②の挙例の「哲学字彙」には「驚慌」が当てられているが、「恐慌」という表記が経済用語として一般化したのは、一九世紀末からで、日本が実際に経済恐慌に見舞われた後である。
資本主義的商品経済にしばしばくり返されてきた経済的な攪乱(かくらん),麻痺(まひ),破綻(はたん)状態を指す。原語に2系統あり,そのうち,クライシスはもともとは病気の危機的峠を意味し,パニックはギリシア神話の牧神パンの気まぐれのひきおこす狼狽(ろうばい)を意味していた。それゆえ,パニックは資本主義経済の市場機構に生ずる急性的崩壊現象にあてはまり,クライシスはそれをも含めより構造的な経済危機に妥当する用語であって,恐慌という訳語は,文脈によってその両方の事象を含みうる。典型的な姿においては,恐慌は好況から不況への転換を媒介する景気循環の一局面をなしていた。第2次大戦後1960年代にかけての持続的な経済成長のなかで,経済恐慌はすでに歴史的に過去の事象となったとひろく信じられていたのであるが,73年末以降の長期世界不況の進展に伴い,ふたたび恐慌の歴史と理論に大きな関心がよせられつつある。
資本主義経済が,16~17世紀以降産業革命にかけての生成期,その後19世紀1860年代にかけての成長期,さらに19世紀末以降の爛熟期と世界史的に発展変化するにつれて,恐慌の性格も歴史的に大きく変容してきた。
16世紀に世界商業が飛躍的に拡大しはじめ,西ヨーロッパ諸国の中世的社会が解体され,各国内部にも商品経済が浸透していくなかで,各商業都市に商取引や貨幣・信用取引が集中されるにしたがい,ときおり集中された取引関係における支払不能の連鎖が同時に広範に生ずるようになる。たとえば,16世紀中ごろには王侯の財政不始末からアントワープとリヨンに有価証券取引所の崩壊現象が生じ,1637年にはオランダの諸都市にチューリップの球根の投機的取引の発展と崩壊からチューリップ恐慌が生じ,67年にはイギリス・オランダ戦争のあおりでロンドンにパニックが生じて銀行の取付けをみている。また,1720年にはフランスでロー・システムLaw's Systemの崩壊,イギリスではサウス・シー・バブルスSouth Sea Bubbles事件(南海泡沫事件)と呼ばれる恐慌現象が生じたが,それらはともに国債軽減のために作られた独占的特許貿易会社の株式の投機的取引の発展と,イギリスではそれに伴う泡沫的株式会社(泡沫会社)の設立投機熱との崩壊によるものであった。さらに,アメリカ独立戦争やナポレオン戦争の開始,進行,終結などに関連して,イギリスその他に恐慌現象が生じている。これらの初期的恐慌は,しばしば財政破綻や戦争のような経済外的事件から生じ,したがって法則的周期性をもたず,投機的取引の崩壊から生ずる場合も含め,流通表面の局部的な攪乱現象にとどまり,都市の金融恐慌・商業恐慌が全社会の再生産に与える影響はまだ比較的限られたものであった。
産業革命を経て,イギリス資本主義が綿工業を中心に世界の工場の位置につき,自由主義段階の成長期に入ると,恐慌現象も周期的恐慌として典型的様相をおびる。すなわち,イギリスには1825年,36年,47年,57年,66年とほぼ10年の規則的な周期性をもって恐慌が反復され,それぞれの恐慌は一様に,ある期間にわたる好況とその末期の投機的発展の崩壊として現れ,その後またある期間にわたる不況を経て好況が再現する周期的な景気循環の一局面をなしていた。その発生過程では,イギリス綿工業の過剰な資本蓄積が,原料綿花や労賃の騰貴を招いて行き詰まるとともに,投機的な商取引が信用を大規模に利用してすすめられ,やがて貨幣市場の逼迫(ひつぱく)を介して崩壊が始まるのが常であった。そのさい,投機取引の破綻に始まる商業恐慌commercial crisisと,それに伴う商業手形流通の麻痺,支払不能の連鎖の拡大を伴う信用恐慌credit crisisないし金融恐慌financial crisis,およびそれらを通ずる産業恐慌industrial crisisによる生産の収縮と失業の急増の3面が相互媒介的に進行し,全面的激発性を示すところに,典型的恐慌現象のもうひとつの特徴があった。さらにイギリスの恐慌は,イギリスを中心に編成されていた当時の世界市場編成のなかで,かならず世界市場恐慌として現れ,内外にわたりイギリス産業資本の蓄積条件を再調整する契機となっていた。
1873年恐慌にさきだつ好況の主軸は,イギリスの資本輸出,アメリカ,ヨーロッパの鉄道建設,石炭・鉄鋼業の繁栄の関連に移され,その破綻に伴い,ニューヨークやヨーロッパ諸都市には急性的恐慌が生じながら,金融中心地ロンドンは金融恐慌をみることなく不況に転換していく。それに続く1873-96年は,イギリス産業の過剰な固定資本の処理の困難,生産力の停滞,物価の低落傾向,利子率の低水準などにみられる〈大不況Great Depression〉が支配した時期であり,そのなかに生じた1882年恐慌や1890年恐慌にかけての好転も,微弱で短命なものであった。しかもその間,いわゆる交通革命の影響をうけてアメリカや東欧から安価な穀物が流入し,構造的な農業恐慌が存続した。この大不況の重圧のもとに,資本主義は巨大産業株式会社としての金融資本を支配的資本とする帝国主義段階に移行する。大不況後は,イギリス,アメリカ,ドイツに大規模な企業合同運動が進展して金融資本が確立される時期に生じた1900年恐慌や,金融資本の世界的な蓄積機構,とりわけ国際金本位機構を介して世界的連動性を顕著に示した1907年恐慌をはさみながら,概して世界的な景気は好況的に推移し,資本主義の矛盾はむしろ世界戦争の危険に転化されていく傾向がみられた。
第1次大戦は世界経済にさまざまな衝撃やひずみを残し,1920年代の短期的な相対的安定期を経て,29年10月のニューヨーク株式市場の暴落(暗黒の木曜日)をきっかけに大恐慌の発生をみることとなる。33年春にかけてアメリカの失業率は25%に激増し,世界的な農業恐慌も再現し,その不況圧力のもとにブロック経済とファシズムが台頭し,第2次大戦が必然化されていく。
第2次大戦後は,アメリカの産業的・政治的覇権のもとでのドル資金の散布,一連の技術革新の進展,相対的に安価な一次産品と労働力の入手可能性など,資本主義中枢諸国の復興と持続的成長に有利な諸条件が存続し,ときおりの景気後退はあっても,ケインズ的有効需要政策により恐慌は回避できるようになったと考えられていた。しかし,60年代にかけての持続的経済成長を通じ,それを支えていた諸条件がつぎつぎに失われていく。70年初頭には労働市場と一次産品の供給余力に対し中欧諸国の資本が過剰に蓄積されて,労賃と一次産品価格がつぎつぎに高騰し,ドル危機を介しての固定為替相場制度の崩壊によるインフレーションの昂進とあいまって,73年末から75年にかけてインフレーショナル・クライシスが生じ,ついでスタグフレーションないしスランプフレーションと呼ばれる長期世界不況が進展し,世界政治の動向にも重大な影響を与えつつある。それは1873-96年と1930年代とに続く3度目の大不況であり,帝国主義段階以降の恐慌の形態変化は,ほぼ10年前後のジュグラー循環Juglar cycleと3年前後の在庫投資の変動によるキチン循環Kitchine cycleとの反復を内部に含む,50年前後のコンドラチエフ循環Kondrat'ev cycleの下降局面にあたる事象とその政治的影響とを歴史的に重要な問題としてきている。
A.スミスやD.リカードに代表される古典派経済学は,資本主義経済を自然的自由の秩序とみなし,市場の自由な運行によって予定調和が実現されるものとみていたので,偶然的で部分的な攪乱は生ずるとしても,全般的過剰生産や恐慌は生ずるはずがないと考えていた。S.deシスモンディやT.R.マルサスはリカードに対立し,資本主義は過少消費や有効需要の不足からたえず過剰生産を生ぜざるをえず,したがって自立的には成長しえない経済体制であるとみていた。その後,産業革命を経たイギリス資本主義は,一方で自由主義政策のもとで周期的恐慌としての全般的過剰生産現象を反復し,リカードらの理論的期待を裏切るとともに,他方で恐慌を反復しつつ自立的な経済成長も達成していき,シスモンディらの主張にも反する状況を示していた。それをうけて,自由主義段階の典型的恐慌に抽象の基礎をおき,特殊な歴史過程としての資本主義経済の運動法則を解明しつつ,周期的恐慌の原理に体系的考察をすすめたのがK.マルクスであった。恐慌の性格は時代によって大きく変化し,資本主義の初期や末期には経済外的な戦争や政治過程との関連が大きく,周期性や経過の一様性も認めがたいので,資本主義経済自体の発展から内的にしかも周期的に恐慌が発生する法則的原理は,マルクスとともに自由主義段階に抽象の基礎をおくことによってのみ明確にしうる。
しかしマルクスの恐慌論は,主著《資本論》においても十分仕上げられていなかったのであり,そこには相互にかならずしも整合的でない恐慌論の諸類型の原型が含まれている。たとえば《資本論》第3巻第3編でマルクスは,生きた労働に対する生産手段中の過去の労働の比率としての資本構成の高度化にもとづく〈利潤率の傾向的低下の法則〉を,資本主義的生産の制限として示すとともに,その編の第15章第3節では,労働人口に対する資本蓄積の過剰から労賃が騰貴し,一般的利潤率が突然低落して急性的恐慌が発生する論理を提示している。そこでは,商品の全般的過剰化は資本蓄積の過剰による利潤率の低落の帰結とされ,資本過剰論としての恐慌論の原型がみられる。他方,おなじ編の第15章第1節では,マルクスは,資本主義的生産の制限を商品生産物の販売による剰余価値の実現の困難に求め,生産諸部門間の不均衡,あるいは生産力の発展に遅れる大衆の消費制限から,商品が過剰化し,結果的に資本も過剰化するとみる商品過剰論を説いていた。
その後,トゥガン・バラノフスキーやR.ヒルファディングは,固定資本の建設をめぐる需要と供給の変動やその建設に動員される貸付資本の過不足の変動をも考慮に入れながら,基本的には不均衡説的商品過剰論を主張する。これに対し,K.カウツキーやN.ブハーリンは,マルクスの再生産表式の均衡条件が資本主義では不可避的な労働者大衆の消費制限によって破壊されざるをえないことを主張し,過少消費説的商品過剰論を説く。剰余価値の実現のためにかならず非資本主義的外囲が必要とされるとみたR.ルクセンブルクの資本蓄積論も,この系譜につらなる。その後,ソ連のE.バルガ,L.メンデリソン,東ドイツのF.エルスナー,日本の山田盛太郎,富塚良三,井村喜代子らマルクス主義経済学正統派は,レーニンのいう〈生産の社会的性格と領有の個人的性格との矛盾〉を基本として,消費制限説的恐慌論の歴史への適用や理論的進化に努めてきた。アメリカのマルクス学派のなかでP.スウィージーらも,この見地を現代資本主義分析の基礎としている。
これらに対し,マルクスの資本過剰論としての恐慌論に依拠すべきであるとする見地からは,たとえばつぎのような批判が加えられる。すなわち,恐慌に発現する資本主義的生産の矛盾の根源を,もっぱら不均衡説的に生産の無政府性に求めたり,消費制限説的に所得分配の不均等に求めるのでは不十分である。また,商品生産物の過剰は蓄積の進行過程では,価値法則の作用に従い解消される可能性もあるので,商品過剰論により恐慌の必然性を,とくに周期的なものとして論証することには,どこまでも困難がつきまとう。そこでH.グロースマン,M.ドッブらは,資本のもとでの生産力の上昇自体が,資本構成高度化に伴う利潤率の低下傾向を招くところに恐慌の必然性の基礎を読みとろうとし,最近でもアメリカのP.マティック,ベルギーのE.マンデル,イギリスのD.ヤッフェらが,この類型の恐慌論を整備,あるいは適用する試みをしている。しかし,資本構成の高度化に伴う生きた労働の比率の低下による利潤率の傾向的低下の法則自体は,蓄積速度の鈍化はもたらすにせよ,剰余価値と資本とを絶対量では増加しつつ資本蓄積が継続する過程をただちに阻害するものではない。したがって,この法則から蓄積の停止と恐慌の不可避性を導こうとする試みにもやはり困難が残る。
これに対し,労賃上昇説的資本過剰論としての恐慌論をマルクスから継承して発展させようとする試みは,R.ルクセンブルクに批判的に対立したO.バウエルやかつてのスウィージーの一面にみられるほか,とくに最近の経済危機の分析の基礎として,イギリスのA.グリン,J.ハリソン,B.ローソン,アメリカのR.アルカリー,R.ボディ,A.マッキーンらによって,ふたたび重要視されるようになった。日本では,かねて宇野弘蔵とその後継者たちによって,この類型の恐慌論を周期的恐慌の原理として整備・完成する作業がすすめられており,国際的にもその意義は大きくなっている。その要点をつぎにみておこう。
周期的恐慌の原因は,先行の好況期における資本蓄積の進行自体のうちに与えられる。好況期には,資本はそれぞれの生産過程における機械・設備などの固定資本によって一般に十分利潤をあげているので,それを容易に廃棄・更新せず,資本蓄積は既存の固定資本を生かしながらすすめられる。したがって,それに伴う生産の拡大は労働雇用の一方的増加をみることとなる。労働市場に供給の余裕のあるかぎり,その過程で労賃,物価水準,利潤率は比較的安定的に維持され,諸資本間の商取引に伴う商業信用の拡大もその決済も順調で,銀行間の貨幣市場における利子率も比較的低位に維持される。しかし,恵まれた諸条件のもとで資本蓄積が一方的に労働雇用を増加していくと,資本の生産過程によって供給しえない労働力商品の存在量に対し,やがて資本蓄積が過剰となり,労働市場の逼迫から労賃の上昇が始まる。それによって,一方で一般的利潤率が低下しながら,他方で物価体系にも特殊な変動が生じて,投機的取引が信用を利用してすすめられ,その結果,貨幣市場への需要が大きく増加しながら,新たな資金形成や返済還流がとどこおり,利子率が上昇する。この貨幣市場の逼迫が全体としての蓄積の鈍化とともに,投機的商取引に打撃を与え,大規模な投機的在庫の換金売りが迫られるところに恐慌への発端が与えられる。
すなわち,恐慌は,労働力の商品化を根源とする資本主義的生産の内的矛盾が,労働人口に対する資本の過剰蓄積に伴う労賃の上昇,利潤率の低下,利子率の上昇の衝突をもたらすところに発生し,通常まず商業恐慌から始まり,ただちに支払不能とその連鎖を介し信用恐慌に拡大され,それらを通じ相互媒介的に産業恐慌に深化する。大量の資本破壊と失業の発生を伴い,信用の清算がすすめられる過程が急性的恐慌局面をなし,決済資金を求めあうなかで利子率の最高水準が続く。やがて清算がいちおう終結すると,残された資本価値により不況期の再生産が始められていく。
しかし,不況期には,大きく収縮した労働者大衆の消費需要や破壊された生産諸部門間の均衡関係のなかで,多くの諸資本は過剰な固定資本と過剰供給傾向の圧迫のもとに低利潤率に苦しみ,再生産の沈滞を反映して利子率も低くなる。諸資本は,既存固定資本の更新による生産性の向上と部門編成の再調整を死活問題とするようになり,固定資本の償却基金と蓄積資金とをたくわえ,不況期の〈合理化〉をめざす。やがて不況の末期に,主要諸産業の一般的諸資本が固定資本の更新投資をすすめるようになると,資本構成が高度化されて相対的過剰人口が追加的に形成されるとともに,新たな価値関係のもとで新たな好況が再開される。
こうして,周期的恐慌は,原理的には労働力の商品化にもとづく資本主義的生産の内的矛盾が,景気循環の各局面の進展のうちに発現しては現実的に解決され,それによって資本主義の発展を媒介しながら,根本的には除去されえないままくり返し経済危機を生ずる事象として示される。資本主義に特有な経済危機の歴史と現状は,こうした恐慌の原理を考察の基準として,具体的諸条件のうちに解明されなければならない。そのさい,さきにふれたように,帝国主義段階以降,長期波動long waveともよばれるコンドラチエフ循環的現象が重要となるのであるが,これには周期的恐慌の理論にあたるような純経済的原理は説得的に構成されえていない。技術革新の大きな波動や政治過程の影響が具体的に考慮されなければならないところであるが,ことに長期波動の下降局面にあたる過程からの転換が,軍国主義と大戦争への歴史の推移変転を伴って実現された過去の事例は,くり返されてはならない教訓である。
→景気循環
執筆者:伊藤 誠
日本における恐慌の歴史は資本主義の確立とともに始まる。1881年以降の大蔵卿松方正義の財政政策(松方財政)による経済不況はもちろん,86年以降の資本家的企業の勃興の反動として生じた90年の恐慌(明治23年恐慌)もまだ言葉の本来の意味での恐慌(資本主義的恐慌)ではなかった。後者は,(1)株価の暴落と新設企業の倒産・解散,(2)綿糸の過剰生産と価格低落(紡績連合会の第1回操短)を内容としていたが,(1)は株式会社制度の法的未整備(商法一部施行は1893年)と銀行の株式担保金融によって乱立した投機的企業の破綻を意味し,(2)は前年の不作と米価騰貴による綿布需要の減少に起因する綿糸在庫の一時的過剰から生じた現象であったからである。だが,この恐慌期における糸価の低落は紡績会社に新技術(リング精紡機)の導入を促す契機となり,そのことによって日本紡績業は輸入綿糸との角逐をとおして国内市場を制覇する方向を決定づけられたのであり,その意味で,この恐慌は日本資本主義確立のための必要な通過点であった。
1890年恐慌後の不況は93年下期から回復するが,日清戦争によってその動きは中断される。この戦争の勝利によって日本は巨額の賠償金と中国への経済的進出のための諸権益を手に入れ,それらを基礎に95年下期以降の好況局面を通じて日本資本主義は綿糸紡績業を基軸に確立期を迎える。97年の中間恐慌を経て1900-01年に発現した日清戦後恐慌は,機械制大工業として確立した紡績業の資本蓄積に内在する矛盾(賃金上昇・利潤率低落・利子率高騰など)の爆発を起動力とし,綿布・石炭など関連部門や鉄道業をその渦中に巻きこんで展開した最初の資本主義的過剰生産恐慌であった。恐慌発現の現実的条件となった1900年3~4月をピークとする金融逼迫=金利騰貴は,好況期の綿花輸入の激増と1900年世界恐慌の影響による対米生糸輸出の減少による貿易収支の逆調(正貨流出)に起因していた。また,1900年12月から翌年5月まで続く銀行恐慌を伴っていた点にもこの恐慌の特徴があり,その間支払停止に陥った銀行は34行を数え,それまで増加の一途をたどった銀行数はこれを機に減少に転じ,銀行業は紡績業ともども早くも資本集中の歩みを始めることになる。深刻な不況に直面した財界が要望する,緊縮財政の可否をめぐる内閣不統一から,01年5月第4次伊藤博文内閣が崩壊したことが示すように,この恐慌は政治史上にも無視できない影を落としていた。
日本経済は日露戦後の07-08年に2度目の恐慌を経験する。戦費調達のための巨額な外債の累積と無賠償講和によって戦後経済はしばらく沈衰状態で推移したが,1906年下期からようやく好況局面に移行した。日露戦後恐慌の根本原因はこの好況期の資本蓄積に内在していたが,直接の契機は07年10月のアメリカにおける貨幣恐慌によって本格化した世界恐慌(1907年恐慌)の波及にあった。それはまず,(1)対米生糸輸出の激減,(2)銀価暴落による対中国綿糸輸出の不振となって現れ,主要輸出品の滞貨の増大は07年末以降の金融逼迫・金利騰貴の原因となり,後者は製糸家・綿糸布商の破綻を拡大するとともに,紡績業における過剰生産恐慌発現の現実的条件となった。恐慌は日露戦後に急成長した製粉・製糖・肥料各部門においても発現し,世界恐慌の影響による海運業の不振から造船業にまで及んだ。新興の電力・ガス部門を除くほとんどの産業部門を渦中に巻きこむことによって,日露戦後恐慌は全般的過剰生産恐慌としての性格をいっそう際立たせたのである。恐慌の進展過程で前記の食料・化学部門では不況カルテルが相ついで結成されたが,その多くは短期間で解体し,日本における独占体の確立はいましばらく時期をまたねばならなかった。
この恐慌で注目すべき点は,これを転機に景気循環の形態に変化が生じ,不況が慢性化する現象が現れたことである。恐慌は09年に不況局面に移り,翌年下期からは桂太郎内閣の公債低利借換政策などによって事業計画の増進(中間景気)がみられるようになるが,製造工業では一般に景気は低迷していた。他方,1908年の秋からの米価低落を発端として農業恐慌が進展し,農家経済の窮迫は14年まで続く。そして中間景気も連年の巨額の入超と外債利子支払による正貨の急減によって生じた金融梗塞(こうそく)を原因として1912年下期には崩壊し,以後14年まで不況は深刻化するのである。それはまさに大逆事件(1910年5~8月)直後に書かれた石川啄木の遺稿〈時代閉塞の現状〉がいう〈戦争とか豊作とか饑饉とか,すべて或偶然の出来事の発生するのでなければ振興する見込の無い一般経済界の状態〉そのものであった。
1914年の第1次大戦勃発は,貿易収支の逆調と外債政策の行詰りで政府保有正貨が外債利子支払額にも満たないという国家破産の危機に直面し苦境に立たされていた日本経済を一気に立ち直らせた。連合国側の兵站(へいたん)基地アメリカの活況,ヨーロッパ商品の輸入激減によるアジア市場の拡大は輸出の急増と海運の活況をもたらし,国際収支は大幅な黒字に転じた。紡績・織布・製糸等の輸出産業は活況を呈し,造船業の躍進は関連部門(金属・機械・電力・鉱山)の発展を促した。株式・商品市場はブームに沸き,休戦(1918年11月)直後の一時的沈滞を経て19年に投機はいっそう加熱した。20年3月15日の株式市場の株価暴落に始まる恐慌(一般に〈戦後恐慌〉という)は,政府(原敬内閣)の積極政策,財界の投機思惑を背景とした過度の信用膨張と生産設備の拡大の反動として発現したものであった。株価に続く商品価格の暴落は綿糸・生糸に著しく,4月の増田ビルブローカー銀行の破綻に端を発した銀行恐慌は全国に波及し,取付けをうけた銀行は169行にのぼった。造船業・鉄鋼業においても倒産整理が相つぎ,〈成金〉は〈歩〉に逆戻りして恐慌は空前の激しさを示した。恐慌とそれに続く不況のもとで首切り・賃金引下げなどの資本攻勢が強化されると,好況期に前進した友愛会を中心とする労働運動も一時退潮を余儀なくされるが,他方では資本攻勢に抵抗する組織の強化と運動の急進化も生じ,21年には大阪,神戸等関西地方の大企業で激しい闘争がなされ,川崎・三菱神戸造船所争議という第2次大戦前最大の大争議が発生する。
ロシア革命(1917),米騒動(1918),労農運動の高揚(1921年日本農民組合結成)という内外情勢のなかで反動恐慌に直面したとき,日本資本主義はそれを経済の自動的回復力にゆだねておくことはもはやできなかった。政府・日本銀行による前例をみない広範な救済政策がこうして展開されることになる。その結果,恐慌は1920年下期にはいちおう鎮静に向かうが,22年には再度恐慌状態に陥り,年末には銀行恐慌が発生する。そしてここでも日銀の積極的な救済融資が登場するのである。こうした相つぐ救済政策の展開は,財界の整理を遅らせて不健全な企業を存続させることになり,日本経済の国際競争力を弱め不況を長期化させる原因となった。その矛盾は23年のいわゆる震災恐慌(関東大震災による日本経済中枢部の混乱と麻痺状態)を経て,やがて27年の金融恐慌となって爆発する。台湾銀行の休業と新興財閥鈴木商店の破産まで結果したこの恐慌の直接の誘因は,震災直後救済対象として認定した手形(震災手形)の整理問題にあったが,根本原因は反動恐慌後の救済政策によって未整理のまま存続した銀行と産業企業との不健全な信用関係に存在していたからである。恐慌後財閥系銀行の支配力は一段と強化され金融資本は本格的確立期を迎えるが,恐慌によって脆弱(ぜいじやく)な体質を暴露した日本資本主義は,以後金解禁と産業合理化によって国際競争力の強化を図り,長い不況からの脱出を目ざすことになる。だが30年の世界恐慌(大恐慌)の波及による昭和恐慌の発現によって,そのもくろみはもろくも崩れ去ったのである。
→昭和恐慌
執筆者:長岡 新吉
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
産業革命を経て機械制大工業の勝利によって資本主義生産が産業資本の再生産軌道を確立すると、自ら無限に発展する社会的生産力の発揮を確保したが、同時に自らの生産構造の仕組みにおいてこの無限に発展する社会的生産力に対する一つの桎梏(しっこく)が現れた。社会的生産力の無限の発展のなかに、累積した資本主義生産のいっさいの要素の矛盾、資本主義の根本的矛盾が、「世界市場の大暴風雨」(マルクス)、「資本主義的生産の全機構震憾(しんかん)」(山田盛太郎(もりたろう))として爆発する。このように資本主義の諸矛盾が一挙に表面化し、その矛盾を暴力的に調整し、現実的に解決するのが恐慌である。したがって恐慌は、失業と同じく資本主義生産に固有な現象であり、再生産過程の攪乱(かくらん)として周期的に現れる。
この周期的におこる再生産過程での生産力の破壊と停滞が資本主義的本質を露呈するのは、その形態が資本主義以前のそれと異なるからである。資本主義以前の再生産過程の攪乱・収縮は、凶作、飢饉(ききん)、悪疫、戦争など総じて生産の縮小ないし過小生産によっておこり、社会の欲望に対し生産が絶対的に少なく、欲望を満たしえないための混乱であった。ところが資本主義社会ではまったくその逆で、商品をあまりにも生産しすぎたために販売できず、消費されないがゆえに再生産過程が攪乱され、社会の生産力が破壊されるというものである。この資本主義社会の商品の周期的過剰生産は、大量の販売不能、支払い不能、そしてその結果として滞貨増大、倒産、工場閉鎖、信用崩壊、株価暴落、賃金切下げ、解雇・失業の増大を引き起こすのであるが、これは商品が社会の欲望に対して絶対的に過剰だからおこるのではない。その意味では資本主義社会には貧困や満たされない欲望はいくらでもある。そうではなく、過剰に生産された商品で満たされざる欲望を充足させようとすれば、ますます再生産は混乱し、社会の生産力を破壊するのである。これはこれまでの歴史にない新しい現象であって、「豊富のなかの貧困」として特徴づけられるもの、すなわち一方における商品の過剰、それほどの豊かな富と、他方における貧困、すなわち満たされざる欲望の同時的存在である。したがってこの過剰生産は、支払い能力ある需要(欲望)に対し、売られる商品が過剰に生産されたのである。資本家の側からは支払い能力ある需要とは一定の利潤が得られることであるから、この過剰生産は、彼にとっては一定の利潤、平均利潤を伴って売れないという意味での過剰、すなわち相対的な過剰生産なのである。この相対的過剰生産こそ恐慌の基本現象にほかならない。
[海道勝稔]
このような商品の販売不能ということは、そもそも生産された生産物が商品形態をとったことに起因する。他人のための使用価値をもつ商品は販売されなければならないが、商品は生産されたことで販売も保証されるわけではない。商品はまず貨幣と交換してその価値を実現する必要があり、これによって初めて完全に商品たりうるのである。したがって商品生産・商品流通のもとにおいては、どの商品も一度貨幣という特殊な商品に置き換えられたのちに、初めて他の商品との交換に入るという関係になる。これは、相互に自己の生産物を提供し相手の生産物を求める一個同一の関係が成立する直接的生産物交換とはまったく異なる。商品流通では貨幣が流通手段として介在するがゆえに販売と購買とに分離されている(一商品―〈販売〉―貨幣―〈購買〉―他の商品)。販売では、どの商品も貨幣へ「命がけの飛躍」をしてその価値実現を急ぐが、購買では、貨幣はいつでもどの商品とでも交換できるから、すぐにそれで次の商品を購買する必要はない。そのため商品流通では販売が終わり貨幣を得たところで流通の網の目が中断されがちであり、そこでそれに対応する商品の販売が不能になる可能性がある。こうした全一連の関連のもとで、商品の販売不能が社会的規模で連鎖的におこりうるのである。
さらに貨幣が支払い手段の機能を営む発展した商品流通では、信用販売の網の目を伴うことになり、商品の掛け売りと一定期間後のその商品の価格の実現とが場所的のみならず時間的にも分離する。そのことで販売不能がおこりうることは貨幣が流通手段として機能する場合と同じで、ここにも商品の販売不能がおこる可能性がある。
商品流通におけるこれら販売と購買との分離、商品の掛け売りとその価格実現との分離は、商品の販売不能という形態での恐慌の可能性を示すものであるが、それは、商品に内在的な使用価値と価値との対立、私的労働と社会的労働との対立、特殊具体的労働と抽象的人間労働との対立という商品生産の矛盾に基づき、その運動形態として現れている。
このように可能性の形としてではあるが、商品の生産過程がもつ矛盾が商品の流通過程で現れることは、商品の販売不能、それに基づく再生産の攪乱という恐慌の基本形態を示しているのである。
[海道勝稔]
これら商品流通の網の目と連鎖の全体は、資本主義の総流通過程を構成し、これを通じて資本主義の総再生産が行われる。ここでは先の恐慌の可能性は、よりいっそう拡大されるだけでなく、恐慌として爆発する資本の生産過程に内在する根本的矛盾が現れてくる。
資本主義生産は、協業と分業による集団労働および生産手段の集団的使用という社会的性格をもつのに対し、その社会的生産物は資本家の私的取得に帰し、利潤を求めての強制法則となって現れるという矛盾となっている。そして資本家は、絶えず蓄積と生産力を無限に発展させ、生産過程でできる限り多く剰余価値を搾取し、それをふたたび蓄積に回して大量生産を進めるが、この大量生産された商品の大多数の購買者である直接生産者の労働者の賃金は、これを最低限に制限する傾向をもつ。したがって商品の販売、剰余価値(=利潤)の実現は、社会の消費欲望一般に限界づけられている。この生産と消費の矛盾こそ、資本主義の根本的矛盾である生産の社会的性格とその取得の私的資本主義的形態との矛盾から直接に引き出せる矛盾である。そしてこの矛盾こそ、周期的過剰生産恐慌の窮極の根拠である。
先の資本主義の総再生産過程は、あらゆる生産部門(大別すれば生産手段生産部門と消費資料生産部門に分かれる)とその連関を包括し、そこで生産されるあらゆる商品を価値(不変資本、可変資本、剰余価値に分かれる)からと素材(生産手段と消費資料とに分かれる)からみて相互に補填(ほてん)して再生産するが、その流通による補填の交錯は、資本と資本との流通、資本と所得との流通、所得と所得との流通に総括される。社会全体としては、資本と資本との流通は生産的消費のみに限られ、したがって生産の発展のみを現し、資本と所得との流通は生産と消費との関連を現し、所得と所得との流通は個人的消費を内容とすることに限られて消費を現す。そして社会の生産力の発展は、資本と資本との流通をもっとも著しく拡大し、所得と所得との流通はもっとも遅れて発展する。こうして資本主義生産過程でみられた先の恐慌の窮極の根拠としての生産と消費の矛盾は、総再生産過程においては生産諸部門間の比例性を通じて消費の拡大なき生産の拡大――それこそ矛盾である――として表示される。したがってこの総再生産過程においては恐慌の必然性が基礎づけられており、恐慌が資本主義の全機構震撼(しんかん)であることが示される。
[海道勝稔]
以上で、恐慌は資本主義に固有で、必然であることが明らかとなったので、ここで従来陥りやすい誤った二つの代表的恐慌論をみておこう。
一つは不比例説で、トゥガン・バラノフスキーやヒルファーディングが主張した。この説は、社会的総商品が実現されるには社会的総再生産の各部分の間に一連の比例性が要請されるが、資本主義生産の無政府性のもとでは不比例による恐慌は避けられないというものである。比例が正しく保たれていれば、生産は消費制限から完全に独立して発展し恐慌はおこらないとして生産と消費の矛盾を否定する。しかし、不比例説では、部分的恐慌や生産の偶然的過不足による不均衡のみをみることになり、全機構震撼としての全般的な過剰生産恐慌は説明できない。
他は過少消費説で、古くはシスモンディ、ロードベルトゥスが唱えたが、カウツキー、ローザ・ルクセンブルク、ブハーリン、スウィージーなどがその代表者である。これは、資本主義的搾取に基づく大衆の過少消費を多かれ少なかれ恐慌の直接の原因とする理論である。しかし、過少消費と過剰生産は直結して事態の表裏をいう同義反復にすぎず、商品の実現における生産的消費の役割を無視し、なんらかの形で消費資料の過剰生産に矮小(わいしょう)化される。過少消費を恐慌の直接の原因とすることは、恐慌の直前には労働者の賃金は騰貴するという事実にも反し、全機構震撼としての恐慌は明らかにされない。以上の2説の誤りは今日に至るまで再生産されている。
[海道勝稔]
資本主義の全機構震撼としての恐慌は、産業循環の一局面として周期的形態をとる。その物質的基礎をなすのが固定資本の更新と拡大の独特な回転様式である。したがって産業循環も、生産の拡大を左右する条件である生産手段のなかの固定資本投資の波の変化によって条件づけられる。なぜなら、固定資本の独特の運動は、投下されるときには固定設備商品に対する需要を一挙に構成し、その設備建設期間のあいだ一方的購買が継続するが、建設が終わり新生産力として稼動すると、その後現物で更新されるまで、長期間にわたって一方的に供給を続けるからである。こうした固定資本の独特の運動の波が、狭隘(きょうあい)な個人的消費制限の基礎上で超過利潤を求める個別資本の無政府的競争と信用拡大のうちに展開するとき、恐慌は初めてその現実性と周期性の条件が与えられてくる。すなわち、価格変動によって調整しきれない、総生産と総需要の矛盾の潜在的累積による資本の過剰蓄積と、それを基礎として始まる商品の過剰生産が、一定期間を経て顕在化、爆発する現実性が与えられるのである。
さらに産業のある部門が世界貿易まで行いうるようになると、資本主義的にその部門が確立したことを意味し、それ自体世界市場を席巻(せっけん)していくから、恐慌も世界市場恐慌となって現れる。資本主義生産に固有な恐慌は、世界市場恐慌となって爆発する。
[海道勝稔]
資本主義生産の確立を明確にする過剰生産恐慌は1825年をもって始まる。それ以来、恐慌は周期的循環性をもって現れた。すなわち、第二次世界大戦後のやや不規則な時期を除けば、ほぼ10年前後の間隔(歴史的には10年に近い形で短くなっている)で勃発(ぼっぱつ)している。
1825年以前の歴史をひもとけば、1673年のオランダのチューリップの球根への投機の過熱と崩壊によるチューリップ恐慌、1720年のフランスのジョン・ローによる株式投機恐慌、同年のイギリスの南海会社をめぐる株式投機の過熱と崩壊(南海泡沫(ほうまつ)事件)による恐慌のほか、18世紀末から19世紀初めにかけて勃発した過渡的恐慌とよばれる1793年、1797年、1810年、1815年、1819年のイギリスの諸恐慌がある。過渡的恐慌とよばれるのは、これらがナポレオン戦争の勃発あるいは終結などの資本主義生産外の諸条件によってもたらされたと同時に、他方ではそこで資本主義内部の工業生産と商業が決定的役割をもつことによって勃発したからである。
[海道勝稔]
1825年には産業革命を終え機械制大工業を確立したイギリスが、ラテンアメリカ市場の開拓の結果、木綿工業を中心に初めて自生的に全般的過剰生産恐慌となった。これはドイツ、オランダも巻き込んだ。次の1836年恐慌もイギリスを中心に対米輸出拡大から投機・過剰生産となり、信用恐慌を伴った。過剰生産はアメリカ、フランスにも勃発した。さらに1842年にはイギリスに後産(あとざん)恐慌がおこり、1844年に金融制度上ピール銀行条令を制定したが、それ以後の肝心な恐慌のときには恐慌対策としては役だたなかった。1847年恐慌もイギリスを中心とするもので、鉄道建設と国際的性格が決定的役割をもった過剰生産恐慌であった。フランス、アメリカでは明確な経過をたどらなかったが、ドイツはイギリスの影響を受けた。イギリスではこの社会不安は、チャーティスト運動となっていった。
1857年恐慌は、初めての世界恐慌であった。アメリカの鉄道建設の崩壊に始まって、イギリス工業に拡大していった。ドイツも初めて全般的過剰生産となり、世界恐慌の一環を構成した。フランスも同じく鉄道建設から過剰生産にみまわれた。こうして主要資本主義国に世界恐慌は拡大していった。主要資本主義国が世界工業生産の5分の4を占め、主要資本主義国の間で社会的再生産過程の相互連関が成立して単一の世界市場における産業循環に合体していたからである。
1866年の恐慌は、アメリカの南北戦争による綿花飢饉(ききん)や、プロイセン・オーストリア戦争にも影響されたが、イギリスでは最大の信用機関であったオーバーレンド・ガーニー・カンパニーの破産という金融的性格をもった。この恐慌は、時期と部門と各国における発展が不均等であって、全体として劇的形態をとって展開するということはなかった。
1873年恐慌は、19世紀でもっとも深刻、包括的なものであった。ドイツ、オーストリア、ハンガリー、アメリカを中心に、イギリス、フランスその他の諸国を巻き込み、もっとも破壊的な信用恐慌が襲ったが、とくに独占への傾斜をもち始めたドイツ、アメリカできわめて激しく、鉄の生産に一大打撃を与えた。この1873年恐慌を境にして資本主義は独占への移行の準備を決定的なものにした。
この恐慌以後、1882年恐慌も1890年恐慌(フランスは1891年、アメリカは1893年に勃発)も、恐慌の中心は軽工業から重工業に移った。これらの恐慌に共通なのは、1870年代以前のような急激な生産・取引の停止、短期の不況をとらず、「相対的に長くてはっきりしない不況」(エンゲルス)となった。つまり、19世紀の終わり4分の1期は停滞の様相を示すが、それはまた長期にわたるこの時期の農業恐慌を伴っていた。
[海道勝稔]
19世紀から20世紀への世紀転換期ごろにおける独占資本主義の確立は、この「構造的不況」を克服したが、ロシアに端を発した1900年恐慌、ついでこれまでのどれに比べても過剰生産が激しかった1907年の恐慌がおこった。両恐慌は、電気、化学、鉄鋼の重工業が発展したアメリカ、ドイツにおける独占の展開、鉄道熱再現による恐慌の激烈さ、イギリス、フランスの造船、鉄鋼業の過剰生産の激しさが中心となった。循環の周期はほぼ7年に短縮し、アメリカ、ドイツとイギリス、フランスとの循環の不均等が現れた。
第一次世界大戦直前の1913年には恐慌が準備されていたが、それは世界戦争にとってかわっていった。第一次世界大戦後は、資本主義は全般的危機、構造的内部矛盾、不均等発展により、以前とは異なって高揚局面がきわめて不安定となった。日本、アメリカなど隔洋諸国でおこった1920年恐慌は、戦後調整といった性格のものであった。
次にアメリカに端を発した1929年恐慌(大恐慌)は、1920年代の発展の中心であった自動車、住宅建設、石油、それらの関連部門を包括し、全工業部門を飲み込んだのみならず、農業の慢性的不況をも含み、ソビエトを除く全世界に及んだ。過剰生産は未曽有(みぞう)の激烈さであり、生産は高揚時の半分に落ち、1400万人の完全失業者が街頭にほうり出された。多数の銀行も破産し、これらは1932年の夏にやっと底に達したものの、続いて金融恐慌となり、全アメリカの銀行閉鎖、本位貨恐慌となって資本主義の自動調整力を喪失し、「特殊な不況」をもたらした。したがって次の1937年の恐慌は、それに先行する繁栄局面を経過することなく開始された。先行する局面は、ニューディールにみられるような、どれが崩れても重大な破綻(はたん)となる、きわめて限られた雑多な条件の不安定な結合であった。この1937年恐慌は、武力侵略をもったドイツ、日本、イタリアではその影響はみられず、戦争経済に全面的に移行しなかったアメリカからイギリス、フランス、カナダ、ベルギー、スウェーデンへと急速に波及していった。このことから各国は軍拡の道をたどり、比較的短期間で回復に向かった。
第二次世界大戦後の全般的危機の深化と国家独占資本主義の矛盾の展開は、第一次世界大戦後とは異なって1929年恐慌のような激烈な形態はみられず、価格低落よりも操業短縮、1960年代の各国循環の非同時性が顕著となった。
戦後初めての恐慌は1948~49年恐慌で、民需転換、戦後世界市場への大挙進出によるアメリカの急激な設備投資からの過剰生産を中心におこった。次の1957~58年恐慌は、アメリカで技術革新を背景にもっとも激しく、同時に西ヨーロッパの生産停滞、日本の「鍋底(なべぞこ)不況」など、すべての国を戦後初めて同時に巻き込んだ。発展途上国では国際原料恐慌となった。だが1960年代以降、景気停滞=恐慌は頻発したが、各国の非同時性が目だった。それらはアメリカのベトナム戦争介入、北爆開始やドル危機=国際通貨危機、ベトナムからの撤退、物価騰貴と絡まって若干の変動の上下のうちに推移したが、1971年のニクソン・ショック、1973年のオイル・ショック以来、1960年代と異なり景気の停滞の長期化がみられるうち、1978年の第二次オイル・ショックによって停滞のなかでの物価騰貴となって、いわゆるスタグフレーション現象をおこしている。そして1982~83年には各国での不況=恐慌の同時性となって現れた。とくに鉄鋼、自動車、建設の諸部門では、アメリカおよび西ヨーロッパ(EC)において深刻であった。
[海道勝稔]
『井汲卓一他編『講座 恐慌論』全4巻(1958~59・東洋経済新報社)』▽『宇高基輔・南克己「『資本論』における恐慌理論の基本構成」(『土地制度史学』第4号所収・1959・農林統計協会)』▽『富塚良三著『恐慌論研究』(1962・未来社)』▽『久留間鮫造編『マルクス経済学レキシコン6~9 恐慌Ⅰ~Ⅳ』(1972~76・大月書店)』
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資本主義の景気循環の一局面としての経済破綻。その理論的根拠については,労働力商品起因説,生産の無政府性説,労働者の過小消費説などがある。一般に,独占段階には恐慌の激発性が失われる一方,不況の長期化と農業恐慌の随伴がみられ,さらに管理通貨制を基礎に国家の経済介入が強化されると,好況・恐慌・不況の循環は不透明性を増す。日本では,明治23年恐慌(1890)は過渡恐慌であったが,日清戦後第2次恐慌は,紡績資本の拡大を導因とする本格的資本主義恐慌であり,日露戦後恐慌は世界恐慌との連動を強めつつ不況の長期化をもたらした。第1次大戦期の異常な好況はその反動として戦後恐慌をひきおこし,救済政策によって弥縫された矛盾は,震災恐慌・金融恐慌によって露呈された。金解禁・産業合理化政策と世界恐慌の影響とが複合して勃発した昭和恐慌は,深刻な農業恐慌をともない,金本位制放棄を余儀なくさせるに至った。
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出典 平凡社「普及版 字通」普及版 字通について 情報
…経済学では〈経済恐慌〉を意味するが,社会学や心理学では不特定多数の群衆が引き起こす〈集合行動collective behavior〉の一種をパニックと呼んでいる。ギリシア神話における羊や牛の守護神パンPanに起源をもつ。狭義には危険からの無目的な逃走を指し,たとえばスメルサーN.Smelser(1930‐ )は〈ヒステリー的信念にもとづく集合的逃走〉,またブラウンR.W.Brown(1915‐ )は〈感情的で非合理的な逃走反応〉と定義している。…
※「恐慌」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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