下村(読み)シモムラ

デジタル大辞泉 「下村」の意味・読み・例文・類語

しもむら【下村】

姓氏の一。
[補説]「下村」姓の人物
下村脩しもむらおさむ
下村海南しもむらかいなん
下村観山しもむらかんざん
下村湖人しもむらこじん

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精選版 日本国語大辞典 「下村」の意味・読み・例文・類語

しもむら【下村】

  1. 姓氏の一つ。

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日本歴史地名大系 「下村」の解説

下村
しもむら

大野庄四ヵ村の一つで、現大野町中央部から東部にかけてのあかね川とその支流域に比定される。延応二年(一二四〇)四月六日大友能直後家尼深妙が子息らに所領を配分した際、下村地頭職は九郎入道(大友能基、法名明真)に譲与された(「尼深妙惣配分状」志賀文書)。この時の配分状では「但故豊前々司墓堂寄附院主職也」と注記されており、下村内に能直の墓所があった。豊後国弘安図田帳によれば下村は反別一〇〇町、このうち六九町九段小は大野太郎基直女子が相続、二一町一段三〇〇歩は基直妹が相続、五町一段三〇〇歩は大野氏女善修理亮広衡妻分、三町一段は輔阿闍梨良慶の死去後子息鶴丸分となっていた。基直は能直の子で田中木工助とも称した(野津本大友系図)。当村は基直ののち娘・妹ら三名と能基の甥良慶(大護寺院主)に分割譲与されていることがわかる。また一部は尼深妙墓所であるとまり寺院主職に付随して志賀禅季の手に渡り(弘長二年八月三日「沙弥明真等連署書状」志賀文書など)、永仁五年(一二九七)には志賀泰朝へと譲与された(同年八月五日「僧禅季譲状」同文書)


下村
しもむら

[現在地名]福島市佐倉下さくらしも

荒川右岸にあり、西はかつて本村であった上名倉かみなぐら村、南は上鳥渡かみとりわた村、東は仁井田にいだ村、北は荒川を隔てて桜本さくらもと村。八丁目はつちようのめ宿から大森おおもり村・当村を経て庭坂にわさか宿で米沢街道と結ぶ街道が通り、当村の紫内むらさきうちから宿しゆく宮之内みやのうち林泉りんせんなどを経て荒川を越えた。寛文四年(一六六四)までは米沢藩の参勤交代路として利用されたとされる。紫内はかつて紫の駅と称し、佐藤基治の鎮守と同じ紫明神が祀られていたと伝える(信達一統志)。江戸時代初期、上名倉村から分れて成立したとみられるが、その明確な時期は不明。米沢藩領時代の古高一千九四七石余、幕府検地による新高一千五五八石余(古高新高帳)。領主は清水町しみずまち村と同じ変遷をたどり、寛保二年(一七四二)幕府直轄領となったが、延享三年(一七四六)下野宇都宮藩領、宝暦五年(一七五五)幕府領会津藩預地、明和元年(一七六四)下総佐倉藩領、安永三年(一七七四)幕府領、天明七年(一七八七)下村藩領、文政六年(一八二三)幕府領となり幕末に至る。


下村
しもむら

[現在地名]田辺市芳養はや

西にしたに村の北西、牟婁むろ郡の西端に位置し、西は日高郡境。南はほぼ芳養湾に面し、海岸沿いを熊野街道が通る。村内を貫流する芳養川河口を中心地とする半農半漁の村。河口西側の井原いばら浦、東側の芳養浦松原まつばらが漁浦。黒潮の余流上り潮を自然的条件とした近海漁業に従事した。村の中心部よりやや東側山麓に縄文時代の下芳養遺跡があり、その山腹からは銅鐸が出土、小古墳もある。

中世は芳養庄として推移、室町時代には湯河氏が在地領主として勢力を振るい、湯河家文書の応永一八年(一四一一)六月八日付宗光下知状に「はやの庄内下村」の湯河氏の当知行が記されるほか、年未詳五月二一日付湯河政春書状に「しもはやへ人を可進候」、天正一九年(一五九一)七月二六日付教春書状案に「下はやいゑニつたわり申候物、うり申候事、口惜候」などとみえる。右の下村・下芳養は領域的関係性は不明だが、当地をさしている。井原の西部、熊野街道沿いには湯河氏の居城泊山とまりやま城があった。


下村
しもむら

[現在地名]青梅市梅郷ばいごう

日陰和田ひかげわだ村の北西、多摩川右岸に位置する。御嶽みたけ道者道が通る。もと下山しもやまと称していたという(風土記稿)堀之内ほりのうち永泉えいせん庵跡にある南北朝期の板碑は最大幅五〇センチのもの。曹洞宗竹林ちくりん寺には正慶二年(一三三三)二月二一日銘の双碑をはじめ一九基の板碑がある。これらを含めた下山一帯の板碑は四九基を数えるが、鎌倉街道筋にあたる町谷まちや梅ヶ谷うめがた峠道と馬引沢まひきざわ峠道の分岐点で、宿駅があったことを物語る地名という。天正八年(一五八〇)と推定される一二月二八日の北条氏照判物(三田文書)に下村・二又尾ふたまたおとみえ、御嶽山籠城を賞して、両所の屋敷二貫文など本領六八貫文が野口刑部丞(秀房)に安堵されている。野口氏は三田家の旧臣という。同一九年一一月、下山八幡宮宛朱印状(榊田家文書)に「多西郡下山」のうちの五石が同社に付されている。


下村
しもむら

[現在地名]庄原市平和へいわ

国兼くにかね川流域に位置し、南東は川に沿って開け、北東は緩やかな山が迫る。西は三谿みたに和知わち(現三次市)、東はかみ村、南は木戸きど尾引おびきの両村に接する。恵蘇えそ郡に属する。村域には西にしさこ古墳群(一二基)など直径一〇メートル前後の円墳多数が分布し、須恵器・土師器が出土している。村名は文明一五年(一四八三)九月二六日付の山内豊通譲与請地日記(山内首藤家文書)に「一所京着公用四拾五貫文 下村栖真院領」とみえる。また明徳四年(一三九三)一〇月一日付の延暦寺千手院領備後恵蘓西条河北等所務職補任状(同文書)により、山内通忠が所務職に補任された西条さいじようというのは、のちの上村・下村をさすものと思われる。


下村
しもむら

[現在地名]静岡市下

安倍川中流の左岸沿い、賤機山しずはたやま丘陵の北端西に位置し、南は福田ふくだ村。北部にくじらヶ池がある。地内に三輪みわ神社があり、永正三年(一五〇六)一二月吉日刻銘の社蔵鰐口に「駿河国安倍ママ三和大明神」とある。天正一二年(一五八四)一二月三日に作成され、徳川氏奉行中に提出された三輪郷棟別指出(稲葉文書)に「下村」の住人の家五軒が記載されている。同一五年四月に作成され、徳川氏奉行衆に提出された三輪郷社領指出(同文書)には下村大明神領五〇〇文と記される。なお永禄一二年(一五六九)一月二〇日、武田信玄が中山又六に「崇寿寺領下之村」の一五貫文を含む一一五貫余を与えており(諸家古文書写)、下之村は当地とも考えられる。

領主は安西外あんざいそと新田と同じ。


下村
しもむら

面積:五・八〇平方キロ

射水郡の北東部に位置し、北は新湊市、東から南は富山市、南西は小杉こすぎ町。小杉町との境を新堀しんぼり(鍛治川)が北西流し、当村西端で村域南部を西流してきた新鍛治しんかじ川を合せる。おもな交通路は国道八号、県道小杉―本江ほんごう線・八町はつちよう大門だいもん線など。村域はかつては古放生津ほうじようづ潟の一部であったが、潟の縮小とともに陸地化して湿田地帯となったと考えられる。一面標高一メートル以下で、集落は湿地帯の中の微高地上に立地している。考古遺跡は少なく、白石しらいしの新堀川付近で須恵器の甕の破片が採集されている。

古代には北陸道が通っていたとされ、越中八駅の一である白城しらき(「延喜式」兵部省)を当村の白石から小杉町の白石にかけての地に比定する説がある(越中志徴)。中世は京都賀茂御祖かもみおや神社(下鴨神社)倉垣くらがき庄に含まれ、庄内には多数の末社が勧請された。


下村
しもむら

[現在地名]下村加茂かも加茂東部かもとうぶ加茂西部かもせいぶ加茂中部かもちゆうぶ

現下村のほぼ中央部に位置し、大白石おおしらいし村から北上してきた北陸街道が通る。寛文二年(一六六二)同街道の宿駅に指定され(増補大路水経)、以後幕末に至った。中世には京都賀茂御祖かもみおや神社(下鴨神社)倉垣くらがき庄の中心地域であったとみられ、加茂かも神社がある。天文元年(一五三二)平兵衛らから一〇〇刈分の田地を現銭八〇〇文で買得した打出二屋五郎兵衛は、その田地を当時打出うちいで(現富山市)にあった極性ごくしよう寺に寄進しているが、売主平兵衛らは「射水郡クラカキシモ村ノ内エヒエノ住人」であった(同年九月二八日「平兵衛・藤兵衛売渡状」極性寺暦代略記)。ここにみえる倉垣下村が当村の前身とみられ、海老江えびえ(現新湊市)の住人とは当地加茂神社の末社海老江加茂社の氏人の意味で、当時の両村の力関係をも示している。



しもこしきそん

面積:五七・六〇平方キロ

下甑島の北部を除いた大部分を占め、東・西・南は東シナ海に面し、北は甑島こしきじま列島最高峰の(六〇四・三メートル)の頂上分水嶺を境にして鹿島かしま村。縄文時代の遺跡として片野浦かたのうら丸塚まるつか遺跡がある。周辺からは弥生―古墳時代の土器・石斧などが発見されている。弥生時代から古墳時代にかけての遺跡として手打てうち貝塚、大原おおはら宮薗みやぞの遺跡、片野浦遺跡・ススうら遺跡、大串おおくし遺跡、瀬々野浦江川せせのうらえご遺跡などがある。下甑村歴史民俗資料館に手打の新田につた神社境内出土の製鏡(小型内行花文鏡)がある。舶載鏡(中国鏡)をまねて日本で作った鏡である。同社境内からは土師器・須恵器なども発見されている。小型内行花文鏡は弥生時代後期中頃から終末期に北部九州で製作されたものであろう。


下村
ならげむら

[現在地名]上山市楢下

金山かねやま川と川の合流点に立地し、しばしば洪水にあった。北西下流は皆沢みなざわ村。奈良下とも書く。古くから交通の要衝に位置し、近世は羽州街道の宿駅として栄えた。地内に縄文期から弥生時代までの煙硝蔵えんしようぐら遺跡、文明五年(一四七三)・永正五年(一五〇八)・天文一一年(一五四二)の板碑がある。両川合流点の段丘上に楢下館跡があり、戦国時代最上領最南端の砦で、三重の空堀(幅三間・深さ二間)があったが、今はわずかにその痕跡が残る。南の置賜おきたま郡・陸奥国刈田かつた郡は伊達氏の勢力下で、永正一一年伊達稙宗は楢下口から進入して最上義定を攻め、上山城、長谷堂はせどう(現山形市)を占領したが、その後、両城は最上氏に返還された。天正二年(一五七四)最上義守・義光父子の抗争に際し、伊達輝宗は義守を助けて義光を討つべく五月二三日当地に出陣、二六日まで滞陣した。



しものつじむら

[現在地名]鶴見区鶴見一―六丁目・みどり二丁目

放出はなてん村の北にある。東成ひがしなり郡東端の南北に細長い村で、東は当村を起点とするつるぎ堤で河内茨田まんだ郡と境する。集落の南を数本の井路が西流するほか、多数の井路が縦横に走り、剣堤を剣道が、南北に馬場ばば(現守口市)方面からの道が通る。後堀河天皇の頃、近江滋賀郡比叡辻ひえつじ(現大津市)の百姓一七人が北条泰時の下知により開村したといい、字古屋敷ふるやしきは彼らが居宅を構えた所、産土神の鶴見神社の宮座一七家は開村家筋と伝える(大阪府全志)。村名は当地願正がんしよう寺の明応三年(一四九四)四月二八日の阿弥陀如来絵像裏書に「横枕願正寺門徒 摂州西成郡放出辻」とみえる。「西成郡」とある理由は不明。


下村
しもむら

[現在地名]鶴見区茨田大宮まつたおおみや一―四丁目など

茨田まんだ郡に属し、はま村の東にある。北は三ッ島みつしま(現門真市)で、西端をふる川が南流し、村内を縦横に走る井路川が注ぐ。集落は古川東岸にある。建武元年(一三三四)四月一〇日付後醍醐天皇綸旨(三浦文書)に「河内国西比野庄新田・下村、同国中村西郷地頭職事」とみえ、西氷野にしひの庄下村ほかの地頭職が勲功の賞として三浦林四郎(盛安)に与えられている。この地頭職は同四年八月二九日の足利尊氏下文(古蹟文徴)により「三浦林四郎跡」に安堵されており、暦応四年(一三四一)閏四月一七日の足利直義下知状(同書)では元亨元年(一三二一)二月二三日の安堵状に任せ紙屋川教氏に安堵されているが、延文五年(一三六〇)七月一六日の沙弥某渡状(三浦文書)では三浦兵衛丸に安堵されている。


下村
しもむら

[現在地名]湯来町下

水内みのち川の最下流域にあり、麦谷むぎだに村の北東に位置する。北は山県郡坪野つぼの(現加計町)、東南は沼田ぬまた久地くち(現広島市安佐北区)などに接する。東西は山が迫り、村の中央を北東流する水内川が久日市さかいちの地で太田おおた川と合流し、その流域の小平地に集落が展開する。村名は水内川の川下にあることによる。江戸時代初めは菅沢すがざわ村など三ヵ村とともに水内村と称し一村として扱われた。寛永一五年(一六三八)の地詰により、田方一七町四反余・分米二五〇石余、畠方二四町五反余・分米一七五石余、屋敷七反余・分米一一石余、畝数は合わせて四二町七反余、高は合わせて四三四石余の村として成立した(「佐伯郡水内下村地詰帳」高橋家文書)



しももみむら

[現在地名]久米南町下籾

別所べつしよ村の西に位置し、北は中籾村。上籾村と併せて村と称していたとされ、元禄二年(一六八九)の籾村差出帳(今井文書)によれば延宝三年(一六七五)村分けを命じられ、上籾・中籾・下籾の三村になったという。「作陽誌」では中籾村は延宝六年に下籾村から分村したとある。

正安四年(一三〇二)三月日の志呂宮祭頭文次第写(志呂神社文書)では、志呂しろ神社(現御津郡建部町)の祭礼には籾村分として一九人の頭人が編成され、春・秋の祭料を四町六反二〇歩単位で負担している。応永六年(一三九九)九月、豊楽ぶらく(現建部町)の本尊灯油田として籾村行時名の一反歩が寄進されている(「右衛門尉景貞寄進状」豊楽寺文書)


下村
しもむら

[現在地名]浜松市子安町こやすちよう

天竜川と馬込まごめ川の間の平野に位置し、北部を東海道が通る。東は上飯田かみいいだ村、西は植松うえまつ村。有玉下ありたましも村と区別するため、蒲下かばしも村ともみえる。中世は蒲御厨のうち下村として推移した。明徳二年(一三九一)頃の蒲御厨年貢公事銭注文写(東大寺文書)に下村とみえ、定麦四石九斗余・定豆五石五斗余、定役五貫二〇五文。応永二九年(一四二二)閏一〇月一〇日の蒲御厨収納帳(同文書)では一貫文を納めている。享徳元年(一四五二)一二月三〇日の蒲御厨年貢進未算用状案(同文書)では下村の年貢二三貫四〇〇文のうち未進四貫文。文安五年(一四四八)蒲惣検校源清家が下村の壱間半名を三〇貫文で売却した(同年二月九日「蒲惣検校源清家売券案」同文書)。買得したのは当時御厨の代官であった応島久重で、享徳三年五月一四日、東方公文の多母木清宗がこれに対して異議をとなえている(「多母木清宗書状」同文書)


下村
しもむら

[現在地名]美里町毛原下けばらしも

滝野川たきのがわ村の東に位置し、東北は小西こにし村。村域は貴志きし川南岸にあり、北岸を通る高野街道は当村の西端で南岸に渡り、小西村に入る前に再び北岸に戻る。集落は三つの小名に分れ、中央をいしみね、東を赤地あかじ、北を平岩ひらいわという。石ヶ峰は、明応四年(一四九五)一一月二五日の無量光院賢快田地売渡状(飛見家文書)に「毛原庄之内石之峯」「毛原石峯」とみえる。


下村
しもむら

[現在地名]下津町下

塩津しおつ浦の南にあり、西流する加茂かも川を挟んで位置する。西は丸田まるだ村、南は黒田くろだ村に接し、東は小南こみなみ梅田うめだの両村。「中右記」天仁二年(一一〇九)一一月六日条によれば、藤原宗忠は熊野詣の帰途、橘本たちばなもと王子前より南へ五、六町、賀茂かも庄田の中を渡ること一〇余町、西小野にしおの山を過ぎて舟津に着き、そこより和歌浦わかのうら(現和歌山市)に渡ったと記す。舟津は塩津をさすと思われるから、ここに記される賀茂庄(加茂庄)は、小松原こまつばらなか・梅田・小南・下付近ということになるが、この荘名は「中右記」にのみみえ、詳細は不明である。


下村
しもむら

[現在地名]京北町大字下

山国やまぐに九ヵ村の一。大堰おおい川上流右岸にある山間集落。北東は鳥居とりい村、西南は周山しゆうざん村。村内を丹波路が通る。

村の中心付近の川岸に殿橋とのはし遺跡があり、土師器・須恵器および住居跡と思われる竪穴の柱跡や炉跡の焼土・灰などが発見された。また集落裏山一帯に折谷おりたに古墳群がある。古代は「和名抄」に記す山国郷に属し、中世は山国庄本郷(山国杣)八ヵ村に含まれる。

村名の初見は、宝徳三年(一四五一)八月一〇日付山国惣庄山地寄進状写(井本昭家文書)で、山国惣庄の古老の一人として「下村細見道一」と記されている。


下村
しもむら

[現在地名]若宮町下

犬鳴いぬなき川を挟んで小伏こぶし村の東、同川の右岸に位置する。犬鳴川の上流域に広がる吉川よしかわ河内の入口にあたり、北東は金生かのう村、南西は湯原ゆばる村。当村の枝郷として「続風土記」はなまり村・大河畑村をあげるが、「続風土記附録」によると、寛政(一七八九―一八〇一)頃には大河畑村はなく、同書は村の南部の力丸畑りきまるばたや小河畑を総称して大河畑村とよんでいたのだろうと推定している。小早川時代の指出前之帳では二筆で記される吉川村のうちの一筆に含まれて高付されていた。慶長七年(一六〇二)の検地高一千一六四石余、うち大豆一一四石余(慶長石高帳)


下村
しもむら

[現在地名]倉敷市児島下の町こじましものちよう・児島下の町一―一〇丁目・児島上の町こじまかみのちよう四丁目・児島田の口こじまたのくち一丁目

かみ村の南に位置し、南は瀬戸内海に面する。「東備郡村志」には古名柘榴ざくろ浜というとある。「備陽記」には枝村として堀江ほりえ・タハを記す。元和三年(一六一七)児島郡物成帳では高九三三石余。享保六年(一七二一)の田畠五一町一反余、池一二、家数一二一・人数八三八、船五(備陽記)。文化年間の「岡山藩領手鑑」によると田八三六石余、直高七八九石余で池田和泉の給地、田三六町六反余・畑一五町六反余、新開として塩浜四反四畝余、池一九、樋六三、井戸九、石橋一、育麦蔵一、家数二一三・人数一千二三〇、山伏家二軒・社方一軒、牛一二一、船四九、ほかに肥し船三、紺屋二軒(藍瓶二本)・酒屋二軒、大工八・桶屋二、石工・船大工各一。


下村
しもむら

[現在地名]岱明町大野下おおのしも

北部を友田ともだ川が西流し、東は中程なかほど村・土器屋かわらけや村、西は折地おりち(現長洲町)、南はなべ村・扇崎おうぎざき村と接する。近世は坂下手永に属する。慶長国絵図に村名がみえ、寛永郷帳では高一千二一一石二斗余、寛永二一年(一六四四)七月、高一二八石余が兼坂藤右衛門に宛行われている(「細川光尚判物」加悦文書など)元禄国絵図には当村のうちとして中程村・鍋村・扇崎村があり、当村からの分村がなされていて「国誌」の高は七八〇石七斗余とある。同書に記す小村に芝原がある。


下村
しもむら

[現在地名]名田庄村下

小倉おぐら村の西方、みなみ川の断層崖に沿って東西に長い村。名田庄の諸村のなかでは耕地が広く農業を主とする。中世には名田庄上庄の地。年不詳若狭名田庄調度文書案(大徳寺文書)によれば「上村・坂本・中村・下村」が上庄とされ、「以下村惣庄」とある。政所が置かれていたものであろう。慶安元年(一六四八)の下村検地帳(菅原家文書)によればこの年三月に検地が行われており、田畑計四〇町一反余、分米三四九・六石余、名請人四一名。


下村
しもむら

[現在地名]七尾市下町・青葉台町あおばだいまち

石動せきどう山系および徳田とくだ段丘の間の地溝帯、八幡やわた村の南に位置する。垣内に新田しんでん中道なかんど在所ざいしよ下出しもで御陣屋ごじんやしやかみうみ垣内かくち院内いんないがある。天正一四年(一五八六)の年貢算用状(八幡区有文書)に八幡下村とみえ、寛文一三年(一六七三)頃まで八幡村に含まれていたと考えられる。領主の変遷は同村に同じで、貞享元年(一六八四)幕府領になったとき陣屋が置かれ、能登幕府領の守護神である稲荷宮(現久志伊奈太伎比神社境内社)が祀られた(稲荷宮文書)。享保六年(一七二一)の高四四八石余、免四ツ二歩、小物成は山手米一二石余・夫米一一石余・高役二三六匁余・歩入(小物成銀一〇〇目につき一〇目の割増し)・棟役・苦竹役一匁五分など(「幕府領小物成帳」室木文書)


下村
しもむら

[現在地名]袋井市春岡はるおか

周知すち郡に所属。宇刈うがり川中流域、宇刈丘陵の谷間入口に位置する。南は上久野かみくの村、西は下山梨しもやまなし村。市場いちば村の下にあるので下村と称し、両村田地は錯綜していた(掛川誌稿)。慶長年間(一五九六―一六一五)に分村したという(遠江国風土記伝)。上山梨村の太田おおた川より当村の西を流れて宇刈川に合流する細流は太田川の水が溢れ出た跡で、西川原にしがわらとよんだという(掛川誌稿)正保郷帳に村名がみえ、幕府領、田方三一六石余・畑方二五石余、極楽寺領四石五斗。寛文四年(一六六四)掛川藩領(「井伊直好領知目録」寛文朱印留)、幕末に至る(袋井市史)元禄郷帳では高四一八石余。


下村
しもむら

[現在地名]堺市浜寺はまでら昭和しようわ町一―五丁・もと町一―六丁・みなみ町一―三丁・公園こうえん町一―四丁〉・鳳中おおとりなか町七丁など

船尾ふなお村の南にある平地の村で大鳥郡に属する。明治八年(一八七五)山内下やまのうちしも村・東下ひがししも村・西下村が合併して下村となったが、この三村は古くは単に下村として一村であったとみられる。寛永末年頃の状況を記したと推定される和泉国郷村帳では山内下村は「下村」一五五石余、東下村は「下村東」三〇〇石余、西下村は「下村西」二九七石余とされ、いずれも幕府領であるが、東西両村は奈良奉行支配。


下村
しものむら

[現在地名]土佐山田町下の村

町田まちだ村の物部ものべ川北西対岸、沖積平野の低地に位置し、西は山田やまだ村および中野なかの村の飛地。片地かたじ(村)一三ヵ村の一で、明治初年片地村となる。

古くは下島しものしま村ともよばれたらしく、天正一六年(一五八八)の山田郷地検帳は、下島として八〇筆一二町九反余を記す。その大部分は下島分で、浜田新兵衛の給地と抱地二町五反余を除くと、残りは無姓の百姓四〇人余の抱地で、兵農が分離された専業百姓が多いのが特色。慶長二年(一五九七)の秦氏政事記(蠧簡集)には下ノ島庄屋として門田藤兵衛・谷甚左衛門が記される。

元禄地払帳によると本田高一二九・五八三石、うち蔵入地四九石余で、残りは二名の知行。


下村
しもむら

[現在地名]綾部市下八田しもやた町・淵垣ふちがき町・岡安おかやす

八田川の中流域、八田郷の南端で、東は山家やまが、西は幾見きみ、南は綾部に通ずる。東西の山麓の小集落からなるが、大別すれば下八田・淵垣・岡安に分れる。

寛正二年(一四六一)の何鹿郡所領注文(安国寺文書)に「八田下村」とある。慶長六年(一六〇一)の御知行方目録(山家藩庁文書)には高一三一七・九八石「下八田村」とみえる。


下村
しもむら

[現在地名]嬉野町大字下宿しもじゆく字下宿一帯

現嬉野町の北東部。正保・元禄絵図や天保郷帳などには「下村」とあるが、位置より考えて他の郷村帳にある「下宿村」のことと思われる。貞享四年(一六八七)改・元文三年(一七三八)写の御領中郷村帳(佐賀県立図書館蔵)には「嬉野下村 下ノ宿」とあり、万延元年(一八六〇)改の郷村帳には「嬉野下宿西分東分下村共」とある。嘉永六年(一八五三)写の大小配分石高帳には「下ノ宿村」とあり、地米で三九九石九斗六升三合となっている。現在の下宿区には肥前国藤津郡嬉野郷下宿村御山方田畑本帳(享和元年)・同下宿村御山方畠畔茶屋敷角居帳(嘉永三年)・同下宿村御山方畠畔本帳(安政二年)等の田方帳が残されている。


下村
しもむら

[現在地名]御津町中島なかしま 山王さんのう

中島村の北、揖保川下流右岸河口近くのさぎ山の南麓に位置し、西は山田やまだ村。地名の由来は、中島村の豊島とよしま八幡宮(現揖保石見神社)の氏子である上川原かみがわら(現姫路市)とともに一村であったが分離、当村が最も川下にあたるので下村と名付けられたという。文禄三年(一五九四)六月五日の豊臣秀吉知行方目録(金井文書)に「下むら」とみえ、当村の一九四石余が小出吉政に与えられた。慶長国絵図には「しも村」とみえる。寛永一三年(一六三六)の龍野領村々高辻帳(八瀬家文書)では池田輝政による内検地高三五八石余、高二九六石余。正保郷帳では田方二一三石余・畑方八二石余。天保郷帳では高三八三石余。「西讃府志」によると高三三五石余、反別は二一町七反余、うち畑方八町三反余・屋敷二反余、年貢米一六一石余・大麦六石余、家数二五・人数一一九、牛四、産土神は豊島八幡宮、村内には荒神祠・稲荷祠・山王祠(現日吉神社)がある。


下村
しもむら

[現在地名]マキノ町下

山中やまなか村の西、うら村の北西にあり、知内ちない川が西流する。幕府領から慶安四年(一六五一)上野館林藩領、延宝八年(一六八〇)幕府領に復し、享保九年(一七二四)以降大和郡山藩領。寛永石高帳に高五三七石余とあり、慶安高辻帳では田方三八七石余・畑方九三石余・永荒五七石余、ほかに小物成米三升・銀八三匁余。享保九年大和郡山領郷鑑によれば高五三七石余、反別五六町三反余、家数一〇一(うち本百姓八九・水呑一二)・人数三六四、馬三三・牛二三、そのほか職人三がいた。


下村
しもむら

[現在地名]上矢作町下

上村かみむら川下流にあり、北の上流は上村・漆原うるしはら村に接する。暦応三年(一三四〇)二月一〇日の覚心譲状写(遠山文書)に「おくとを山上下村」とあり、遠山とおやま手向とうげ郷のうちで、「新かとう二入道」に一期に限り譲られ、そののちは遠山弥二郎景房に譲られている。応永七年(一四〇〇)四月二日の足利義満御教書案(高山寺文書)では「遠山庄奥遠山上下村」とあり、この頃には高山こうざん(現京都市右京区)の池坊領であった。慶長郷帳に村名がみえ、高二二六石余とある。正保郷帳では田方一三四石余・畑方九二石余。明治五年(一八七二)の村明細帳によれば、高二二六石余、田八町五反余・畑一〇町六反余、小御所分高六八石余、田三町一反余・畑五町一反余、新田高八石余、一町八反余、家数一〇五、人数男二三九・女二四三、馬二五。


下村
しもむら

[現在地名]婦中町下邑しもむら

井田いだ川と山田やまだ川の合流点の左岸と呉羽山くれはやま丘陵山麓東側の間に位置し、北西は小長沢こながさわ村、南は羽根はね村。羽根村の枝村で、その下にあるのでこのように名付けられた(婦負郡志)。のち他郡の下村と混同するとの理由で下邑とした(婦中町史)。寛永一〇年(一六三三)の牛ヶ首用水在々水割帳(牛ヶ首用水土地改良区蔵文書)によれば、縦一尺・横一尺六寸四分の取入樋の権利をもっていた。正保郷帳では高八六二石余、田方五七町一反余・畑方三反余。享保六年(一七二一)の高四四〇石余(「村付高改帳」島倉家文書)。寛政二年(一七九〇)の古高四四〇石余・定免四ツ五歩一厘、新田高四六石余・平均免八歩余、銀納畑四一七歩・代銀七匁五分余があり、小物成は山役二〇匁七分七厘(高物成品々手鏡)


下村
しもむら

[現在地名]宇和島市御幸町みゆきまち一―二丁目・和霊元町われいもとまち一―四丁目・和霊公園われいこうえん和霊中町われいなかまち一―三丁目・和霊東町われいひがしまち一―三丁目・和霊町・泉町いずみまち一―四丁目

宇和島城下町の北方にあり、須賀すが川に沿う村。東は中間なかいだ村、西は須賀浦に接する。宇和島藩領。慶安元年伊予国知行高郷村数帳(一六四八)の宇和郡の項に「下村 茅山有、小川有、日損所」とある。

太閤検地の石高は三三七石六斗七升、耕地面積の比率は田七四パーセント、畑二六パーセントであったが、寛文検地では石高が五パーセント減少し、田七三パーセント、畑二七パーセントとなっている。また慶安元年の郷村数帳には太閤検地高に須賀浦分一七四石三斗三升を加えた数値高五一二石とあり、天保郷帳には、これを元禄九年(一六九六)に「拾万石御高直」をした七四七石七斗二升四合がとられている。


下村
しもむら

[現在地名]北区志茂しも一―五丁目

赤羽根あかばね村の東にあり、東を荒川が流れる。対岸は足立郡元郷もとごう(現埼玉県川口市)。田園簿に下村とあり、田三二八石余・畑八六石余、幕府領。寛文五年(一六六五)には九四石余が小石川伝通でんづう院領となっていた(寛文朱印留)。荒川沿いには浪人した代官手代の八官七兵衛という人物が寛文―延宝期(一六六一―八一)に開発した八官はつかん新田があり、また荒川対岸には飛地として岩淵いわぶち宿との入会地となっていた持添新田の梛野原なぎのはら新田があった。荒川には作場渡二ヵ所があった(風土記稿)。旧高旧領取調帳では幕府領三九六石余・浅草幡随ばんずい院領五〇石・谷中南泉やなかなんせん寺領三〇石余・小石川伝通院領二六三石余。


下村
しもむら

[現在地名]京北町大字細野ほその

細川ほそかわ七ヵ村の一。大堰おおい川の支流細野川沿岸に開けた山間集落。川の上流は細川のなか村、下流は長野ながの村。古代は「和名抄」に記す池辺いけのべ郷に属し、のち細川庄に含まれる。

慶長七年(一六〇二)幕府領。その後細川の中村など四ヵ村とともに二条家領に編入されるが、その時期は不詳。牧家文書から推測すれば、元禄元年(一六八八)以前であろう。嘉永三年(一八五〇)の年貢御勘定帳(二条家文書)では、村高一五八・三五石、免率六割七分、庄屋給二・五石、年寄給五斗、狩人給五・三〇七八石で、明治まで変化はない。明治元年(一八六八)の宗門御改帳および同三年一〇月付の細川下村戸籍帳(同文書)では、戸数三〇、人数一五四(男七八、女七六)、ほかに寺院蔵春ぞうしゆん庵が記される。


下村
しもむら

[現在地名]夢前町置本おきもと

山富やまとみ村の北に位置し、夢前川中流域左岸に立地する。慶長国絵図に下町村とある。正保郷帳では置塩おしお村に含まれ、貞享元年(一六八四)の本多忠国領知目録(本多家文書)には独立して村名がみえる。元禄郷帳では「古ハ置塩村」と注記され、高三五四石余。ほかに下村枝郷の新畑しんばた村が記される。宝永年間(一七〇四―一一)の前之庄組高反別帳写(清瀬家文書)では高三九五石余(うち無土百姓弁二九石余)、反別は田方一四町二反余・畑方六町五反余、免四ツ六分、家数四七・人数二一五。寛政六年(一七九四)の姫路藩財務覚書(熊谷家文書)では年貢は二石余が大豆納で、大豆のない年は米納であった。


下村
しもむら

[現在地名]山都町木幡こはた

上林かんばやし村の東、いち川西岸の河岸段丘上にあり、古くは集落は村北部のどうまえにあったと伝える。東は一ノ戸川を挟んで寺内てらうち村。文禄三年(一五九四)の蒲生領高目録に村名がみえ、小布瀬こぶせ郷との注があり、高一〇二石余。享保一八年(一七三三)の木曾組手鑑(真部家文書)では高三四四石余(うち新田二〇六石余・新畑七石余)、本田畑は免五ツ六分五厘で、田方四町九反余・畑方一一町余、家数二一(竈数二二)・人数一〇一、雑駄一四。なお同一五年の木曾組諸役等書上帳(五十嵐家文書)によると山役銀二分四厘・川役銀一六匁八分二厘、漆木役二七二本四分などを負担していた。


下村
しもむら

[現在地名]那賀町名手下なてしも

しず(現穴伏川)の西岸、(現重谷川)と静川との合流地点より北に位置し、北東は平野ひらの村、東南は静川を境に伊都いと郡、西は江川中えがわなか村・切畑きりはた村に接する。「続風土記」は「静川荘三箇村にて下にあるを以て下村の名あり」と記す。縄文から弥生時代にかけての遺跡があり、石鏃・サヌカイト片などが出土している。中世は高野山領静川しずかわ庄に含まれた地であるが、江戸時代は和歌山藩領となり伊都郡代官所の管下に属した。

慶長検地高目録によれば村高二二五石余、小物成五斗七升五合。名手組に属し、「続風土記」では高二四八石余、家数一八、人数一五〇。


下村
しもむら

[現在地名]上石津町下山しもやま

山上やまがみ村の西にあり、南は打上うちあがり村。文禄五年(一五九六)の多良山年貢割帳(西脇文書)にみえる「下」は当村のことと考えられる。慶長一二年(一六〇七)の時六ヵ村惣高覚(伊藤文書)によると高五二八石余、反別は上田六町五反余・中田五町一反余・下田三町三反余、上畑二三町七反余・中畑七町四反余・下畑二町二反余で、旗本高木三家領。元和四年(一六一八)の時・多良村川成内検目録(東高木文書)では田畑一町一反余の米高一四石余・定米六石余。寛永六年(一六二九)の徳川家光朱印状(市田文書)では当村二六〇石余が高木貞勝(西高木家)に与えられている。同家の同一三年の知行方物成帳(西高木文書)には小物成として小麦一石余・大豆二石余・布六反・油荏一石余のほか掛茶などがみえる。


下村
しもむら

[現在地名]佐賀市兵庫町ひようごまち大字ふち字下村

東は巨勢こせ川を挟んで修理田しゆりた村、南は三間さんげん川を挟んで牛島うしじま村に接し、西は大溝おおみぞ川を挟んで大財おおたから村、北は西中野にしなかの村・東中野村に接する。下村本村と北修理田の集落があり、ともに環濠集落で低平な水田地帯である。

下村は明応六年(一四九七)小城おぎ郡から佐賀郡巨勢郷に移った下村三郎左衛門が開発したといわれる。元亀元年(一五七〇)大友氏の軍勢が佐賀に進出した際、長興ちようこう寺で出家していた下村生運は百姓とともに戦って功をあげ、竜造寺隆信や鍋島直茂の信任を得て還俗した。


下村
しもむら

[現在地名]飯田市下村

現飯田市の南部、天竜川の左岸に位置。村名の文献上の初見は元亀三年(一五七二)、知久頼氏が香坂右近介に当村並びに毛呂窪けろくぼの地を与えた宛行状(藤本蕃氏蔵)である。

当村は近世の初期まで今田いまだ村に包含されていたが、寛文(一六六一―七三)の頃分村して独立村となった。分村した頃は幕府領であったが、天保一四年(一八四三)飯田藩領となり、弘化三年(一八四六)白河藩阿部氏領となった。慶応元年(一八六五)からは幕府領飯田藩預りとなった。

村高は元禄一五年(一七〇二)に三二〇石余(信濃国郷帳)


下村
しもむら

[現在地名]岩国市大字下

柏木かしわぎ山の尾根が南に大きく張り出し、にしき川の流れを南に曲げる尾根南端部分に集落があり、東は錦川を隔てて保木ほうきすみの両村、西も錦川を隔てて行波ゆかば村である。

寛永二〇年(一六四三)河内こうち郷を分割してできた村で、慶安四年(一六五一)の「御領分村一紙」に村名がみえる。村内の小名には細里ほそり井応木いおうぎ定乗さだのり・えらなどがある。井応木には弥生時代の遺跡があり、山腹など三ヵ所に、同時代末から古墳時代初期にかけて住居があったことが推定される。

水田は二町歩ばかり、畑と山ばかりの村で、慶安四年の村高は高一五三石余だったが、これは楮高が過大だったようで、寛文一二年(一六七二)の検地では一二六石余に低下した。


下村
しもむら

[現在地名]加古川市八幡町下村やはたちようしもむら

上西条かみさいじよう村の東に位置する。北部を草谷くさたに川が西流する。慶長六年(一六〇一)菅沼半平は下村内の高二九二石余を、同九年渡瀬淡路守は高三五〇石の知行を認められている(「池田輝政家臣地方知行状」鳥取県立博物館蔵)。慶長国絵図に村名がみえる。正保郷帳によると田方七三二石余・畑方一二二石余。寛延二年(一七四九)の姫路藩領一揆では西条組大庄屋打毀に当村の者三名も参加している(「大坂町奉行諸伺・城代下知留」九州大学法学部蔵)。姫路藩の木綿専売政策により綿作が盛んとなり、文化一四年(一八一七)の綿作面積は一二町余で、全田畑面積の二二パーセント以上を占めている(「田畑植仕付帳」本岡家文書)


下村
しもむら

[現在地名]鏡町下村

東は平島ひらしま村、南は種山手永きた(現千丁町)、北は内田うちだ村・小路しようじ村に境し、西は海辺で、寛政一二年(一八〇〇)に北村開が築造された。沖積地で、うしみず村・中野なかの村・田中たなか村などの小村がある。村の中央を中道なかみち往還が南北に走る。正保郷帳に高一千四六二石余、うち田方一千四四七石六斗余・畠方一四石三斗余とある。「国志草稿」に「下村千七百弐拾六石余」とみえる。文政四年(一八二一)頃の野津手永手鑑に「下村 庄屋林助 高千七百弐拾六石六升八合 御物成六百五拾七石六斗三升壱合九勺六才 高三ツ八分壱朱」とあり、また内田村・鏡村・鏡町の鍬先地がみられる。


下村
しもむら

[現在地名]田鶴浜町西下にししも

北流する二宮にのみや川に伊久留いくろ吉田よしたの両川が合流する地点で、東西に連なる低い丘陵の北側に位置する。田鶴浜往来満仁まに(現七尾市)から二宮川を渡って当村に入り、北の杉森すぎもり村に向かう。天正八年(一五八〇)から長連竜領で、文禄二年(一五九三)の鹿島半郡高帳に村名がみえ、高二〇七石余。正保郷帳では高二一七石余、田方一三町七反余・畑方七反余。寛文一一年(一六七一)の鹿島半郡高免付帳(長文書)によると高二五一石、免五ツ八歩七厘。


下村
しもむら

[現在地名]上郡町船坂ふなさか

山野里やまのさと村の北西、安室やすむろ川下流域に位置する。江戸時代の領主の変遷は山野里村に同じ。慶長八年(一六〇三)池田輝政は当村のうち二〇〇石を加藤小十郎に宛行っている(「池田輝政家臣地方知行状」鳥取県立博物館蔵)。正保郷帳では田高五四三石余・畠高一三二石余。天保郷帳では高七六五石余。慶応四年(一八六八)の二木村外神社寺院書上帳(石野家文書)によれば、八幡宮・荒神宮・稲荷社・阿弥陀堂・地蔵堂・毘沙門堂・薬師堂・禅宗西方さいほう寺・同観音庵がある。嘉永七年(一八五四)菅野瑞堂が観音庵に寺子屋を開設(兵庫県教育史)。明治六年(一八七三)静学せいがく学校が開校(同八年文部省年報)


下村
しもむら

[現在地名]高槻市山手やまて町一―二丁目・下・みどり町・宮野みやの町・高垣たかがき町・野田のだ一―四丁目・安満磐手あまいわて

安満村の東にある。檜尾ひお川中流屈曲点の右岸に位置し、中央を西国街道が東西に走る。古代条里制の遺称とされる小字に二ノ坪がある。別所べつしよ・安満両村とともに安満の磐手杜いわてもり神社の氏地の一部とされており、「下」はその郷中の檜尾川下の意であろう。慶長一〇年(一六〇五)の摂津国絵図に「下村」とみえ三六二石余。


下村
しもむら

[現在地名]玉名市下

北東に松平まつがひら(三八三・二メートル)、西境を菊池川が南流し、北は日平ひびら(現玉名郡菊水町)山部田やまべた村など、南は安楽寺あんらくじ村などと接する。慶長一三年(一六〇八)の検地帳に「安楽寺下村」、元禄国絵図にも「安楽寺村之内下村」とあり、安楽寺村からの分村。慶長の検地帳によると田五四町五反二畝余、下ケ名に十五・そう津山・古城などがある。「国誌」には高一千一八九石余、「秋丸村平野村白丸村池田村等ノ小村アリ」とある。内田手永に属し、天保五年(一八三四)の同手永手鑑では高一千一八九石六斗余・御土物成七七三石二斗余、田五四町五反一畝余・畑四八町二畝余。明治一一年(一八七八)頃の戸数二六三・人数一千三五三、牛馬一六二、日本型船一(五〇石未満荷舟)



さげひむら

[現在地名]本宮町岩根いわね

羽瀬石はぜいし村の南、大名倉おおなぐら山南麓の五百ごひやく川北岸に位置する。西部の一部を除き平坦。元和八年(一六二二)梅木うめき原を中心に蒲生氏の免許を得て開発された新村で(松藩捜古)、耕地は小規模。中央を二本松街道(会津街道)が東西に通る。村名は日影沢ひかげざわ堰の水樋を黒岩くろいわの断崖からさげたことにちなむという(「岩根村村是調査書」本宮町立歴史民俗資料館蔵)羽瀬石村の古新田扱いであったため、幕府へ提出した郷帳には村名はない。


下村
しもむら

[現在地名]氷上町清住きよずみ

南端を葛野かどの川が流れ、北は十九じゆうく山、東は上新庄かみしんじよう村。文禄四年(一五九五)一二月一〇日の稲畠方和・神足常広連署年貢免除状(達身寺文書)に「葛野下村之内たるミ堂」とみえる。「たるミ堂」は当地達身たつしん寺にあたる。慶長三年(一五九八)織田信包(柏原藩)領となる。正保郷帳に村名がみえ田高一七五石余・畠高一五五石余、柴山・林あり、日損少しあり。柏原藩領。慶安三年(一六五〇)幕府領、貞享元年(一六八四)旗本柴田領となる(「寛政重修諸家譜」など)


下村
しもむら

[現在地名]安富町瀬川せがわ

安志あんじ谷の南端、南流する安志川(現林田川)の東岸に位置し、対岸は狭戸せばと村。村内を西流する大谷おおたに川は安志川に合流する。領主の変遷は延宝七年(一六七九)まで安志村と同じ。同年から明和元年(一七六四)まで塩野しおの村と同じ。同年幕府領三日月藩預地、安永四年(一七七五)幕府領、天明元年(一七八一)幕府領三日月藩預地、寛政六年(一七九四)幕府領となり幕末に至る(「宍粟郡領主記」東京大学史料編纂所蔵、田路家文書・福井家文書など)。江戸時代前期の検地年次は安志村と同じ。


下村
しもむら

[現在地名]豊田市上郷かみごう

市域南端部に位置し、村域は矢作川の支流家下やした川と明治用水に囲まれる。中世、上野うえの庄に属したという(豊田市史)。慶長一四年(一六〇九)かみ村と下村に分れた(岡崎市史)。近世を通じて岡崎藩領。寛永郷帳高は四三二石余。慶安二年(一六四九)の検地帳では、田畑合三七町七反余となっている。寛文五年(一六六五)岡崎藩主水野忠善の開発の命を受けて、当村から下村新郷が高一五六石余を持分として分村。文化元年(一八〇四)の下村五人組帳によると戸数七〇。


下村
しもむら

[現在地名]新穂村舟下ふなしも

舟代ふなしろ村と隣接するが地境は不分明。貞治五年(一三六六)六月一八日の源(本間)有直譲状写(夷本間文書)に「ふなしろのほうのうち上村」とあるのに対する下村であろうか。しかし舟代村より大野おおの川の上流に位置するので、水上の大野村に対する下村とも考えられる。元禄七年(一六九四)の検地帳(舟下区有)では田三六町四反余・畑一町六反の稲の単作地帯で、名請人七五人。地名は八四筆で、城の腰・城の内・城の前などの地字がある。「佐州巡村記」では畑が三町一反余に増加している。戸口は四〇軒・一三六人。


下村
しもむら

[現在地名]有漢町有漢

現町域の南端を占める。有漢川下流域にある信清のぶきよ山形やまがたを中心に、南東部の安元やすもと横見よこみを含む。江戸初期には当村のほかなか村・かみ村を含め下有漢村と称した。寛永備中国絵図では下有漢村の高八〇九石余。正保郷帳では高一千八〇石余、枝村に横見村・大谷おおたに村がある。元禄八年(一六九五)の旧松山領新高帳(羽場文書)に下村とみえ、古高六四七石余・新高八五五石余。


下村
しもむら

[現在地名]瀬戸町下

すな川の東側、瀬戸村の南にあり、集落は鉄砲てつぽう山南西麓に立地。慶長一〇年(一六〇五)備前国高物成帳(備陽記)物理もどろい保のうちに村名がみえ、古くは物理下村と称したという(備前記)。寛永備前国絵図では高三三七石。「備陽記」によると平場の集落で、岡山京橋(現岡山市)まで道程三里一四町、田畠二八町八反余、家数三九・人数二六二。天保年間の「磐梨郡三組手鑑」では直高四三二石余、蔵入と家臣四名の給地。


下村
しもむら

[現在地名]美山町大字下

知井ちい一二ヵ村の一。由良川の支流知見谷ちみだに川流域で、若狭(小浜)街道に沿う山間集落。北(知見谷川上流)知見中ちみなか村、南は由良川と知見谷川の合流地点に中村がある。東西は山が迫り、東へ山を越えると江和えわ村である。古代は「和名抄」に記す弓削ゆげ郷に属し、鎌倉時代以降は知井庄の地。

慶長七年(一六〇二)幕府領、寛文四年(一六六四)より篠山藩領となるが、山林は享和二年(一八〇二)より禁裏御料となり京都代官の支配を受けた。


下村
しもむら

[現在地名]奈良市柳生下やぎゆうしも

打滝うちたき川流域、柳生村北方にある。村域内に柳生古城跡がある。柳生城の北約六〇〇メートル、標高三〇五メートルの山上にあり、笠置かさぎ(現京都府相楽郡笠置町)へ通ずる南北の道と、狭川さがわ―柳生―邑地おおじを結ぶ東西の道の交点を一望する要衝にある。上下二段の郭・空堀・土塁などの跡が残る。

正保三年(一六四六)柳生宗矩の死により、柳生村のうちから芳徳ほうとく寺に二〇〇石を割き、その所領が柳生下村となる。


下村
しもむら

[現在地名]西区平野町下村ひらのちようしもむら春日台かすがだい六―七丁目

明石川中流左岸に位置し、南は福中ふくなか村。古くは下畑村と称した(元禄郷帳)。慶長国絵図に下畑村とみえる。正保郷帳には「平ノ」と肩書して同様に記され、田方一二〇石余・畑方六六石余、芝山あり。元禄郷帳に村名がみえる。明石藩領押部組に所属。享保年間(一七一六―三六)の「明石記」によると東西一町五六間・南北四〇間、人数一七〇・家数二〇。郷蔵・池九・小藪三・自分山八・井溝二、西御山は西戸田にしとだ村など五ヵ村立会。


下村
しもむら

[現在地名]北区小野下おのしもの

清滝きよたき川に沿って開かれた小野郷十ヵ村の一。

享保一四年(一七二九)の山城国高八郡村名帳による村高は六四石五斗七升余で、すべて仙洞御料。明治七年(一八七四)の「京都府管轄便覧」によれば、戸数二八軒。近世もほぼ同様であったと考えられる。

他の小野郷十ヵ村と同じく、仙洞への五月の菖蒲役を毎年務めていたが、高橋・日下部両氏がこの役にあたる家柄となっていた(波多野周造家文書)


下村
しもむら

[現在地名]桜井市大字下

うえみや村南方、寺川の上流に所在。「宗国史」には「十市下村」と郡名を付している。慶長郷帳の村高二一九・一七石。旗本別所孫次郎領。元和二年(一六一六)別所孫次郎の改易により幕府領(代官竹村嘉理)となるが、同五年以降津藩(藤堂高虎)領。「宗国史」に戸数三七、人口一九二、祠に天神・九頭竜王くずりゆうおう、寺に地蔵堂(聖林寺)・惣堂と記す。


下村
しもむら

[現在地名]水口町やま

どう村の南西に位置し、集落の北側をおもい川が西流し、南側は丘陵。中世は柏木かしわぎ御厨のうち上山村かみやまむら郷に属したと思われる。村内の南方すが谷の名は応永三年(一三九六)六月二日の山中善俊譲状(山中文書)に「上山村友行名内スカ谷」とみえる。


下村
しもむら

[現在地名]佐久市大字前山まえやま

中村の南台地上にある。蓼科たてしな山支脈突端の高台に展開する集落で、更に登れば佐久平を一望できる。

慶長一五年(一六一〇)の貫地帳(竹内文書)に畑村組として「百五拾貫文 下村」と記される。前山村より分れた村である。元和八年(一六二二)の佐久郡高書上帳(柳沢文書)に「弐百六十三石四斗 下村」とある。寛文元年(一六六一)から甲府領。


下村
しもむら

[現在地名]岡山市下

長利ながとし村の北、山王さんのう(八一・八メートル)の南面平地上に集落がある。中世は居都こづ庄下村に含まれて推移(→居都庄。寛永備前国絵図に村名がみえ、高九〇五石余。「備陽記」によると田畑五二町四反余、家数五五・人数三五四。文化年間の「岡山藩領手鑑」によれば直高一千六三〇石余、蔵入と家臣一三人の給地。田高九一七石余・四八町一反余、畑高六六石余・四町余、家数五九・人数二九六、牛二五、橋一〇、樋二四、給所藪八、請藪五(請銀一三匁余)、百姓惣林約一五町、浮田うきた大明神(現浮田神社)があり、洪水で流れてきたと伝える天手力男命を祭神とする。


下村
しもむら

[現在地名]瑞穂町字鎌谷下かまだにしも

土師はぜ川上流の鎌谷にある四ヵ村のうち、最下流部、すなわち北端部に位置する村で、川沿いに集落がある。東は井尻いじり村、南は東又ひがしまた村・なか村、西は上大久保かみおおくぼ村、北は水原みわら村。


下村
ひのしたむら

[現在地名]美里町樋下

貴志きし川に川が入込む地に位置し、北西岸の市場いちば村と相対する。北にある津川つがわ村の分村であった。市場村から遠井辻といつじ峠に向かう竜神街道が村内を通る。村名は市場村の池の樋の下にあることによる(続風土記)。高野山領神野こうの庄に属し、近世も高野山領であった。


下村
しもむら

[現在地名]松阪市下村町

久保くぼ村の東にあり、村域内を伊勢参宮街道が通る。「五鈴遺響」に「旧名下樋村今略シテ下村ト称ス」とある。古くは神戸かんべ六郷に属した。応永二六年(一四一九)一〇月二一日付大宮美濃守書状および同年一〇月の道後政所職事に「下村」、同年一一月五日付水谷道孫書状(以上いずれも神宮文庫蔵)に「下むら」「しもむら」とみえる。文禄三年(一五九四)検地が行われ、飯高郡下村水帳写(徳川林政史蔵)が残る。近世は和歌山藩松坂領。


下村
しもむら

[現在地名]和田山町安井やすい栄町さかえまち

竹田たけだ村の北、市場いちば村の西にある。円山まるやま川の支流安井川が形成する安井谷があり、その下流筋にあたるので、下村または安井下村と称した。一七世紀前期・中期とされる国絵図(石川家蔵)では「下村」とみえ、正保(一六四四―四八)頃の国絵図では、高三〇四石余。


下村
しもむら

志染しじみ川の上流域両岸の河岸段丘を中心とした中世の村で、八部やたべ山田やまだ庄に含まれた。宝徳四年(一四五二)二月一九日の与一大夫等下地預け状(稲垣文書)に「山田せう下村」とみえ、当村の衛門三郎が自身の下地二反を放棄して地下(村)にその耕作権を引渡したため、地下の代表と思われる与一大夫らが宮内大夫に永代預けて耕作させることとしている。また天文二年(一五三三)一二月一四日には勧蔵が下村坂本の畠一所を(「勧蔵畠地売券」阪田文書)、同一七年一一月二七日には七郎左衛門直久が下村内の一二束刈の田地を(「直久田地売券」同文書)、いずれも玄尊に売却している。


下村
しものむら

[現在地名]船岡町下濃しもの

上船岡かみふなおか村の北東に位置する。東は八東はつとう上野かみの村。下野村・下濃村などとも記された(因幡志・在方諸事控)。もとは上野村と一村をなし、野村と称されていたという(因幡志)。拝領高は一三四石余。


下村
しもむら

[現在地名]二宮町鹿しか

桑野川くわのがわ村の西にあり、北は鹿村。慶安郷帳では田高一〇九石余・畑高九六石余。慶安二年(一六四九)常陸土浦藩領となる。元禄郷帳では幕府領、改革組合村では旗本川村領、家数三。明治八年(一八七五)鹿村に合併された。字天神山てんじんやま前方後円墳天神山古墳(県指定史跡)がある。南鹿古墳群の主墳で、同古墳群中では天神山古墳のみが完全な墳形を保つ。


下村
しもむら

[現在地名]三田市下里しもざと

上槻瀬かみつきせ村の北、北東端に大船おおふね(六五三・一メートル)があり、大部分は山地で、中央を南流する羽束はつか川両岸に平坦地が開ける。慶長国絵図に下村とみえる。正保郷帳では高平たかひら之内下村とみえ高一〇七石余。


下村
しもむら

[現在地名]伊勢市矢持やもち町 下村

横輪よこわ川の中流河谷、横輪村の東にある。一宇いちう郷の一村。幕府領で天保九年(一八三八)の指出帳(徳川林政史蔵)によれば、家数二三、人数一二八。産神熊野社、禅宗瑞珠院が書上げられている。農間稼として宇治山田町へ柴薪を出していた。


下村
しもむら

[現在地名]高浜町下

鎌倉かまくら村の北に位置する。青葉あおば山の支脈桐迫きりさこ山を境に西は丹後国加佐かさ(現京都府舞鶴市)。「若狭郡県志」に「下村属内浦、去小浜八里許也」とある。


下村
しもむら

矢野やの庄内のいくつかの小集落の集合体をさす用語で、地頭方・領家方(東寺方)にまたがり、上村に対応する。上村と同じく下地中分に先だって作成された実検取帳・中分分帳にはみえない。学衆評定引付(東寺百合文書)の永和三年(一三七七)一〇月二〇日条・同二三日条によれば、京都東寺の代官祐尊を訴えて同年一月に惣庄一揆が起こった際、一〇月になって上村名主らは小河入道を仲介に祐尊に対面したのに対し下村名主らはあくまで屈服せず、東寺を困惑させた。


下村
しもむら

[現在地名]松本市島内 東方

もと犬飼いぬかい村一千五〇〇石余の村高に入っていたが、慶安検地後高分れしている。奈良井ならい川沿いの村で犬飼城山に対し、犬飼新田の西の対岸にある。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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