プルマン・ストライキ
ぷるまんすとらいき
Pullman Strike
アメリカ合衆国の19世紀末の労働争議。1894年5月、シカゴ郊外にあった発明家プルマンGeorge Mortimer Pullman(1831―97)の経営するプルマン寝台車製造会社の大幅賃金切下げに抗議して、アメリカ鉄道組合に属する労働者がストに入った。会社側が交渉拒否、首切りの挙に出たため、デブス(後の社会党党首)を長とする同組合は、6月下旬、寝台車取扱いをボイコットし、各地で鉄道輸送を止めた。経営者団体が、同時に郵便車阻止となるように工作したため、組合側は公務妨害を問われることになった。政府は作業員を派遣して一部列車を動かし、裁判所は差止め命令を出した。なお従わぬ組合に対し、クリーブランド大統領は連邦軍を派遣し、抵抗する労働者に発砲させたため、7人死亡、多数負傷のうちに組合は敗れた。デブスは法廷侮辱および州際通商妨害による反トラスト法違反で投獄され、社会主義思想に傾いていった。また、このとき用いられた差止め命令と反トラスト法は、その後長く労働者を苦しめるものとなった。
[長沼秀世]
出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例
プルマン・ストライキ
Pullman Strike
1894年5月 11日から7月 20日にわたってアメリカのシカゴ南郊のプルマン車両会社で行われたストライキ。 93年の恐慌の影響下で賃金の 25%カット,家賃その他諸経費の据置きという会社側の措置に反発したアメリカ鉄道組合員によって始められ,E.デブズの指導下にプルマン社製の車両の牽引拒否に進展し,ストライキの影響はアメリカ全土に波及した。大統領 G.クリーブランドは治安維持と郵便物の遅配防止の見地から連邦軍隊 2000人を出動させて鎮圧,7月 20日ストライキは事実上崩壊した。
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世界大百科事典(旧版)内のプルマン・ストライキの言及
【クリーブランド】より
…金本位制維持の立場から,シャーマン銀購入法を撤廃(1893)する一方,公約の関税引下げを試みたが,保護関税派の反対にあい果たせず,インフレ策を求める民主党員らの不満を買う。94年のプルマン・ストライキではスト禁止命令を発する一方,連邦軍を派遣してストを鎮圧したことから,労働者の反発を招く。恐慌および党内の分裂の責任を問われ,96年にその政治生命を終える。…
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出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」