上津江保
こうづえほ
上高末・下高末を遺称地とし、別所の一つに麦草(現美星町)があることから、美山川流域の矢掛町北部から美星町東部一帯に推定される。
元亨二年(一三二二)閏五月二六日の後宇多法皇院宣(案、醍醐寺文書)で山城醍醐寺座主道順から弟子の内大臣道祐(内大臣中院通重の子)への譲与が安堵されており、醍醐寺報恩院領であった。延文六年(一三六一)には宝福寺(現総社市)領で同年三月二三日に上津江庄年貢のうち五〇石を同寺門徒が寄宿する本寺の京都東福寺天得庵の支払に、米二石、雑穀一石を宝福寺満足庵・霊照庵両塔頭の支払に充て、残りを宝福寺造営・僧食などに充てることを定めている(「宝福寺条々式目」宝福寺文書)。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報