朝日日本歴史人物事典 「上杉顕定」の解説
上杉顕定
生年:享徳3(1454)
戦国時代の武将。山内上杉氏の当主。関東管領。通称四郎。法名可諄。越後(新潟県)守護上杉房定の次男。文正1(1466)年に関東管領上杉房顕が病死すると,越後から迎えられて山内上杉氏の当主となり,関東管領も務める。当初は武蔵五十子に在陣して古河公方足利成氏の軍と対峙。文明8(1476)年に家臣の長尾景春が反乱を起こすと一時敗れて五十子から逃亡するが,まもなく同地を回復して攻勢に転じ,同10年には成氏と講和し,景春の居城の武蔵鉢形城(埼玉県大里郡)を落としてここに入り,反乱を鎮圧した。こうして長年の内乱が終わると,顕定は鉢形を拠点として関東の政治を主導した。しかし自立の動きを強めた扇谷上杉氏(定正)と対立し,長享1(1487)年には山内・扇谷両上杉氏の戦闘が開始され,関東は再び内乱に突入した。顕定は実家の越後上杉氏の協力を得て次第に扇谷方を圧倒し,永正2(1505)年には勝利を収めた。同7年,越後で長尾為景と戦い敗死。13歳で関東に入ってから40年余の間,慢性的戦乱状況のなか,上杉氏の中心として秩序の維持に努めた力量は評価されるべきであろう。
(山田邦明)
出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報