日本大百科全書(ニッポニカ) 「クリーブランド」の意味・わかりやすい解説
クリーブランド(アメリカ合衆国)
くりーぶらんど
Cleveland
アメリカ合衆国、オハイオ州北東部、エリー湖岸にある工業都市。人口47万8403(2000)。ニューヨーク、シカゴという二大都市を結ぶ、合衆国でもっとも人口集積、工業集積の高い地域の中間点に位置する利点を有し、同市の大都市圏人口は全米第19位、州人口の30%が同市を含むグレーター・クリーブランド(カホーガ郡)に集中している。大市場を控え、ミネソタの鉄鉱石、ペンシルベニアの石炭、石油など工業原料が容易に入手できるという恵まれた条件を生かし、大工業都市として発展している。五大湖最大の鉄鉱石受容高を誇る港は、工業製品の輸出港としても活躍するほか、11の航空会社の入るクリーブランド・ホプキンズ国際空港や、鉄道、ハイウェーなどの陸上交通網も発達し、交通の要衝としても重要である。経済の支柱をなす工業は多様化しているが、なかでも工作機械、工業装置は合衆国最大の生産地の一つである。そのほか製鉄、鉄鋼、自動車、製油、食品加工なども盛ん。工業化に伴ってエリー湖、カホーガ川などの水質汚濁、大気汚染がクローズアップされ、長年の懸案となっていたが、近年はクリーンアップ作戦がかなりの効果を現し、ダウンタウンの再開発も進められた。
1796年、コネティカットのクリーブランドMoses Cleaveland(1754―1806)により町が創設され、1836年に市制が施行された。1832年のオハイオ‐エリー運河の開通が商工業の発達への大きなきっかけとなった。南北戦争に前後して鉄鋼業、石油工業の中心地となり、これを契機に、国内はもとよりヨーロッパ各地から高い技術を有する労働者が集まり、その多くが定着した。彼らの技術が、同市の中心工業となった工作機械、自動車部品工業の発展に大きく寄与した。J・ロックフェラー、ウェードJeptha Homer Wade(1811―1890)など多くの後援者にも恵まれて、クリーブランドは工業都市であると同時に、合衆国有数の教育・文化の中枢都市として名高い。同市を中心としたグレーター・クリーブランド圏内は質・量ともに優れた施設を誇り、ケース・ウェスタン・リザーブ大学、州立大学、クリーブランド美術大学、クリーブランド音楽大学、ノートルダム女子大学がその中心をなす。とくに研究・技術部門に優れ、大学の研究施設以外にも電気・航空機関係企業の研究所が多い。心臓・肝臓を主とした医療技術の研究は世界の最先端をゆき、前記のケース・ウェスタン・リザーブ大学やクリーブランド・クリニックがその中心をなしている。多様な人種の集まりで文化的にも多様化し、しかも質も高い。世界的に有名なクリーブランド管絃楽団の本拠地となるシビアランス・ホールやセブランス・ホール、クリーブランド美術館や自然科学博物館が多く集まるユニバーシティ・サークルは同市の文化の中心地といえる。中央のパブリック・スクエアを軸に、同市を囲むように整然と配置された総面積7082ヘクタールの美しい都市公園は、エメラルド・ネックレスとよばれて市民に親しまれている。また、野球、フットボール、テニス、スキーなどスポーツ施設も整備されている。
[作野和世]
クリーブランド(Stephen Grover Cleveland)
くりーぶらんど
Stephen Grover Cleveland
(1837―1908)
アメリカ合衆国第22代、第24代大統領(在任1885~89、1893~97)。3月13日ニュー・ジャージー州に生まれる。弁護士、バッファロー市長(1881~82)、ニューヨーク州知事(1883~85)を経て、1884年大統領選挙で辛勝、南北戦争(1861~65)後初の民主党政権を実現し、自由放任を信奉し、保護関税に反対した。92年選挙で再選され、93年恐慌に東部大資本と結んで対処、通貨膨張に反対して銀購入法を撤廃し、関税引下げに努め、プルマン・スト弾圧のため連邦軍を派遣した。対外的には自由貿易帝国主義を推進、海外領土獲得に反対する立場から93年、議会のハワイ併合案を拒否したが、他方、貿易の増進と海外市場拡張に力を注ぎ、イギリスに対抗して西半球でのアメリカの覇権を主張。96年選挙で民主党自由銀派のブライアンに大統領候補指名を奪われ、政界を退いた。1908年6月24日没。
[高橋 章]