ボルテール(読み)ぼるてーる(英語表記)Voltaire

翻訳|Voltaire

日本大百科全書(ニッポニカ) 「ボルテール」の意味・わかりやすい解説

ボルテール
ぼるてーる
Voltaire
(1694―1778)

フランスの啓蒙(けいもう)思想家、作家。本名はフランソア・マリ・アルエFrançois Marie Arouetで、筆名のボルテールは、アルエ・ジュニアArouet le jeuneの替え名(アナグラム)。彼は2月21日、公証人の息子としてパリに生まれ、イエズス会系の名門校ルイ・ル・グランに学んだ。在学中から文学の分野で早熟な才能を示したといわれる。父親は彼を後継ぎにするつもりだったが、息子のほうはますます文学への傾斜を深めていった。

 1717年、時の摂政オルレアン公を揶揄(やゆ)する風刺文を書いたかどでバスチーユ刑務所に投獄される。獄中で完成させた悲劇『エディプ』Œdipe(1718)が大当りをとり、以後、ボルテールと名のるとともに、このころから劇作の成功で得た資金をもとに事業にも投機した。そのころ、市民階級出のボルテールの勇名が文壇にとどろくのを喜ばない一貴族といさかいをおこし、再度バスチーユに投獄された。このように特権階級だけが優遇されるフランス社会に見切りをつけ、1726年には、彼は自らの意志で「自由の」国イギリスに渡り、2年7か月滞在した。その間、シェークスピアをじかに観劇したり、同時代のイギリスの作家ボーリングブロークHenry St. John, 1st Viscount Bolingbroke(1678―1751)、ポープ、スウィフトらと交流したり、また渡英目的の一つでもあった叙事詩『アンリアド』(1728)を出版した。

[市川慎一 2015年6月17日]

シレー滞在の10年

1729年に帰仏すると、シェークスピア劇の影響下に、劇作『ザイール』(1732)などを発表する一方、イギリスの見聞記という装いのもとにフランス社会を痛烈に批判した『哲学書簡(イギリス書簡)』(英語版1733、フランス語版1734)を刊行した。イギリスを極端に礼賛したこの書の真意を見抜いた当局側が直ちに焚書(ふんしょ)に処したことから、身の危険を感じたボルテールは、愛人デュ・シャトレ夫人Émilie, Marquise du Châtelet-Laumont(1706―1749)を伴い夫人の邸(やしき)のあるシレーに逃亡し、約10年間滞在した。シレー滞在はボルテールと愛人にとって絶好の学究生活の10年(1734~1744)となった。彼はこの間、のちに執筆される歴史作品や哲学コントのための膨大な読書と資料収集に没頭した。シレー時代には、文学作品として、哲学詩『この世の人』(1736)、劇作『マホメット』(1741)、『メロープ』(1743)などが、また、哲学作品として、『人間論』(1738)、『ニュートン哲学入門』(1738)などが執筆された。

 1745年の修史官任命に続いて、翌1746年、彼はアカデミー・フランセーズ会員として迎えられるが、舌禍事件のために再度パリを離れることとなる。このころ、名声と失意との間を行き来するわが身をテーマにした哲学コント『ザディーグ』(1747)を書いた。

 愛人デュ・シャトレ夫人の死後、ボルテールは、プロシアフリードリヒ2世の招きでポツダムに赴き、そこで史書『ルイ14世の世紀』(1751)や哲学コント『ミクロメガス』(1751)を発表するが、フリードリヒ2世との不和とベルリン翰林院(かんりんいん)(科学アカデミー)院長モーペルチュイとの反目からプロシアを去る。

 ルイ15世との確執からパリに戻れないボルテールは、一時ジュネーブの近郊サン・ジャン(彼は悦楽荘Les Délices(レ・デリス)と命名)に居を構えるが、自作芝居の上演をめぐって、ジュネーブ宗務局と軋轢(あつれき)をおこす一方、1755年11月1日にリスボンを襲った大地震をめぐる詩で、J・J・ルソーと激しく論戦した。この大地震を契機に、1759年にライプニッツやポープの楽天主義を皮肉った哲学コントを匿名で出版し、大成功を収めることになるが、これがボルテールの最高傑作と目される『カンディード』(1759)である。彼は哲学的には深い思想を表明したわけではないけれども、このコントの名文句「われわれの庭(畑)を耕さねばならない」が示すように、人間が人知の及ぶところでない神の摂理や存在に深入りする愚を戒め、人間精神は権威や宗教から自由であらねばならないと主張した。この精神は文明史と考えられる大著『風俗史論』Essai sur les mœurs(1756)にも貫かれている。

[市川慎一 2015年6月17日]

フェルネーの長老時代

1760年にはスイスの国境に近いフェルネーに安住の地をみつけ、近郊の農民に呼びかけ農村の改革に着手するとともに、貧民救済のための時計工場もつくった。彼はこの地に君臨した約18年間、「フェルネーの長老」と称されながら、自作の劇作を上演したり、ヨーロッパ各地から文学者、知識人を迎えたりした。この期に書かれた作品としては、劇作『スコットランド人』(1760)、『ミノスの掟(おきて)』(1772)などがあり、哲学コント『ジャノとコラン』(1764)、『自然児』(1767)、『四十エキューの男』(1767)、『バビロンの女王』(1768)がある。

 フェルネーの地にボルテールの名声を頼って到来した人のなかには、誤って処刑されたジャン・カラスJean Calas(1698―1762)の遺族らもいた。彼はそういう人たちの冤罪(えんざい)の汚名をすすぐべく独自の調査を行い、カラス事件L'Affaire Calas(1762)、シルバンSirven事件(1764)、シュバリエ・ド・ラ・バールchevalier de La Barre事件(1766)に鋭いメスを加え、その名誉回復に貢献した。こうして判明した諸事実にボルテール独自の宗教観を盛り込んで、いわゆる寛容の精神を説いた『寛容論』Traité sur la Tolérance(1763)も、このころ執筆している。

 ディドロ、ダランベール編の『百科全書』(1751~1772)にも当初から並々ならぬ関心を示しただけではなく、自らも歴史を中心に数々の項目を執筆し協力した。のちに、それらの項目を自分で編集し直し、彼自身の理想とした『哲学辞典』(1764)という形で刊行した。

 長らく対立関係にあったルイ15世の死後、パリ帰還を決意したボルテールは市民の熱狂的歓迎のなか1778年2月10日パリに凱旋(がいせん)し、自作の戯曲『イレーヌ』Irène(1778)はコメディ・フランセーズで上演された。けれども長旅の疲労と連日の大歓迎という極度の興奮のために、ボルテールはこの年の5月30日にパリで永眠した。

[市川慎一 2015年6月17日]

『池田薫訳『運命・ザディーグ他4篇』(1938・白水社)』『高橋安光訳『哲学辞典』(1988・法政大学出版局)』『池田薫訳『浮世のすがた他6篇』(岩波文庫)』『吉村正一郎訳『カンディード』(岩波文庫)』『林達夫訳『哲学書簡』(岩波文庫)』『丸山熊雄訳『ルイ十四世の世紀』全4冊(岩波文庫)』『中川信訳『カラス事件』(冨山房百科文庫)』『アンドレ・モロワ著、生島遼一訳『ヴォルテール』(1946・創元社)』『高橋安光著『ヴォルテールの世界』(1979・未来社)』『小笠原弘親・市川慎一編著『啓蒙政治思想の展開』(1984・成文堂)』


ボルテール(年譜)
ぼるてーるねんぷ

1694 2月21日、パリに生まれる
1704~1711 イエズス会系の名門校ルイ・ル・グランに学び、優秀な成績を収める
1717 5月16日、筆禍でバスチーユに投獄される
1718 4月14日釈放。悲劇『エディプ』
1726 4月17日、シュバリエ・ド・ロアンシャボとのいさかいのため再度バスチーユに投獄される。5月、イギリスに渡り、2年7か月滞在。この間スウィフト、ポープらと交遊
1731 『カルル12世』
1734 4月『哲学書簡(イギリス書簡)』。5月3日焚書、著者に封印状が出、愛人デュ・シャトレ夫人とシレーへ逃亡。約10年間滞在(~1744)
1736 9~10月『この世の人』をめぐるスキャンダル
1738 『人間論』『ニュートン哲学入門』
1740 9月11日、フリードリヒ2世に謁見
1745 3月27日、フランス修史官に任命される
1746 4月25日、アカデミー・フランセーズ会員となる
1749 9月10日、デュ・シャトレ夫人死去
1750 6月25日、プロシアへ出発
1751 3月『ルイ14世の世紀』
1753 3月26日、フリードリヒ2世との不和とモーペルチュイとの反目からポツダムを去る
1755 3月、ジュネーブのサン・ジャンに居を構え、栖(すみか)を悦楽荘(レ・デリス)と命名。12月、リスボンの大地震(11月1日)をめぐり、『リスボンの災厄に関する詩』を発表。それについてJ・J・ルソーと激しく論戦
1756 『百科全書』の項目「ジュネーブ」執筆のためダランベールが悦楽荘に滞在
1759 1月『カンディード』
1760 スイスの国境に近いフェルネーに移住
1762 8月、カラス事件を機に『寛容論』を執筆
1764 5月、哲学コント『ジャノとコラン』
1767 9月、哲学コント『自然児』
1773 2~3月、有痛性排尿困難症に苦しむ
1778 2月5日、フェルネーを去り、パリに向かう。3月16日、コメディ・フランセーズで自作の戯曲『イレーヌ』の初演。5月30日、長旅の疲労も加わりパリで永眠。享年84歳

出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「ボルテール」の意味・わかりやすい解説

ボルテール
Voltaire

[生]1694.11.21. パリ
[没]1778.5.30. パリ
フランスの作家,啓蒙思想家。本名 François-Marie Arouet。著作は哲学,詩,戯曲,批評,歴史,小説,書簡などにわたり膨大。 1726~28年のイギリス滞在後,『哲学書簡』 Lettres philosophiques ou lettres anglaises (1734) でイギリス経験論をフランスに導入,専制批判,教権批判を開始。理神論をとり,無神論には反対したが,狂信や偏見を激しく攻撃し,カラス (→カラス事件 ) ,シルバン,ラ・バール迫害事件に際しては寛容を訴えた。またディドロらの百科全書派の運動を支持し,フランス革命の精神的基盤を準備した。合理精神に培われた最もフランス的な明快で機知にあふれる 18世紀散文の創始者,すぐれた風刺作家として独自の地位を占めている。悲劇『ザイール』 Zaïre (32) ,小説『ザディグ』 Zadig (47) ,『カンディド』 Candide (59) ,歴史書『ルイ 14世の世紀』 Le Siècle de Louis XIV (51) ,『習俗論』L'Essai sur les mœurs (56) ,『哲学辞典』 Dictionnaire philosophique portatif (64) など。

出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報