朝日日本歴史人物事典 「三枝斐子」の解説
三枝斐子
生年:宝暦9(1759)
江戸後期の文学者。旗本紀伊守土屋廉直の妻。夫は1000石の禄高を食み江戸飯田町に居住した(『幕士録』,1827)。名は子章。茅淵,清風と号した。文化3(1806)年夏,夫が堺奉行に就任し,80代の親を江戸に残し,夫婦は和泉へ赴く。下向中の辛い事,面白い事を高雅な和文で自在に綴った紀行文『旅の命毛』(1809序)と,未刊の在任記録『和泉日記』(1809)は精彩に富み,当時から女流和文の好著と目されていた。「此女房性質文才有りて稽古の力うすし。師承なきまゝに,あやまりも折々みゆれど,玉の疵とやいふべき」(岡本保孝『難波江』)。教訓書『枝氏家訓』2巻も写本で伝わる。<著作>『旅の命毛』(『続帝国文庫』,『女流文学全集』3巻)
(ロバート・キャンベル)
出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報