上尾宿(読み)あげおじゆく

日本歴史地名大系 「上尾宿」の解説

上尾宿
あげおじゆく

[現在地名]上尾市本町ほんちよう一―六丁目・上尾宿・上町かみちよう一―二丁目・宮本町みやもとちよう仲町なかちよう一―二丁目・愛宕あたご一―三丁目・日の出ひので二丁目・同四丁目・東町あずまちよう一―三丁目・緑丘みどりがおか一―二丁目・西宮下にしみやした一―四丁目

現上尾市のほぼ中央、大宮台地上にある。北と東は上尾村と入会い、東はしば川を隔てて上平塚かみひらつか村・下平塚村、南は上尾下村、西は谷津やつ村・柏座かしわざ村。年未詳の旦那引付注文写(熊野那智大社文書)に「足立ママあけをの郷原宿」とみえる。原宿はらじゆくは現原市はらいちの旧名称であるから、中世の上尾郷は近世の上尾宿・上尾村・上尾下村から原市村辺りまでを含む一帯と推定されるが未詳。

近世には上尾宿・上尾町と称され、江戸初期には加宿である上尾村を含むこともある。中山道の江戸から五番目の宿駅として賑わった。足立郡上尾領に属する(風土記稿)。天正一八年(一五九〇)九月一〇日、旗本西尾吉次に宛行われた足立郡内五千石の内に含まれていたとみられ、元和四年(一六一八)西尾氏の常陸土浦移封により収公された(寛政重修諸家譜)。田園簿では上尾町とあり、田三九八石余・畑七〇三石余。内訳は旗本伊藤安兵衛分五六五石余・同伊藤三之丞分三三二石余・同松下彦兵衛分二〇四石余で、のちの上尾村・上尾下村を含む。「風土記稿」は伊藤安兵衛分が上尾宿に相当するとしているが、伊藤三之丞分の一部も含むか。分村の時期は不明だが、後世の写ながら元和九年八月の上尾宿村御縄打水帳と九月の上尾上村御縄打水帳(小川家文書)が残り、中山道宿駅上尾宿の成立は元和までさかのぼるとも考えられる。上尾宿村御縄打水帳写によれば田一八町二反余・畑七一町二反余・屋敷五町九反余、屋敷数九五筆(うち抱百姓三四)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

世界大百科事典(旧版)内の上尾宿の言及

【上尾[市]】より

…レクリエーションセンターとして上尾運動公園,さいたま水上公園がある。【新井 寿郎】
[上尾宿]
 中山道武蔵国の宿駅。江戸より9里。…

※「上尾宿」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」