ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「フェルディナンド1世」の意味・わかりやすい解説
フェルディナンド1世[ナポリ王]
フェルディナンドいっせい[ナポリおう]
Ferdinando I, re di Napoli
[没]1494.1.25.
アラゴン家出身のナポリ王 (在位 1458~94) 。フェルランテとも呼ばれる。アラゴン王兼シチリア王アルフォンソ5世 (度量王)の庶子。 1442年父がナポリを征服してナポリ王となったときカラブリア公に任じられ,58年父が没するとナポリ王を継いで1世となった。即位早々,アンジュー家および有力諸貴族の反抗を受けて苦境に立たされたが,62年のトロイアの戦いで勝利を収め,政情は安定した。民衆の支持を得て貴族勢力に対抗するため,行政・財政上の諸改革を行い,また 65年には大学を再開し,知識人の支持を得ることにも努めた。さらにロージの和以後の国際的均衡を利用し,子女の政略結婚を通じて諸国との友好関係の樹立に尽力。諸政策はほぼ成功したが,82年にベネチアとの間に生じたフェララの戦い以後,戦費調達による財政破綻が国内に混乱を呼起し,国王に対する貴族の陰謀が仕組まれた。またフランス王シャルル8世がナポリの王位の相続権を主張すると,教皇およびミラノのスフォルツァ家がこれを支持し,フェルディナンドは国際的な孤立化に追込まれ,苦境のうちに没した。
フェルディナンド1世[両シチリア王国]
フェルディナンドいっせい[りょうシチリアおうこく]
Ferdinando I, re delle Due Sicilie
[没]1825.1.4. ナポリ
フェルディナンド4世としてナポリ王 (在位 1759~1806) ,同3世としてシチリア王 (在位 1759~1815) ,両シチリア王国初代の王 (在位 16~25) 。 1759年父がカルロス3世としてスペイン王位についたので幼少ながらナポリとシチリア王となった。成人後オーストリアのマリア・カロリーナと結婚,その影響でフランス革命とその理念に反対し,絶対主義的な政治を行なった。イギリスの H.ネルソンの支援で,フランスの支持するローマ共和国を攻めたが,逆に 98年フランス軍がナポリに侵入,パルテノペア共和国を樹立したので,シチリアへ亡命。 99年一時帰国したが,1806年再びナポレオン軍に追われシチリアへ逃れ,専制を緩和して憲法を与えた。ナポレオン没落後の 16年両シチリア王フェルディナンド1世としてナポリへ帰還。
フェルディナンド1世[メディチ家]
フェルディナンドいっせい[メディチけ]
Ferdinando I, dei Medici
[没]1609. フィレンツェ
トスカナ大公 (在位 1587~1609) 。兄フランチェスコ1世の跡を継いで 1587年トスカナ大公となった。大規模な干拓事業に着手して農業生産の増大に成功し,またリボルノ港の開発を進めて海外交易を活発にした。対外的には従来のスペイン一辺倒策を改めて,フランスとの接近をはかり,また学術,文芸の保護にも意を注いだ。
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