一鍬田村
ひとくわだむら
[現在地名]新城市一鍬田
八名井村の東、豊川の左岸に沿い、南は吉祥山の北斜面、北にも山を負い、宇利川を挟んで耕地が広がる。八名郡に属した。慶長六年(一六〇一)から吉田藩領となったとの説もあるが、吉田藩領となったのは寛永九年(一六三二)の水野氏の吉田(現豊橋市)入封からと考えられ、これ以前はおそらく幕府領であったと思われる。寛文三年(一六六三)に小笠原長秋領となった。
一鍬田村
ひとくわだむら
[現在地名]多古町一鍬田
飯篠村の北西に位置し、西は原野を挟んで埴生郡取香村(現成田市)、南は上総国武射郡香山新田(現芝山町)、北は佐倉七牧のうち矢作牧が広がる。現芝山町加茂の普賢院が所蔵する永禄一一年(一五六八)二月の墨書銘のある木造不動明王立像に「一鍬田」とみえ、同像は当地の材を用いて造立された。「本土寺過去帳」(七日)によると、天正一三年(一五八五)五月千葉介邦胤は狂乱した一鍬田孫五郎に額を切りつけられ、二九歳で死去したという。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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