイナ」ではアイヌラックルに滅ぼされた悪神や魔物が轟音(ごうおん)とともに地下世界に墜落していくさまが謡われているが、そこは湿った魔神の国である。それとは別に、人間が死後に赴く下の世界は、地上のアイヌの村と同じ様相を呈し、そこでは地上と同じ生活が営まれている。この世との違いは昼夜や夏冬が逆である点で、このような観念は北方の諸民族にも広く共通している。神話や伝説にみる限り、アイヌの人格神の世界を構成しているのは、天上の神々と文化英雄であり、地上のカムイは人格的であるよりは自然そのものの観念化である。そして、地下世界に君臨する神は明確でない。また、諸神の間にはより「重い」神、すなわち、だいじな尊い神という序列はあっても、上下関係がみられないことは、アイヌの社会との関連で留意すべきであろう。

[荻原眞子]

信仰

アイヌは、人間にかかわりあるものであれば、自然物であれ人工物であれ、基本的にはすべての「もの」に霊的なものが存在すると信じていた。しかしながら、霊的存在であってもそれには強弱があり、人間が神の力を借りなくても、その霊力を思うままにできる草木や器物は神になれないのである。神と霊との関係は次のようなものである。たとえば、丸木舟をつくろうと意図して大きな樹を伐採するときには、森を支配する神に理由を述べて許しを請い、その樹に宿る霊を森の神のもとに送り返す儀礼を丁重に執り行わなければならない。この手続を経て初めて森の神の加護が得られ、伐採中にけがなどの人身事故を避けることができるとされた。ついでこの原木から舟の形に手斧(ておの)で削っていくわけであるが、斧を入れる前とか、仕上がったときなど、仕事の折り目ごとに、神とのきずなをよい状態に保つために神に酒を捧げるカムイノミ(飲酒儀礼)を欠かさず行う。さらに、新しくできあがった舟を川に初めて浮かべるときは、チサンケ(舟おろしの儀礼)をして、その川の神に舟の安全を祈願するのである。

 またサケ漁の場合は、その年に最初にとれたサケを、神からの使者として特別に扱い、初漁の儀礼を行った。このあと、本格的に多量に捕獲するサケに対しては、儀礼とよべるものはなされず、とらえたら暴れさせないで瞬時に魚頭打棒(ぎょとうだぼう)でたたいて殺すことによって、その霊を魚体から離脱させて神のもとに送った。これによって鮮度が保たれ、暴れてうっ血させると味が落ちるということを防ぐ実利的な面も大きかったのであろう。

 人間の手によってつくりだされた器物自体も霊的存在とみなされた。使用できなくなった椀(わん)や鉄鍋(てつなべ)などの什器(じゅうき)類をはじめ祭具も含めて、あらゆる器物は単に捨ててはならず、特定の「送り場」に持って行き、そこで内在する霊を神の世界に返す手続をして、真の意味での形骸(けいがい)としなければならなかった。

 よく知られている「熊祭」は、正しくは飼い熊送り儀礼というべき内容のものであるが、仔熊(こぐま)をたいせつに育てて殺す考えも、肉体と霊との分離にほかならない。つまり、神の世界から人間の世界に熊の姿をして遣わされた熊神は、その仮装を解いて霊的な存在にならなければ、ふたたび神の世界へ帰ることができないのである。仮装に用いていた毛皮や肉は、熊神からアイヌに授けられる土産である。アイヌは、これに謝意を表すために、美しく削り掛けたイナウを立てて祈り詞(ことば)をあげ、団子や干魚などたくさんの土産を背負わせて、熊神の霊を神の世界へ送り届けるのである。このように歓待しておけば、熊神はふたたび自分たちのコタンをかならず訪れてくれるものと信じていた。

 このように、アイヌには、霊魂は不滅であり再生するという観念が確立している。人間の死も、アイヌは同じ考えに基づいている。死は、永遠の享楽を送ることができるユートピアに赴くための手段として欠かせないものである。あるアイヌは、死ぬことは怖くはないが、醜い遺骸(いがい)をこの世に残していかねばならないから悲しいのであると語ってくれた。

 アイヌの世界観は、垂直的には3層で構成されていると信じられていた。つまり、現実の人間の世界(アイヌモシ)は大地の上にあり、死後の世界(ポクナモシ)は地下に、そして神々の世界(カムイモシ)は天上にあるとされた。

 神々の体系は、至高神的性格のものは存在せず、パンテオンを構成していない。しかし、天神や雷神は他の神より高位にあるとされているが、儀礼の目的に応じて主役としての神の位置づけがなされる。たとえば、熊送り儀礼の祭壇であれば、熊神を中心に森の神、水の神、狩猟の神が祀られ、これより一段低い位置に先祖祭祀(さいし)の場が設けられる。

 アイヌの儀礼において、熊送り儀礼よりも場合によっては重要視されたといわれているものにフクロウ送りがある。フクロウはコタンを守護する神としてあるだけでなく、この儀礼の際には熊送りよりも広範な狩猟集団が参加して行われたという伝承がある。

 神々と人間とが儀礼を通して相互に依存しあい交歓することによって、神々から自然の恵みが授けられ、その永続性が保証されるものと信じられていた。したがって、人間のためにならない神であれば祀らないぞと脅かしたりもする。アイヌにおいては、神と人間とがほぼ対等な位置にあるとみてよい。

[大塚和義]

遊戯

古くはアイヌの子供の遊びは、大人になってから生活に必要なことを練習する場面が多く、蔓(つる)でつくった輪を転がし、横から突いて止め、槍(やり)の腕を競った。弓矢をもって小魚をとらえるのも、食物を手に入れると同時に弓が上達し、棒高跳びは身軽になるために役だった。アイヌ語だけで生活をしていた時代は遊戯など特別なものはなかったが、遊びの種類は約50種ほどあった。いずれも、狩猟民族としての心得を教えるものが多いように思われる。

[萱野 茂]

歌舞

歌はさまざまな儀礼のときに、神と人間とが交歓するためのものであり、善神に対してはその加護を願い、悪神に対しては威嚇して災いを排除するためのものである。旋律は単純なものが多く、これに掛け声や手拍子や行器の蓋(ふた)をたたいて拍子音を加えることが多い。楽器の種類はごく少なく、ムックリ(口琴(こうきん))やトンコリ(五弦琴)などが知られているにすぎない。

 舞踏は、呪術(じゅじゅつ)的行為としてなされるものと、儀礼のあとの余興的性格のものとしてなされるものの2種に分けられよう。前者のおもなものはタ(踏舞)といわれ、長老が刀を振りかざして悪霊を払いながら足を踏みならして示威行動するものである。後者は主として女たちが楽しむ踊りで、ホリッパ(輪舞)、ウポポ(神歌)、ハララキ(鶴(つる)の舞)などがある。

[大塚和義]

アイヌ研究史

アイヌに関する調査、研究は、16世紀中葉、耶蘇(やそ)会(イエズス会)の外国人宣教師たちによって始まった。ポルトガルの宣教師ルイス・フロイスの手紙(1565)やイグナシオ・モレイラIgnacio Moreira(1538―?)の記録(1591)にアイヌに関する記載がある。ついで17世紀に入ると、ポルトガルの宣教師ジロラモ・デ・アンジェリスやディオゴ・カルワーリュ(カルバリヨ)は北海道でアイヌと接触し、その風俗習慣を記録にとどめた。

 1669年(寛文9)シャクシャインの蜂起(ほうき)によって人々の北方への関心は高まり、水戸藩では探検船を北海道に派遣し、実地調査を行うほどであった。新井白石の『蝦夷志(えぞし)』(1720)にはアイヌに関する詳細な記事があり、日本人による最初の研究書といえよう。18世紀末、北方からのロシアの南下によって、人々の北方への関心はさらに高まり、幕府自体も、たびたび北海道、千島、樺太(からふと)方面の調査を行った。その結果、北方に関する情報とともに、最上徳内(もがみとくない)の『蝦夷草紙』(1790)、村上島之丞(しまのじょう)(1760―1808)の『蝦夷島奇観』(1800)、村上島之丞・間宮林蔵(まみやりんぞう)の『蝦夷生計図説』(1823)、上原熊次郎(くまじろう)(生没年不詳)の『蝦夷方言藻汐草(えぞほうげんもしおぐさ)』(1804)など、アイヌに関する諸記録、図鑑、アイヌ語辞典が刊行された。

 その後、欧米における近代の学問を身につけて来日した学者たちの間で、アイヌの人種論、起源論が日本人種論とともに論争された。ドイツ人学者シーボルト父子は日本石器時代人アイヌ説を、アメリカ人学者モースは、日本石器時代人はアイヌ以前に住んでいたというプレ・アイヌ説を唱え、やがて坪井正五郎(つぼいしょうごろう)をはじめとする日本人学者もこの論争に加わった。一方、バチェラー、金田一京助、知里真志保(ちりましほ)らによるアイヌ語、ユーカラの研究を母体として、風俗、習慣、歴史の研究も広く展開された。そして今日では民族学、民俗学、考古学、形質人類学、言語学などの学問の発達により、アイヌ文化の再検討の機運が熟し、北からみた日本史といった新しい課題を生み出した。また、1997年(平成9)に、アイヌ新法の制定、財団法人「アイヌ文化振興・研究推進機構」の設立によって、アイヌ民族の誇りが尊重される社会へ向けて、大きく、力強く一歩が踏み出された。

[櫻井清彦]

『埴原和郎他著『シンポジウム・アイヌ――その起源と文化形成』(1972・北海道大学図書刊行会)』『大林太良編『蝦夷』(1979・社会思想社)』『アイヌ民族博物館監修『アイヌ文化の基礎知識』(1993・草風館)』『北海道ウタリ協会アイヌ史編集委員会編『アイヌ史』資料編1~4、活動編(1988~1994)』『櫻井清彦著『アイヌ秘史』(1967・角川新書)』『高倉新一郎著『新版アイヌ政策史』(1972・三一書房)』『新野直吉・山田秀三編『北方の古代史』(1974・毎日新聞社)』『宇田川洋著『アイヌ考古学』(1980・教育社)』『宇田川洋著『アイヌ文化成立史』(1988・北海道出版企画センター)』『萱野茂著『おれの二風谷』(1975・すずさわ書店)』『松本茂美他著『コタンに生きる』(1977・徳間書店)』『新谷行著『増補アイヌ民族抵抗史』(1977・三一書房)』『結城庄司著『アイヌ宣言』(1980・三一書房)』『谷川健一編『近代民衆の記録――アイヌ』(1972・新人物往来社)』『河野本道選『アイヌ史資料集』Ⅰ期、Ⅱ期全15巻(1980~1985・北海道出版企画センター)』『海保嶺夫著『日本北方史の論理』(1974・雄山閣出版)』『海保嶺夫著『幕藩制国家と北海道』(1978・三一書房)』『海保嶺夫著『近世の北海道』(1979・教育社)』『海保嶺夫著『近世蝦夷地成立史の研究』(1984・三一書房)』『榎森進著『北海道近世史の研究』(1982・北海道出版企画センター)』『榎森進著『アイヌの歴史――北海道の人びと(2)』日本民衆の歴史――地域編8(1987・三省堂)』『松井恒幸著『遺稿から――旭川とアイヌ文化』(1983・松井恒幸遺稿集刊行会)』『砂沢クラ著『ク スクップ オルシペ――私の一代の話』(1983・北海道新聞社)』『エカシとフチ編纂委員会編『エカシとフチ』(1983・札幌テレビ放送)』『菊池勇夫著『幕藩体制と蝦夷地』(1984・雄山閣出版)』『石附喜三夫著『アイヌ文化の源流』(1986・みやま書房)』『北海道・東北史研究会編『北からの日本史』(1988・三省堂)』『花崎皋平著『静かな大地――松浦武四郎とアイヌ民族』(1988・岩波書店)』『上村英明著『北の海の交易者たち――アイヌ民族の社会経済史』(1990・同文館)』『根室シンポジウム実行委員会編『三十七本のイナウ』(1990・北海道出版企画センター)』『菊池勇夫著『北方史のなかの近世日本』(1991・校倉書房)』『海保洋子著『近代北方史――アイヌ民族と女性と――』(1992・三一書房)』『荒野泰典他編『アジアの中の日本史Ⅳ地域と民族』(1992・東京大学出版会)』『貝沢正著『アイヌ わが人生』(1993・岩波書店)』『菊池勇夫著『アイヌ民族と日本人――東アジアのなかの蝦夷地』朝日選書(1994・朝日新聞社)』『海保嶺夫著『エゾの歴史――北の人びとと「日本」』(1996・講談社)』『河野本道著『アイヌ史――概説』(1996・北海道出版企画センター)』『野村義一著『アイヌ民族を生きる』(1996・草風館)』『小川正人著『近代アイヌ教育制度史研究』(1997・北海道大学図書刊行会)』『小川正人他編著『アイヌ民族近代の記録』(1998・草風館)』『『人類学講座5、6 日本人Ⅰ、Ⅱ』(1978、1981・雄山閣出版)』『梅原猛・埴原和郎著『アイヌは原日本人か』(1982・小学館)』『金田一京助著『アイヌ叙事詩 ユーカラの研究』(1931・東洋文庫)』『アイヌ文化保存対策協議会編『アイヌ民族誌』(1969・第一法規出版)』『萱野茂著『アイヌの民具』(1978・すずさわ書店)』『山本祐弘著『樺太アイヌ・住居と民具』(1970・相模書房)』『更科源蔵著『アイヌ文学の生活誌』(1973・NHKブックス)』『金成マツ・金田一京助訳『アイヌ叙事詩 ユーカラ集』全9巻(1993復刊・三省堂)』『久保寺逸彦著『アイヌの文学』(1977・岩波新書)』『久保寺逸彦著『アイヌ叙事詩神謡・聖伝の研究』(1977・岩波書店)』『知里真志保著『知里真志保著作集』(1973~1976・平凡社)』『知里幸恵編訳『アイヌ神謡集』(1978・岩波文庫)』『萩中美枝著『アイヌの文学・ユーカラへの招待』(1980・北海道出版企画センター)』『四辻一郎編『アイヌの文様』(1981・笠倉出版社)』『山田秀三著『アイヌ語地名の研究』(1982~1983・草風館)』『山田秀三著『アイヌ語地名を歩く』(1986・北海道新聞社)』『宇田川洋著『イオマンテの考古学』(1989・東京大学出版会)』『萱野茂著『萱野茂 アイヌ語辞典』(1994・三省堂)』『大塚和義著『アイヌ――海辺と水辺の民――』(1995・新宿書房)』『松下亘・君尹彦編『アイヌ文献目録・和文編』(1978・みやま書房)』『ノルベルト・アダミ編・小坂洋右訳『アイヌ文献目録・欧文編』(1991・サッポロ堂書店)』

出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例

百科事典マイペディア 「アイヌ」の意味・わかりやすい解説

アイヌ

現在,主として北海道に居住する日本列島の先住民族。欧文表記はAinu。人口は北海道に2万数千人,道外に数千人といわれるが,正確な数は不明。〈アイヌ〉はアイヌ語で〈神に対する〉人間,人を意味し(ほかに夫・父などを指す場合もある),アイヌ人・アイヌ民族をいう場合にも用いる。アイヌは,北海道,千島列島樺太(サハリン)を〈アイヌモシリ(アイヌの住む大地)〉として,固有の言語と文化を持ち,共通の経済生活を営み,独自の歴史を築いた集団であり,アイヌ民族に帰属することを自認する人々である。 アイヌの起源については様々な説がとなえられてきたが,現在,自然人類学の上からは,縄文時代に広く日本列島に生活していた人々のうち列島北方を居住地としたものが,弥生時代以降も著しい形質上の変化を被らずに中・近世にまで至り,アイヌ民族の主体をなしたという説が有力である。和人(シャモ)は華夷思想の影響をうけて近世末まで〈夷〉〈毛人〉〈蝦夷〉などと記し,〈えみし〉〈えびす〉〈えぞ〉などと呼んできたが,近世以前にこうしたことばで表現された人々がすべてアイヌであったわけではなく,その具体相についてはまだ明確にはなっていない。大和政権と〈蝦夷(えみし)〉の接触は,記録の上では7世紀中葉の阿倍比羅夫(あべのひらふ)の北方遠征が最初で,このことを記す《日本書紀》には,〈飽田(あきた)・渟代(ぬしろ)〉2郡の〈道奥(みちのく)の蝦夷〉,〈津軽郡の蝦夷〉,〈渡島(おしま)・胆振【さえ】(いぶりさえ)の蝦夷〉が登場する。この記事の〈蝦夷〉の理解には諸説あるが,〈渡島・胆振【さえ】の蝦夷〉は北海道南部に住むアイヌの祖先,〈津軽郡の蝦夷〉はこれと密接な交流のある人々とみる説が妥当であろう。〈道奥の蝦夷〉とアイヌとの関係については不分明である。阿倍比羅夫の遠征以後,律令国家は武装植民の形で蝦夷(地)経略を進め,華夷意識を伴う領土拡大政策は,その後も権力層に引き継がれていった。 縄文時代の終りごろまで日本列島はほぼ同様の歴史を刻んできたが,紀元前400年−前300年ごろから列島中央部(本州・四国・九州)に住む人々の多くが稲作を主軸とした農耕社会へ移行していったのに対し,列島北方地域では,狩猟・漁猟・採集を主とした文化が存続した。〈続縄文文化〉と呼ぶ。この文化は8世紀ころに〈擦文(さつもん)文化〉に移行,12世紀−13世紀まで続いた。〈擦文文化〉は北海道のほぼ全域に展開し,津軽半島や下北半島にも痕跡を残している。13世紀は〈擦文文化〉から〈アイヌ文化〉への移行期で,このころからアイヌ文化・民族の形成が始まり,14世紀以降本格的に展開していったと考えられている。15世紀中葉,津軽半島の十三湊(とさみなと)を本拠としていた安東(安藤)氏が南部氏に追われて渡島半島に逃亡,侵入,アイヌの生産・生活の場であった主要河川の流域や海岸線に勢力を扶植していったため,アイヌと和人との対立抗争が繰り返され,ついに1456年−1458年のアイヌの蜂起となった(コシャマインの戦)。この戦は和人の勝利に終わり,戦功をあげた武田信広が蠣崎(かきざき)氏を継いで,〈道南十二館〉を核とした和人社会の覇権を握った。武田(蠣崎)氏(松前氏の祖)は道南支配の拠点として〈上ノ国〉に勝山(かつやま)館を築くとともに,1551年〈夷狄(いてき)の商舶往還の法度(はっと)〉を公布して,天ノ川〜知内(しりうち)川間の地を和人専用の地(和人地)とした。この法度は,一面ではアイヌとの講和的性格をもち,以後1世紀ほどは比較的良好な関係が維持された。この時期のアイヌの人々の様子は,フロイスやアンジェリス,ディオゴ・カルバリョら宣教師の報告からうかがうことができる。それらによれば,彼らは海洋・交易民であり,自分たちの産物(鮭・鰊などの干物,白鳥・鶴や鷹などの猛禽類,鯨やトドなど)のほか周辺諸民族との交易で得た産物を〈和人地〉や奥羽北部にもたらし,綿,米(酒米・麹米),酒などと交換していた。なお水田はなく,栽培穀物は稗(ひえ)が主であったようである。しかしこうした関係も内部には矛盾をはらんでおり,さらに松前藩の成立と同藩の商場(あきないば)知行制の展開のなかで,アイヌの人々に対する過酷な収奪や漁猟場の破壊が進み,1669年アイヌの近世期最大の蜂起〈シャクシャインの戦〉が起こる。鎮圧戦を進める中で松前藩は,アイヌに対し絶対服従を誓わせた七ヵ条の起請文(きしょうもん)を強要,以後松前藩のアイヌに対する政治的経済的支配は一段と強化され,元禄〜享保期(1688年−1736年)に場所請負制(ばしょうけおいせい)が成立すると,〈蝦夷地〉のアイヌの多くは交易相手から漁場の労務者へと変質を強制させられていった。松前藩と〈奥蝦夷地〉のアイヌとの間では,18世紀後半まで商場での交易関係が続いていたが,1780年代に商場を請け負っていた飛騨屋が漁場経営に切り替え,商場内のアイヌを酷使したため,1789年国後(くなしり)・目梨(めなし)のアイヌが蜂起した(国後・目梨の戦)。しかしこの蜂起も幕府・松前藩によって鎮圧され,近世末には蝦夷地全域は事実上,幕府・松前藩の統治下に置かれることになり,古代以来,武装植民の形で進められてきた蝦夷地経略=領土化が完了した。 明治政府は1869年,南千島を含む〈蝦夷地〉を北海道と改称,アイヌの人々を一方的に〈日本人〉に編入,アイヌ固有の歴史・文化を否定する同化政策を強力に推し進めた。近世期までの領土化に加え,〈皇民化〉をはかったのである。しかもそれは和人と対等な〈皇民化〉ではなく,著しく差別的な政策であったことは,1875年アイヌの呼称を〈蝦夷人〉から〈旧土人〉と改称したことに端的に表現されている。この〈皇民化〉,同化政策のなかでアイヌの人々は自らの文化・母語の放棄を余儀なくされていった。明治政府は1899年,アイヌのさらなる同化と農耕・定住化をはかるため,〈保護〉を名目に〈北海道旧土人保護法〉を公布した。この法律制定は1879年の琉球占領(いわゆる琉球処分),1895年に開始された台湾統治(植民地化)といった明治政府の対外膨張政策,植民地政策(異民族管理)とも密接な関連をもっており,保護法の内容は1887年に米国で制定された〈一般土地割当法(通称ドーズ法)〉に範をとったのではないかという指摘がある。この法律は1937年,1946年,1947年に一部改正や条項の削除がなされたが,その制定経緯,歴史性,内容,差別的名称にもかかわらず1997年まで存続した(同年5月〈アイヌ文化振興法〉が成立,保護法は廃止)。近世以来の〈和人〉による支配,〈アイヌ政策〉,とりわけ明治政府の同化政策のなかで,土地を奪われ,民族固有の歴史や文化を否定され,母語さえも放棄せざるを得ない状況に追いやられたアイヌの人々は,ただこれを甘受していたわけではない。1920年代以降,差別的な制度の廃止,偏見の打破を目指した個人や組織の言論活動や運動が展開され,第2次大戦後,こうした動きは一層活発になった。1980年代以降は〈保護法〉撤廃,〈アイヌ文化振興法〉制定を目指した運動を核に,伝統的な文化の保存と復興,次代への継承,母語の復権など〈アイヌ民族〉の再構築への取組みが様々な場で意欲的に行われている。しかしアイヌの人々に対する差別や偏見,同化主義は今もなお〈和人〉社会に根強く存在しており,こうした意識の克服が〈和人〉社会に課せられている。
→関連項目アイヌ文学蝦夷地奥州藤原氏蠣崎氏金成マツ皇民化政策コタンコロボックルサハリン山丹交易先住民族知里真志保日本場所請負バチェラー平取[町]北海道松浦武四郎

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「アイヌ」の意味・わかりやすい解説

アイヌ
Aynu; Ainu

主として北海道に居住する少数民族。かつては北海道,サハリン(樺太),千島に住み,それぞれ北海道アイヌ,樺太アイヌ,千島アイヌと呼ばれた。言語学的には孤立した地位を占める。形質状の特徴からコーカソイドに属すると考えられたこともあったが,今日ではモンゴロイドの枠内に入るという説が確定している。文化的には北方ユーラシアの狩猟民文化とのつながりが強い。以前は狩猟,漁労を主たる生業とし,同一祖先から分かれた血縁集団が集まってコタンと呼ぶ集落を形成,森羅万象にカムイ(神)が宿るとする信仰を有していたが,同化政策の結果,アイヌ民族の文化と社会は大きな変化を余儀なくされた。アイヌはほとんどが日本国内に居住し,人口は 2万人あまりとされるが,正確な数は不明。熊祭(イヨマンテ)やユーカラは広く知られる。2009年アイヌ古式舞踊(→アイヌ舞踊)が世界無形遺産に登録された。

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「アイヌ」の解説

アイヌ

日本列島の古くからの住人で,アイヌ語を母語とし,アイヌ文化のもとに同族意識をもっている人々およびその子孫をいう。文化的には北海道アイヌ・樺太(からふと)アイヌ・千島アイヌに分類できる。狭義には北海道に居住する北海道アイヌをさす。日本国内の少数民族であるため,政治的・社会的・文化的に多くの不利益な扱いをうけてきた歴史をもつが,近年は,失われた権利の回復と言語・文化の復興をめざしてさまざまな活動を行い,アイヌ新法制定運動はその大きな核となっている。往時は狩猟・採集が生業で,コタン(村)を単位とする社会生活を営んでいた。アイヌとは神に対しての「人間」であり,女に対しての「男」の意。近世文書には蝦夷(えぞ)と記されるが,アイヌと思われる「蝦夷」を記した初見は1356年(延文元)成立の「諏訪大明神絵詞」である。

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旺文社日本史事典 三訂版 「アイヌ」の解説

アイヌ
Ainu

北海道・樺太 (からふと) ・千島に現存する一種族
人種・民族の系統不明。アイヌが縄文文化を営んでいたという説(アイヌ人説)のほか,倭王武の上表文にみえる毛人や古代史の蝦夷 (えみし) もアイヌだという説がある。

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デジタル大辞泉プラス 「アイヌ」の解説

アイヌ

イタリア、デルタ社の筆記具の商品名。「インディジナスピープル コレクション」シリーズ。2005年発売。ロシア、北海道のアイヌ族をイメージ。万年筆とボールペンがある。

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世界大百科事典(旧版)内のアイヌの言及

【蝦夷】より

…ただしその呼称・内容は,時代・地域によって大きく異なり,その性格を一義的に規定することを困難にしている。また,アイヌとどうかかわるかもむずかしい問題である。このことばは,もともと政治的・文化的に〈中央〉を意味した朝廷に従わない人たち(まつろわぬ民),その意味で未開・野蛮な人たち(あらぶる人)をさす中華観念にもとづいているから,人種的観念であるアイヌか日本人かという議論の立てかたとは一致しないところがある。…

【蝦夷地】より

蝦夷の居住地,のちアイヌの居住地を指す。蝦夷観念の変化に伴い蝦夷地の地域概念にも変化がみられた。…

【蝦夷地交易】より

…蝦夷概念のいかんによって意味内容も異なってくるが,蝦夷=エゾ=アイヌという概念が定着した鎌倉時代以降は,アイヌまたはアイヌの主たる居住地である夷島・蝦夷地(現,北海道)との交易をさす。本州社会とアイヌとの交通・交換関係はすでに古代からみられたが,それが歴史的に積極的な意味をもつようになるのは,社会的地域的分業の発展を背景に隔地間交易が発展してくる鎌倉時代以降のことである。…

【国後・目梨の戦】より

…アイヌ民族の松前藩に対する近世最後の武力闘争。近世には〈寛政蝦夷乱〉〈国後騒動〉〈寛政元年蝦夷騒擾〉などと称されたが,近代以降は〈寛政元年の蝦夷騒乱〉〈寛政の乱〉〈国後・目梨の乱〉〈クナシリ・メナシ地方アイヌの蜂起〉などとも称される。…

【熊祭】より

…熊の生息する北方ユーラシア,北アメリカ北部の森林地帯の狩猟民が熊を殺すときには,(1)熊の殺害,(2)肉の消費,(3)霊の送り(=甦り(よみがえり))という3場面で構成され,各場面が各種の呪言・禁忌を伴う一連の儀礼よりなる祭事を行っていた。所によってはいずれかの場面がとくに強調されることもあるが,このような〈熊の殺害をめぐる儀礼複合〉を総称して〈熊祭〉と呼ぶ(祭り的色彩の強いアイヌ,ニブヒ,ツングース,オビ・ウゴル,ラップの事例を熊祭と呼び,そのほかは熊崇拝=儀礼として区別する立場もある)。熊祭の汎北半球的分布(ツンドラ帯は除く)についてはアメリカの人類学者ハロウェルAlfred I.Hallowellの博士論文(1926)でつとに明らかにされており,各地の事例の間に驚くべき類似性のあることが注目された。…

【コーカソイド大人種】より

…この東方にはインド・アフガン人種がいる。アイヌも波状毛,多毛などコーカソイド的特徴を示すが,モンゴロイド的な特徴も多く,分類が困難である。【寺田 和夫】。…

【コシャマインの戦】より

…室町中期,北海道渡島(おしま)半島を舞台にしたアイヌ民族の蜂起。1456年(康正2)春,箱館近郊志濃里(しのり)(現,函館市志海苔町)の鍛冶屋村で和人がアイヌの青年を刺殺したことに端を発し,翌57年(長禄1)東部アイヌの首長コシャマインに率いられたアイヌ民族の大蜂起へと発展した。…

【指紋】より

…日本内での地方差があるが,整然とした形では認めにくく,かつ,そう著しいものではない。ただしアイヌは弓状紋3%・蹄状紋65~70%・渦状紋25~30%程度の白人的な出現率を示す。 先天性異常では,一見して異常と考えられる紋理の出現や,紋理の形態は異常とはいえないが,正常群との間に統計的に頻度の差がみられ,隆線の形成不全ないし形成異常が認められる。…

【住居】より

…インドにおいて,住居から都市までその建設の指針とされてきたシルパシャーストラ(《マーナサーラ》)や中国の風水説では,住居をミクロコスモスと考え,人体とも対応する宇宙(マクロコスモス)を反映するしかけとして説いている。無文字社会においても,バリ島やアイヌの住居に見るように,海と山,天と地,あるいは川上と川下といった方向軸に沿った民俗方位が発達し,住居はそこで世界の中心として位置づけられ,コスモス・イメージ(宇宙像)を演出する場となる。 こうして住居は,その本質において儀礼の場となる。…

【太陽】より

… 太陽崇拝は,採集狩猟民の世界にも見られることもある。北海道のアイヌは日食や月食のときに,大地を踏みとどろかせ喚声をあげて光の神の危急を救おうとした。しかしアイヌはふつう太陽神や月神に木幣(ヌサ)をあげることはほとんどない。…

【知里真志保】より

…アイヌ民族出身の言語学者,民俗学者。アイヌの叙事詩ユーカラの伝承者として有名な金成(かんなり)マツをおばとし,《アイヌ神謡集》(1923)の知里幸恵(ゆきえ)を姉として,現在の北海道登別市に生まれた。…

【ツキノエ】より

…国後島トウブイのアイヌの首長。生没年不詳。…

【箱館奉行】より

…最初の奉行は戸川安諭(やすのぶ),羽太正養(はぶとまさやす)。 幕府は,蝦夷地支配の眼目をアイヌの〈懐柔・撫育〉にありとして,アイヌ交易の是正,風俗の同化,さらには教化を目的とした蝦夷三官寺(国泰寺等澍院善光寺)の建立などの政策を断行したが,蝦夷地支配の本来的な目的は,ロシアの南下に対する対応と蝦夷地収益の2点にあり,アイヌに対する政策も親露化の防止という観念から行われたものであった。また,蝦夷地の警備は弘前,盛岡2藩に命じ,非常時には秋田,庄内,仙台,会津諸藩にも出兵を命じた。…

【場所請負】より

…18世紀前期に成立し,明治初年に廃止された。 近世初頭,松前藩は渡島(おしま)半島南部の和人地を直轄するとともに,それ以外の北海道の海岸部を,アイヌの各部族の支配領域に対応させて〈場所〉という領域に区分し,場所のアイヌとの交易独占権を上級家臣に知行として分与した。これは松前藩自体が江戸幕府から与えられた蝦夷地交易独占権を,家臣に分与した商場(あきないば)知行制とみられる。…

【ヘナウケの戦】より

…1643年(寛永20),西蝦夷地セタナイ(現,北海道瀬棚郡)―シマコマキ(島牧郡)地域のアイヌ民族が反松前藩の行動に立ちあがった,近世におけるアイヌ民族の最初の戦い。ヘナウケはアイヌの首長名。…

【和人地】より

松前藩が蝦夷島統治策の一つとして,和人の定住地,村の所在地と規定した蝦夷島南部の一定地域のこと。和人地以北の地を〈蝦夷地〉(千島・樺太島の一部を含む)と称し,アイヌ民族の居住地とした。こうした地域区分体制は,直接的には松前氏のアイヌ交易独占を実現する方策として成立したものであったが,同時に,幕府(長崎)―オランダ・中国,島津氏(薩摩藩)―琉球,宗氏(対馬藩)―朝鮮,松前氏(松前藩)―蝦夷地(アイヌ民族)という鎖国体制下の〈四つの口〉を介した異域・異国との外交・通交関係を軸とした日本型華夷秩序の一環として位置づけられていたところに大きな特徴がある。…

※「アイヌ」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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