日本歴史地名大系 「三林村」の解説 三林村さんばやしむら 新潟県:見附市三林村[現在地名]見附市三林町下関(しもせき)新田の北、西の刈谷田(かりやだ)川対岸は高山(たかやま)新田・中西(なかさい)村(現南蒲原郡中之島村)、北は鬼木(おにぎ)新田(現南蒲原郡栄町)、東は釈迦塚(しやかづか)新田。永正四年(一五〇七)一二月一三日の上杉定実知行宛行状(大見安田氏文書)によると、安田但馬守に「福雄庄内三林村」などの地を宛行っている。大永七年(一五二七)一〇月二二日の大熊政秀段銭請取状(同文書)に「出雲田庄三林梶原分」とみえる。天正二年(一五七四)九月吉日の安田氏給分帳(北方文化博物館蔵)、同五年の三条衆給分帳(市川浩一郎氏蔵)にも「三林」とみえる。 三林村みばやしむら 大阪府:和泉市三林村[現在地名]和泉市三林町・光明台(こうみようだい)一―三丁目和田(わだ)村の南に位置し、村域は槙尾(まきお)川の両岸にわたる。池田(いけだ)谷の一村。天正一五年(一五八七)六月の池田谷上村八ケ村連判米借用証文並起請文案(荒木家文書)に村名がみえる(→室堂村)。なおこの史料にみえる「市ハ」「上林村」は近世には当村に含まれた。慶長一〇年(一六〇五)の和泉国絵図に村名がみえるが、高は不明。寛永末年頃の状況を記したと推定される和泉国郷村帳によると、高四七三石余、山年貢一・五石余、幕府領。元禄初年の「泉州志補遺」では下総関宿藩牧野領(領主は宝永二年久世氏に変わるが、同藩領として幕末に至る)二九二石余、新開高一石余、山年貢〇・九石余、幕府領一八一石余、新開高〇・六石余、山年貢〇・六石余。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報 Sponserd by