ムワッファク(読み)むわっふぁく(英語表記)Abū Manūr Muwaffak ibn ‘Alī al-Harawī

日本大百科全書(ニッポニカ) 「ムワッファク」の意味・わかりやすい解説

ムワッファク
むわっふぁく
Abū Manūr Muwaffak ibn ‘Alī al-Harawī

生没年不詳。10世紀後半に活躍したペルシアの薬理学者。ヘラート出身。薬物についての著書ペルシア語で編集しようとした最初の人で、情報を収集するため広くペルシアやインドを旅行した。その著書は『治療の正しい諸性質の基礎の書』Kitāb al-abniya ‘an aqā'iq al-adwiya(968~977)で、そこには、ギリシアシリアアラビア、インドの知識が融合されており、扱った薬剤は合計585種、そのうち466種は植物性、75種は鉱物性、44種は動物性のもので、それらをその作用により4分類している。

平田 寛]

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「ムワッファク」の意味・わかりやすい解説

ムワッファク
al-Muwaffaq

[生]?
[没]891. バグダード
アッバース朝 (750~1258) 第 15代カリフ,ムータミドの弟。将軍として彼は,東のサッファール朝軍のバグダードへの進撃を撃退し,また南イラクを中心として,14年間にわたってアッバース朝の支配体制を震憾させた黒人奴隷反乱,すなわちザンジの乱を鎮圧した。

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世界大百科事典(旧版)内のムワッファクの言及

【アッバース朝】より

…また,836‐892年には,一時,王宮もバグダード近郊のサーマッラーに移された。ただ第15代のムータミド(在位870‐892)の弟ムワッファクMuwaffaq(?‐891)が精力的に治安回復に努めた結果,イスラム帝国は経済的文化的発展の時代を迎え,政治的には官僚層が再び実権を握った。しかし,宮廷の奢侈や官僚機構の膨張,軍事費の増大,歳入額の減少から,国家財政は慢性的赤字となり,10世紀半ば近くなるとまったく破綻してしまい,下級軍人の俸給の支払も滞りがちとなった。…

【ザンジュの乱】より

…ザンジュを主力とするその軍は,2度アフワーズに進攻し,また中部イラクのワーシトを一時占領した。当時のアッバース朝はマムルーク軍団が政治を壟断し,軍閥間の対立・抗争が絶えず,無政府状態に近かったが,カリフの弟で将軍ムワッファクal‐Muwaffaq(?‐891)が実権を握るに及んで立ち直ってきた。ムワッファクは自ら軍を率いて反乱軍に反撃し,反乱軍はしだいに追いつめられ,首都ムフターラの陥落とアリーの死をもって反乱は終わった。…

※「ムワッファク」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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