ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「ロンドン協定」の意味・わかりやすい解説
ロンドン協定
ロンドンきょうてい
London Agreement
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…しかし27年にギリシア中央部でカライスカキスの率いる蜂起軍が勝利したころから,ギリシアをめぐる国際情勢も変化しはじめた。27年4月に開かれた国民議会はロシアの外相だったカポディストリアスを大統領に選出,同年7月に結ばれたロンドン協定で,イギリス,フランス,ロシアはそれぞれ自国の利権確保をねらい,オスマン帝国の存続を前提としながらも,ギリシア自治案を採択した。この案はスルタンによって拒否され27年10月のナバリノの海戦となり,トルコ・エジプト艦隊は敗北した。…
… 第2次大戦中から連合国側はナチス・ドイツの残虐行為に対する処罰を唱え,1942年1月のロンドン亡命9ヵ国政府(ベルギー,チェコスロバキア,フランス,ギリシア,ルクセンブルク,オランダ,ノルウェー,ポーランド,ユーゴスラビア)による〈セント・ジェームス宣言〉は,その処罰を主要な戦争目的の一つに掲げた。その後,連合国戦争犯罪委員会の設立(1943年10月),モスクワ会談の際ローズベルト,チャーチル,スターリンにより署名された〈ドイツの残虐行為に関する宣言〉(1943年10月)等を経て,ヨーロッパ戦争犯罪人裁判に関するロンドン協定および付属〈国際軍事裁判所条例〉(1945年8月)によって枢軸国戦争犯罪人処罰の原則がつくられた。このロンドン協定では,国際軍事裁判所の管轄に属する犯罪として,(1)平和に対する罪,(2)戦争犯罪に加えて,(3)人道に対する罪をあげた。…
…結局,連合国の戦犯政策はドイツ敗北後の大戦末期に決着した。米英ソ3国首脳によるポツダム会談に並行して,1945年6月からロンドンで戦争犯罪人に関する米英仏ソ4国代表によるロンドン会議が開催され,4国代表は8月8日〈欧州枢軸諸国の主要戦争犯罪人の訴追及び処罰に関する件〉(ロンドン協定)を締結した。ロンドン協定により第2次大戦後の戦争犯罪処罰のあり方は画期的に変化した。…
※「ロンドン協定」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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