池田庄
いけだのしよう
現豊田町のほぼ全域および現浜松市・磐田市・竜洋町にまで広がる広大な山城国松尾社(現京都市西京区松尾大社)領庄園。東は天竜川、南は遠州灘、西は美園御厨(現浜北市)・河勾庄、北は羽鳥庄(現浜松市)と境を接した。
嘉応二年(一一七〇)と推定される官宣旨案(民経記寛喜三年一〇月巻紙背文書)に「池田庄」とみえ、磐田郡内に所在し、松尾社に寄進されて成立した。同宣旨案によれば、これは同社領河村庄(現菊川町)が永暦元年(一一六〇)に勧請された京都新日吉社(現京都市東山区)に寄進されてしまい、松尾社の神事が闕怠し異変が続いたため、河村庄の代りに寄進されたものである。松尾社は本社使櫟谷禰宜秦宿禰を現地に派遣し、嘉応三年二月、国使・官使立会のもと立券状が作成された。この立券状写(松尾大社文書)によれば、庄内には田三八五町余(現作田二六一町余・年荒六〇町余・田代六四町余)・畠一六四町余(常荒四九町余・野五八町余・川三〇余町・浜二町余・川原四〇町余)・在家五〇宇があった(写のため小計と坪付に脱漏があるが、庄域の三分の二が河川や沼沢地、あるいは原野であった)。また富田(現浜松市)・葛巻(現豊田町か)・大見村(現浜松市)・中村(現浜松市)・相撲田(現豊田町か)・岡本郷(現豊田町)・池田郷(現豊田町)・吉富(現未詳)・国吉保(現浜松市)・高木郷(現竜洋町)・草前郷(現磐田市)・気子島(現豊田町)・長須賀(現磐田市)・牛嶋(現磐田市か)・島(現竜洋町)から構成されていた。
全体として北辺東西約二キロ・南辺約四キロ、南北は約七―八キロの南北に長い台形をなしている。東境の天竜川の流路は現在のものではなく、現磐田市寺谷の辺りから現流路と分岐し、磐田原台地西縁の西方を南下するものであった。この天竜川の渡の中洲に脇示が打たれており、東海道が当庄内を通過していたと考えられる。艮(北東)の境にみえる古河は、現在の天竜川流路におおよそ相当すると考えられる。また境を明確化するために通常の四本の示のほかに五本の脇示が打たれ、そのうち三本は境相論が起きた川勾庄(河勾庄)との境に打たれている。
池田庄
いけだのしよう
常楽会免田等と雑役免田からなる興福寺領荘園。延久二年(一〇七〇)の興福寺雑役免帳の添上郡に
<資料は省略されています>
とある。不輸免田畠の内訳と条里(括弧内は坪数)は、常楽会免田畠六町が二条四里(五)、三条四里(二)、長講免田五町が二条四里(七)、大宅寺田五段が三条三里(一)、兎養寺田九段三百歩が三条三里(二)、福田院田二反が三条三里(一)、坂合社神田八段が三条三里(二)、伝法院田六段が三条三里(二)である。公田畠の条里は二条三里(四)・四里(二〇)、三条三里(一〇)・四里(一七)である。以上の条里によると、池田庄の所在は現池田町から大和郡山市井戸野町辺りに比定される。
文治二年(一一八六)の大和池田庄丸帳(根津文書)には
<資料は省略されています>
(以下貞垣名、助方名、則元名、国則名、重遠名、則行名、安近名、重方名、国末名、末貞名などは略)とある。
池田庄
いけだのしよう
池田郡にあった庄園。京都新熊野社領。庄域は池田郡を中心にその周辺に及び、龍徳寺に伝える文書によって知ることができる地名は、現池田町内の田中・八木(養基神社の辺りか)などであり、これ以外に池田八日市庭・池田市庭・池田市若一王子・古市庭・あかめかいとなどの地名もあるが、比定地は未詳。これらのほかにも萩原・草深・山洞・小寺・藤代・田畑・青柳・六ノ井・東野・上田・砂畑・沓井・宮地・小牛垣内・願成寺・般若畑・段・舟子の辺りにまで庄域が及んでいたとされる(池田町史)。初見は養和元年(一一八一)一二月八日の後白河院庁下文案(新熊野神社文書)で、勅事・院事・役夫工・大嘗会・斎宮群行・公卿勅使・宇佐使・乳牛役・造内裏雑事及臨時国役などの課役を停止すべしとした二八ヵ所の諸国庄園のなかに当庄の名がある。
しかし庄園としての成立はもっと古く、平安時代の中頃池田郡に土着して池田氏を名乗った紀氏一族が当庄の成立に大きな役割を果していたと考えられている(岐阜県史)。
池田庄
いけだのしよう
古代の和泉郡池田郷(和名抄)に成立した庄園。奈良春日社(興福寺)領。庄域は現和泉市の池田谷地域のうち、宮里庄に含まれていた国分・平井・黒石を除いた地域、すなわち池田下・室堂・和田・三林・万町・浦田・鍛冶屋・納花に比定される。当庄は上方(上村)・下方(下村)に分れていたが、池田下が下方にあたり、室堂以下が上方であったと推測される。なお池田庄上方に属する村に箕田村があったが(後述)、万町・浦田・鍛冶屋の地域にあたるという(和泉市史)。
寿永二年(一一八三)の高橋吉永私領田畠荒地目録并処分帳(高橋由雄氏所蔵文書)に池田庄が所見。後欠文書なので全貌はわからないが、庄内の里名として鳥方里・往坂里・都太里がみえ、条里制がしかれていたことが知られる。建久九年(一一九八)和泉国司平宗信が御禊大嘗会費・後鳥羽上皇熊野御幸費などを春木庄や当庄に賦課してきたが、これを不満とした当庄住民が従わなかったため、国司目代らが当庄で種々の狼藉に及んだ。
池田庄
いけだのしよう
荘域は足羽川上流河谷一帯を占め、「越前国名蹟考」に記された「池田郷」(小畠・千代谷・下荒谷・大本・西青・東青・稗田・籠掛・蒲沢・松ヶ谷・持越・野尻・谷口・安善寺・金見谷・水海・美濃俣・藪田・稲荷・月ヶ瀬・志津原・池田河内・田代・土合・木谷・皿尾・割谷・常安・寺島・市・上荒谷・東角間・新保・東俣・杉谷・魚見・菅生・西角間・定方・板垣・池田・山田・寺谷・広瀬・清水谷・柿ヶ原)四六ヵ村にほぼ一致すると思われる。
「平家物語」長門本に「兵衛佐殿、北条四郎時政に仰せて、越前国池田庄をもて、法住寺仙洞造進せらる、その奉行せしむべきよし、かねて御下文を賜はる、是は文治二年丙午六月二十八日の事也」とある。
池田庄
いけだのしよう
近世の池田村域にあったとみられる庄園。庄名は古代の池田郷(和名抄)に由来する。貞応三年(一二二四)頃の宣陽門院所領目録(島田文書)に「一 女院別当三位家領(中略)新御領自上西門院被進之(中略)河内国池田庄」とある。上西門院とは鳥羽上皇の皇女統子内親王で、同目録などによると、当庄は鳥羽院政期に待賢門院に寄進されて成立した寄進地系庄園である。大治五年(一一三〇)に待賢門院が京都洛西に法金剛院を建立したとき同院に寄進され、久安元年(一一四五)に待賢門院は娘の上西門院に一括譲与した。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報