上林村(読み)かんばやしむら

日本歴史地名大系 「上林村」の解説

上林村
かんばやしむら

[現在地名]山都町木幡こはた

いち川の支流宮古みやこ川を挟んで木曾きそ村の北にあり、東はしも村、北は川隅かわすみ村。南東に端村小原こばらがある。文政八年(一八二五)の「木曾組風土記」によると、もとは上野うえの村と称していたが、同じ耶麻郡内に同名の村があることから寛永一二年(一六三五)に上林村と改めたという。ただし「新編会津風土記」はこの改称を同一一年のこととする。文禄三年(一五九四)の蒲生領高目録では上野とみえ小布瀬こぶせ郷との注があり、高一七〇石余。

上林村
かみばやしむら

[現在地名]重信町上林

南方のさらみね(一二七〇・五メートル)から北のおもて川・重信川に至る山腹の村。北は下林しもばやし、東は井内いうち(現川内町)、南は久万町くままち(現上浮穴郡)、西は窪野くぼの(現松山市)の村々に接する。

慶安元年伊予国知行高郷村数帳(一六四八)浮穴うけな郡の項に「上林村 林有、柴山有、小川有」とみえ、村高六七六石二斗、うち田五八〇石九斗一合、畑九五石二斗九升九合とある。江戸初期、林郷が分村して上林と下林になったとされ、庄屋系図によるとその分村時期は正保三年(一六四六)とされる(高橋文書)

室町時代には荏原えばら(現松山市)の城主平岡氏が花山はなやま城・天神森城(花山城の別名ともいう)を枝城として久万の大野氏と対立した。

上林村
かんばやしむら

[現在地名]総社市上林

下林しもばやし村の西に位置する。南部に備中国分寺跡があり、古くより開発が進んでいたと思われる。一帯は「和名抄」の窪屋くぼやみす郷に比定され、天平一一年(七三九)の備中国大税負死亡人帳(正倉院文書)にみえる「御郷拝師里」は、下林村を含めた一帯に比定される。

備中誌」に当村と下林村は古は三須みす村に属したとあり、のち東三須村となった。文禄五年(一五九六)正月二〇日の岡市之丞書状(佐野文書)によると、東三須は給人衆が多数付けられたため百姓衆が郷役困難となり、給人衆が相談し佐野新右衛門方に仰せ付ける地とされた。慶長一七年(一六一二)蒔田広定が領しており、二月二三日に物成毛付四分一、馬の糠藁草は馬数に合せて取ること、竹木伐採の禁止など七ヵ条の東三須土免定書(水原文書)を出している。

上林村
かんばやしむら

[現在地名]野々市町上林一―四丁目

手取川扇状地北東部、東の富樫とがし用水の分流十人じゆうにん川と西のごう用水の分流ひがし川の間に位置し、東は下新庄しもしんじよう村・上新庄村。中世の上林郷の遺称地とされ(→林郷、仮名付帳は「かみばやし」と訓ずる。正保郷帳では上林村・中林村の高一千七二八石余、田方一〇九町四反余・畑方五町八反余。慶安三年(一六五〇)石川郡内の一三ヵ村とともに村高が出高であると申請、坪刈検地が実施された(「庁事通載」加越能文庫)。寛文一〇年(一六七〇)の村御印による当村の高七九四石、免六ツ(三箇国高物成帳)

上林村
かみばやしむら

[現在地名]八郷町上林

恋瀬こいせ川左岸の丘陵上にあり、北は浦須うらす村、南は下林しもばやし村。古代は「和名抄」記載の拝師はやし郷の本郷の地といわれ(新編常陸国誌)、弘安大田文には北郡として「林十一丁」とある。その後時期は不明であるが、上下に分村し、江戸時代は旗本領元禄郷帳の村高は五八七石余。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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